戦略的思考を超えて[3-2]

再び結び合うものとしての「幸福(エウダイモーニア)」荒木勝(岡山大学教授)
– 「幸福」という言葉をめぐって –

 では、何をどのように選択するか。そのためには、そもそも幸福とはなにかということから考えていかねばならないでしょう。
 幸福というのは万人万様で、主観的なものだし、人によって幸福の感じ方は違うのではないかという考え方はたしかに一面では正しいでしょう。私とあなたの幸福にたいする価値観は同一ではないし、みながそれぞれ各自の幸福を追求しているのだから、幸福について論じることに意味はないのではないかというわけです。
 ところが、ある意味では不思議なことなのですが、万人が万様に幸福を追求しているのだけど、そこに万人に共通する、なにかしら普遍的な、幸福の根拠といったものがあり、「私とあなた」の間で幸福をめぐるコミュニケーションがちゃんと成り立つことも事実なのです。もし、私の幸福とあなたの幸福がまったく異なるものでなんの共通性ももたないものであれば、互いの話を理解することすらできない。
 
 われわれは日ごろから、ちょっとした会話の節々に「あなたはいま幸福ですか?」とか「幸せになってね」などという言葉をはさみ、互いに気持ちや情報の交換をしあっているわけです。そしてそこに、幸福とは何かということがおぼろげながらにしろ、一定の共通理解がなされている。そうでなければ幸福という言葉で会話は成り立たなくなってしまう。
 たしかに現代社会はこの幸福の意味、何が幸福かといったことがひじょうにわかりにくくなっていることは事実でしょう。個人の嗜好や主観を超えた幸福はあるはずなのですが、共通して語れる幸福の像(イメージ)がどんどんぼやけてきていて、幸福を語り合うことが困難な状況になってきている。
 だから、幸福なんて個々の価値観が決めることで、幸福と感じるかどうかは主観の問題なのだから、そんなことは意味がないという思考に陥りがちなのですね。でも、いまいったように、そんなことはないのです。むしろ、いまの世の中では「幸福論」そのものが成りたちにくいという、そのことを問題にすべきでしょう。ですから、まず、私たちが幸福というものを思い描くとき、一般的なあり方として幸福とはなんであるかを考えていきたいと思っているわけです。
 「幸福」という言葉からはいってみましょう。
 幸福の「幸」という漢字は、『説文解字』という中国の漢代にできた字典によりますと、吉にして凶をまぬがれる、とか、夭死(わかじに)をまぬがれる、という基本的理解があるのですが、もともと人偏のつく「倖」と同じ意味合いがあったとされています。僥倖といいますね。僥とは人の累々たる様を示していますので、幸=倖とは人々が群れ集い、活発な集団生活がそこにあること、そしてその一員であることが前提になっているのです。ちょっと拡大解釈しますと、他者とともにあることが幸福の根拠のひとつであることになります。
 また幸福の「幸」は、和語として「しあわせ」とも読みます(「幸福」と2文字で書いても「しあわせ」と音読みすることがあります)。しかし「しあわせ」というのは、もともと「幸」の読み方ではなく、「し(仕)」「あわす(合わす)」、つまり「仕合わせ」からきた言葉です。
 仕合わせとは、「仕」「合わす」ですから、出合いとかめぐり合いといったニュアンスをもっていて、事の成り行きがうまくいくという意味合いでつかわれるのです。つまり、原因はよくわからずとも、なにか事柄がうまく組み合わさって、よいかたちで事がはこぶことが「仕合わせ」です。仕合わせよし、仕合わせ悪し、といった用法もある。
 なお、松尾芭蕉の『奥の細道』に、「この道必ず不用(不都合)のことあり、恙のう送り参らせて仕合わせしたり」という文があるのはご存知かと思います。
 英語のhappyという単語にも似たような意味合いがあります。happyのhapには、そもそも運とか運命という語義がある。ドイツ語のgluckも同様で、幸運とか幸福を指す言葉には、洋の東西を問わず似たような意味が含まれています。このような言葉で私たちが思い浮かべることには、ひじょうに重なる部分が多く、万国共通に通じ合うものがあるということですね。
 もう少しヨーロッパ人のものの考え方の骨格をつくってきたギリシャ語、ラテン語の世界をのぞいてみましょう。
 ラテン語には幸福を指す言葉のひとつにベアティチュド(beatitudo)というのがあります。これには、祝福されたとか恵まれたという意味合いがあります。誰かから祝福を受けることが幸福の大きな要素なんですね。
 ギリシャ語でいえば、幸福を表す言葉にふたつあります。エウダイモーニア(eudaimonia)とマカリオン(makarion)。さきほど少し触れたマタイ伝の「心の貧しき者に幸いなれ」とか「義に飢え渇く者よ幸いなれ」とかの「幸い」というのは、マカリオンです。
 マカリオンの意味は、喜びが満ちあふれる「幸せいっぱい」というイメージに近い状態の幸福です。マカリオンのマ(ma)は接頭語で、カリオン(karion)はカリウス(xarius)からきた言葉でしょう。カリウスは快楽の「快」、要するに心の奥底から湧き出るような喜びを指していて、アリストテレスも『ニコマコス倫理学』のある部分で、それが幸福のひとつの現れであると言っています。
 ではエウダイモーニアとはどんな幸福の様態を指しているのか。ギリシャの人々は自分たちにとっていちばんの幸福を指すときにエウダイモーニアという言葉をつかうのですが、この言葉はきょうのこの幸福論のキーワードのひとつでもあります。
 エウダイモーニアのエウ(eu)とは英語でいうウェル(well)、つまり「よい(良い、善い)」という意味です。ダイモーニアはダイモーン(daimon)、すなわち神霊ですね。要するにエウダイモーニアには、「神霊のよき導き」という意味合いがあるのです。
 ダイモーン(神霊)とは何かとなるとひじょうにむずかしい話になるのだけど、このさいは取りあえず、万物の背後にあり万物を動かしている目にみえない力とでもとらえておいてください。そういう力によく導かれた状態が真の幸福なんだということを言っているわけです。

