戦略的思考を超えて[3-3]

再び結び合うものとしての「幸福(エウダイモーニア)」荒木勝(岡山大学教授)
– 知性的な力量と実践的な力量 –

 幸福と幸運は異なると先ほど申し上げましたが、しかしもちろん、運も幸福の一要素であることを無視はできません。結局、どんなに奮闘努力した結果得た幸福でも、たいていは運がそこにはたらいている。アリストテレスは幸運といったものを度外視しているわけではない。
 たとえば幸運のなかには、夫婦関係やお金や仕事に関して運に恵まれるかどうかということが大きな要素としてある。
 アリストテレスはなかでもよき夫、よき妻に恵まれることが人生で最高の幸運だといっているのですが、お金だって一生懸命働いただけではなかなか儲からない。タイミングをうまくつかむとか、人との出会いとかのさまざまな偶然のはたらきがあってお金も儲かったり儲からなかったりする。仕事がうまくいくか、事業が成功するかといったことだって同様ですよね。
 子どもだって、優れた親から優れた子が生まれるとは限らない。その逆もあるわけです。それから男でも女でも美貌に恵まれることはかなり運ですし、会社の上司にとっては優秀な部下に恵まれるかどうかも運に左右される。友人や恋人もそうでしょう。
 アリストテレスにしても東洋思想にしても、やっぱりそれは人間の力を超えたなんらかの神的なもののはたらきによると考えているのであって、ある意味で幸運はその恵みであり贈与であるととらえておいた方がよい。
 私自身が専門にしている政治学にしても、あるいは経済学にしても完全には人の思うようには社会は動かないということを、いつも目の前につきつけられているんです。そのことは冷厳に見つめておく必要がある。経済学にしても、限られた部分的なことをピックアップして、その因果関係をアーキテクチャーとして数学的に分析はできても、全体的長期的な予測ということではほとんど説明できた験しがないわけです。政治に関しては、みなさんよくおわかりのように、「一寸先は闇」の世界です。そういう意味では、政治も経済も運というものに大いに左右されてくる。
 しかし、ここが肝心ですが、先ほどからお話しているように、幸福は幸運だけでは得ることができないというのも事実でしょう。運に恵まれるだけでは、人間はけっして満ち足りることはない。運には幸運もあれば、当然不運もある。そんな運に翻弄されながらも、自分の力で幸福を獲得したいという欲求が万人のなかに必ずみられる。
 ですから逆にいえば、どんな逆境にあってもその逆境に折り合いをつけ、そこに幸せを見いだしていくように私たち人間の誰もが努力することも事実なのです。そういう意味で、幸福は幸運に還元できないというふうにアリストテレスはいっているのです。
 そうすると、では幸福とは、詰まるところいったいなにかということになりますが、彼は幸福とは、われわれのなかのもっともよい事柄を追求することにあるとしているのです。聞き慣れない言い方で「最高善」といいますけど、もっとも善いものを私たちが追求しようとするときに幸福は訪れるだろう、多くの人々もそういうふうに考えるだろうといっているんですね。運も努力のうちだ、という言葉を思い出してもらってもいいでしょう。
 だから問題は、では最高に善きものとはなにかということになる。もっとも善いもの、卓越的なものとはなにかということが、『ニコマコス倫理学』の最重要テーマになってくるのです。
 これまでにも他の場で少しお話しましたが、アリストテレスはそれをふたつに分けて、知性的な力量と実践的な力量というふうにいっている。それらを獲得し発揮したときに、ほんとうの歓びすなわち幸福が訪れるだろうと彼は考えている。
 ひとつは知的な力量による、知ることの歓び。なんの役に立つのかという以前の、純粋に知ることの歓び。科学などの発明・発見などでも、真に優れた研究者はそういう純粋な動機から大きな成果をあげる場合が多い。宗教的な面で、悟りを得ることとか神を見る体験とかも、そういう知性による幸せにほかならないでしょう。
 それからたとえば美術や音楽。美的なものを見たり聴いたりしたときの歓び。それも美にたいする卓越した知性のはたらきとして幸福の範疇に入ってくるだろう。
 実践的な力量は自分と自分の隣人、隣近所というだけでなく、たとえば夫や妻、子どもなどを含めた家庭でもそうですが、自分と”他者”によい事柄をもたらすための力量。これもまた幸福とは切れない関係がある。大勢の人たちに喜びをもたらすという場合、企業でいえば経営者の実践的力量が問われることになるのです。
 さらに自分の国や世界全体に、幸せをもたらすといったかたちで実践的力量を発揮しなければならないのが政治家です。いうまでもなく、知的、実践的力量は互いに関連しあっているものなのですが、わかりやすくいうとこういうことになるでしょう。要は、卓越的力量(アレテー)とは知的、実践的力量を指しており、これらを発揮したときに得られる喜び(歓び)が幸福であるという考え方は、多くの人が納得し共有できる考え方だろうということです。