– 幸福のふたつの相 –

 きわめて長い時間、数千年といっていいと思いますけど、人類の長い暮らしのなかで、幸福とかhappyという言葉で呼ぶようになった人間が追いもとめるある状態は、大きくいってふたとおりの見方ができるのではないでしょうか。
 ひとつは、幸福とは自分の力を超えた何か神的なものと触れ合うこと。
 その神的なものというのは、ヨーロッパや日本、あるいは中国といった国や民族を超え、また、固有の宗教を超えた、人間の力がおよばぬ力である、と。それが神的なものでして、たとえばこの場合、神(シン、カミ)とは中国最古の辞書『説文解字』にもあるように雷(カミナリ、神鳴り)の稲妻からきているという考え方があります。つまり、目には見えないけれど、あるとき、あるものを発動する超自然的な力。
 それは日本語(和語)のカミという、万葉集とか古事記とかに出てくる言葉についての本居宣長の説も同様であって、人間個人の思惑や力を超えた不思議なパワーのことをカミ(神)という言葉で表していたのでしょう。
 そういう点では、古代ギリシャのダイモーンにも通じるところがある。自己という人間個人を超えた何か神的なものの導きと関連している事柄であることが、幸福という言葉のなかに大きな要素として含まれているのです。
 もうひとつは、説明するまでもなく、その神的なものの導きとは別に、人間の生活のなかでなんらかの快適で喜びにあふれるような状態を、長い人類の歴史をとおして「幸福」として呼んできたといえるでしょう。
 しかし、このふたつの面だけが幸福のすべてなのだろうか。もちろん、ともに欠くことのできない幸福の要素だけど、どうもこれだけでは幸福の全体像というか、真の姿を取り逃がしてしまうのではないかと、いまの社会とアリストテレスの考え方を両目で同時に見ながら最近よく考えるんです。
 わかりやすくいうと、たとえば日本国憲法13条の基本的人権の項目。これによると誰でもその個人の生命の安全と、自由、幸福を追求する権利があり、保証されていると記されている。つまり、幸福は個人の欲求に基づいて追求できる事柄であるということが、はっきりと述べられているんですね。このことからもいえるように、ことに近代以降は、幸福は個人である自分の力によって獲得できるものとする考え方が共通の理解として大勢をしめている。
 それはそれで私としても異存はありませんが、しかし肝心な問題は、ではそのように考えられている幸福を私たちはどうやったらものにすることができるのかということですよね。方法論の問題だけではありません。何が真の幸福なのか、そしてそれをどうやってつかむのか、おそらくその両方が”同時に”必要なのです。アリストテレスに則して考えてみましょう。
 アリストテレスはいろいろなところで幸福について書いていますが、いちばん力をいれて述べていると思われるのは『ニコマコス倫理学』という倫理に関する本です。日本語訳の問題もあって、簡単にさっと読めるような代物でないのが悩ましいところですが、できるだけ多くに人に読んでもらいたい、たいへんすばらしい論究がなされている書物です。私自身、あと20年くらいのうちには、なんとか読みやすいものにしたいと思っているもののひとつです。一見してイメージがとらえにくい消化しづらい文ですが、私が試みに訳したところを読んでみましょう。第1巻第9章からです。ちょっと長いですが、まず、全文を。
 「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福(エウダイモーニア)こそ神与のもの(テオスドートン)とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。しかし、こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう。しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性(アレテー=徳)とかなんらかの学習(マセーシス)や訓練(アスケーシス)によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福(マカリオン)のものであると思われる。
 さて、幸福は、広く人々に共通に行き渡るものである。事実、卓越性にたいして不具合ではない全ての人は、何らかの学習と心遣いによって幸福を獲得することができるであろう。またこのような仕方で幸福であるのは、運(テュケー)によって幸福であるのにまさるものだとするならば、やはりそのような仕方で人は幸福になりうるものであるとするのが至当であろう。というのは、自然に即してある物は、可能なかぎり美しくあるものとして、そのような本性をもっており、技芸に基づくものも、その他いかなる因に基づくものも、これと同様なものである以上、最善の因によるものはいっそう美しいものであろうからである。もっとも重大でもっとも美しいものを運に委ねることはあまりにも不当であろう。
  この問題にたいしては、われわれの議論からも明白になるだろう。すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動(エネルゲイア)である。」《1099b11-27》