– 愛こそが幸福の最高の条件 –

 ここで、アリ研のこれまでの講義に参加していない人のために少し補足しておきますと、アリストテレスは実践的力量をもう少し細かく分けておりまして、そこにはいわゆる戦略的な思考や行動も含まれてきます。これまで「戦略的思考を超えて」ということでお話をしてきましたが、「反戦略」でない以上、そこに戦略的な思考をいっさい認めないということではないのです。
 これはわかりやすい例を出しますと、公認会計士などをはじめとするような、経理的、会計的な功利性、合理性の世界です。つまり、目的・手段を功利的に選択していくという戦略的な思考がないと、家庭も企業も政治もうまくいかない。世俗的な成功もその可能性が保証されないということになります。目的・手段の効率的な選択には当然、数字をふまえたうえでの的確な判断力が必要なわけで、そこではIQ(知能)を重視した思考が評価されるのです。
 ただ、この戦略的思考だけを極限的に追求していくとどうなるかということを考えてみていただきたい。結局それは目的にたいして、より功利的な手段を選択することばかりに思考が集中することになる。手段の合理的選択が目的に先行してしまう。そして、自分だけの、あるいは自社だけの、自分の家族だけの、自分の階層だけの利益になればよい、そのために成功すればよいということに帰着していくことになるでしょう。
 そうなると当然、当人以外の人や集団から、その成功は共有しえないから許しがたいという評価を下されるはめに陥る。利益を自分の会社だけにはいってくるようにして、その周りの外注先や諸々の関係者などが死にたえることになったら、それはやはり何のための企業かという大義や理念が問われることになる。また家族においても、自分だけが計算づくで楽しくいい思いをしても、妻や子どもたちとその思いを共有できなければ、真の楽しさを味わうことはできない。どこか充足しきれない空しさが心の底に残るでしょう。身近なことでいいましたが、そういう意味で戦略的な思考は”それだけでは”一時の幸福感に空しさがつきまとい、周りにも虚無的な気持ちを引き起こすであろうことは、やはりしっかりと自覚しておく必要があります。世の中、戦略ばかりになったら、こんな息苦しいことはありません。
 では戦略的思考を超えるものはなにかという本題に戻りますが、それはアレテー、卓越的力量とか徳と呼んでいるものの発揮と強く関わってくる。端的にいって、アレテーとは自分と他者との善、この場合利益といってもいいと思いますが、そのバランスをとることです。パブリック・グッズという言葉がありますが、このグッズ(goods)が善=財の両方の意味をもっていることを想起するとわかりやすいかもしれません。また、バランスは「正義」における比例的配分と言い換えてもいいかもしれないけど、要は正義というのは、自分と他者との善=利益のバランスをとるというかたちでしか発揮できないことなのです。
 自社と他社の繁栄のバランスを保つ。夫と妻の愛情のバランスを配慮する。さらにいえば日本と世界との経済のバランスをとるといったような、そういう思考と行動が正義ということです。このバランスは同一ということではないし、必ずしも「私有」を否定しているのでないことは、前にお話したとおりですが。
 そこで、正義には知慮の徳が求められる。現実に則していえば、正義は当面する自分と他者との利益のバランスです。それはあくまで「当面する」バランスであって、人間社会は時の経過にともなって大きく動き、変化しているわけです。ですから過去を調べ反省し、未来を透かし見て現在の正義の行使をしていかなければならない。
 「全体」をぼんやりとでもいいから掴みとる予見能力。予知能力といってもいい、けっして数字からだけではわからないような直観的な能力が求められてくる。過去の人類が蓄積してきた経験と智恵の遺産を現在の目でとらえ直し、未来に役立てるというかたちで発揮される善=バランスが知慮の徳であるといっていい。
 たとえば、ある人の顏を見ることによって、その人が経験してきた過去のさまざまな事柄、苦労や歓びなどを推察する能力。よく顏の表情やシワを読み取るというようなことがいわれますが、そういう過去への賢察力、あるいは過去に基づいた未来への洞察力が知慮のなかに含まれている。
 また、たとえば身体に障害をもつ人々への配慮といったこと。つまり自分と他者との利益のバランスをとることにおいて、うまく公平に力を発揮しえなかったり、発言の場が少ない人たちとの関係をどのように築くかといった問題。正義というのは多くの場合、相手と自分が互いに競争あるいは闘争することを通じて実現されていく。議論したり論争したりしながら、正義というものが築かれていく。
 ところが問題なのは、発言する力のない人や、その場をあたえられることのない人、あるいは発言することが本来的にできない自然(環境)やそこに生きるものたちが、結果を省みない粗暴な力の行使によって被害をこうむることがないようにバランスをとろうとする知恵、それが知慮の徳でもあるのです。
 ですから知慮というのは、そういう正義のあり方を常に問いかける知性の能力です。それを人間はちゃんと習得していく必要がある。そのことによって、幸福は自分の力によって追求できるものとなりうる。
 ただし、アリストテレスの場合、それだけで徳の習得は終わらない。私たちが正義を追求するときに、またそのための知慮を発揮するときに、さらにうんと深いところで、信義、信頼、希望、愛といった幸福にとって根源的な能力が要求されると彼はいっている。
 正義のバランスをとろうとしたときに、自分を信頼もしない、それどころか敵対意識をむき出しにするような人に対しては、利益のバランスだってとる気にはならないわけですよ。あるいは男女の関係だって、男か女のどちらか一方のみの愛情や行動が突出していて偏っていたら、そこにバランスのとれた正義というものはない。
 ということは、正義とか知慮といったものが発揮されるための前提として、お互いに愛し愛されるという関係がないと、そもそもからして正義や知慮を追求しようという意欲さえ湧いてこない。そういう意味で、人間の徳すなわちアレテーを発揮させる究極的な力は、やはり愛の力だとアリストテレスは訴えているのです。
 しかもその愛には、大雑把にいうと、愛の二面性、いうなれば横の愛と縦の愛がある。つまり自分自身を愛する愛と他者を愛する愛。そして平等な関係の愛と親子や師弟関係などの”上下”の愛。愛というもののなかにも多様な愛のかたちがあるのだけど、重要なのは、愛するという徳にはひじょうに特徴的なことがら、すなわち喜びを引き出す力があるとアリストテレスはいっているわけです。
 今回私は、幸福というのは無上の喜びをともなう精神の状態であるということを強調していますが、愛のアレテー=徳というものこそ幸福の最高の条件であるということを強くいっておきたいのです。つまり喜びは愛を語るさいに欠かせぬものだとか、あるいは愛を補完するものだとかいわれますが、アリストテレスによれば愛という徳こそが、人間の力によって獲得できる幸福のなかで最高のものだといえるのです。愛も知性の一種だとすると、それが人間の知の卓越的な力によって獲得が可能な幸福なのです。
 いわゆる運命、運の偶然のはたらきや転変に耐える知慮の力といってもいい。すなわち、(1)合理的理性を含んだ知性と理性の結合である知慮、そして(2)その知慮と結合した宜の徳、愛と正義のアレテーの発揮のなかに幸福があるということ。このことを肝に命じておいてください。
 ここまでのところは、多くの研究者のうちでもだいたい一致したアリストテレス理解だと思います。ただ、この2つのことだけで幸福になるための条件がすべて満たされることになるのでしょうか。私がみなさんに私の理解としてぜひとも述べておきたいのは、幸福にとって3番目の問題です。それは最前からでてきている「神与」ということに関連する事柄です。
[3-4]へ続く


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

“戦略的思考を超えて[3-3]” への2件のフィードバック

  1. つっちー@雲南のアバター

    知慮のチカラ というのは バランスをとること
    ということは 理解できたのですが
    現実の イジメの問題や 自殺の多さの問題に対して
    いかなる 知慮の力が発揮できるのだろうか?
    そこのところが よく理解できない。
    つっちー@雲南

  2. 石井のアバター
    石井

    コメントありがとうございます。
    「そこのところ」は私にもよくわかりません。
    一ついえるのは、現実の個別の問題に関しては、すべてに通じるひとつの共通した「答え(処方箋)」はない。さまざまな個別の現場に則して、具体的に考え、模索し、対処していくことしか方法はないのではないでしょうか。
    そのための「考え方」として、基本となる知慮の力をどのように理解し適用すべきかをこの講義では論じているのだと私は了解しています。哲学が概念(言葉)の学である以上、そこに可能性と限界の両方があると認識しています。
    二つ目としていえるのは、哲学は無益ではない。生きることの意味・価値を根本から考えることは、生きていることの肯定と勇気を得ることに「役立つ」と、アリストテレスの思考を通して、荒木先生は訴えようとされているのではないでしょうか。そのことがあまりに等閑視されている。考えることを奪おうとする世相に対し、いまの社会のなかの哲学の不在こそが「まず」なによりの問題である、ということをいっている。
    個別の「答え」は自分で考え、実践することのなかにしかないわけですが、しかし、そこに共通する、共有できる考え方、つまり問いの立て方はあるはずです。その普遍性を探ることが哲学という方法、言葉のチカラだと思います。
    手前勝手な言い方ですが、つっちーさんのように、実践にむすびつけようとする疑問が出ること自体がひとつの「成果」だと感じています。そのことに哲学はひとつの知慮のチカラとしていかに応えるか、とぎれることのない課題だと思います。
    偉そうなものの言い方になってしまい、すみません。