– 運と卓越性 –

 もう一度、今度はいくつか文節を区切って読んでみます。
 「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福(エウダイモーニア)こそ神与のもの(テオスドートン)とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間のもつあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。しかし、こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう」
 アリストテレスにおいても、幸福というものは人間ひとりの力によって獲得できるものではない、といっているのですね。だけど、幸福が人間のもつもののなかで最善のものだ、と。
 しかし、人間に最高の贈り物を与えるのがなぜ神なのか。「こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう」。別の考察の機会というのは、アリストテレスが書いた超難解な『形而上学』という書を指していると思われます。
 「しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性(アレテー=徳)とか、なんらかの学習(マセーシス)や訓練(アスケーシス)によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる」
 これは少し難しいですね。たとえ幸福が神様によって与えられるものではなくて、卓越性とか徳と訳されることが多い人間がもっているアレテーとか、あるいは学習したり訓練して自分自身で一生懸命に努力して幸福が獲得できたとしても、それは神的なものに属するとされている。ここでまた、神的とはどういうことかという問題がでてくる。矛盾したような言い方だから、下手な洒落だけど、「アレー?」って誰もが思いますよね(笑)。
 自分自身が個人である人間としての努力のすえに獲得するのであれば、それは人間的なものであって神的なものにはならないんじゃないか、と。ところが、それはもっとも神的なものに属すると彼はいっている。ここではその理由を述べていないけど、はっきりと言い切っています。つづけましょう。 
 「まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福(マカリオン)のものであると思われる」
 人間が必死になって身につけた卓越性(徳)の力によって得たものは、自分自身の努力によって得たものだから人間のものであるということを否定しているわけではない。人間的なものであるという”だけでなく”、神的なものでもあるといっているのです。だからこそそれはマカリオン、すなわち至福のものである、ということになる。
 「さて、幸福は、広く人々に共通に行き渡るものである。事実、卓越性にたいして不具合ではない全ての人は、何らかの学習と心遣いによって幸福を獲得することができるであろう」
 幸福は万人が追求しているものです。じっさい、努力の結果、自分が幸福であると感じている人も多くいるでしょう。「卓越性にたいして不具合ではない」というのは、ちょっと固い言い方で申し訳ないけど、要するに、どんな人間であっても、どこかに秀でた面をもち、なにか優れた力をもっているはずです。だから、人間であれば誰でも自分の力を発揮できさえすれば、なにかしらの幸福感を得ることができるのは確かです。先にも述べてある学習とか訓練、あるいは心遣いによって、幸福を獲得することができるわけです。学習とは自分が身につけた能力と広くとらえていいし、心遣いというのは、あとでもう少し説明しますが、人々を愛するときに感じる歓びです。そういう心のはたらきによっても幸福を得ることができる。
 「またこのような仕方で幸福であるのは、運(テュケー)によって幸福であるのにまさるものだとするならば、やはりそのような仕方で人は幸福になりうるものであるとするのが至当であろう」
 ちょっと持って回った言い方ですが、肝心要なことをいっている。つまり運にまかせた幸福より、自分の懸命な努力とか、あるいは他者にたいする心遣いによって得た幸福のほうがまさっている。それこそが真の幸福だと述べているのです。
 「というのは、自然に即してある物は、可能なかぎり美しくあるものとして、そのような本性をもっており、技芸に基づくものも、その他いかなる因に基づくものも、これと同様なものである以上、最善の因によるものはいっそう美しいものであろうからである。もっとも重大でもっとも美しいものを運に委ねることはあまりにも不当であろう」
 これはなかなかにわかりにくい言い方ですが、アリストテレスの考えている世界は万物が運動している。運動をもたらすものは自然の力です。自然力によって万物は運動し、自然力によって運動している万物はそれ自体で美しいと彼はいっているわけです。
 で、それ自体で自然は美しいのだけど、人間は技芸—-技芸というのはテクニック(技術)ととらえてもいいのですが、自然にたいして技術をもってはたらきかけ、いろいろなものをつくる存在です。しかもそれによって美しいものをつくろうとする。自然によって創造されるものでも、人間の技によってつくられるものでも、最善の原因によって生じるものは一層のこと美しいとアリストテレスは言うのです。
 最善の原因によってつくられる「美」は幸福にむすびついてくるのですが、それは運、すなわち偶然だけに頼っていては取り逃がしてしまうことになるだろうと訴えている。そんなことでは「もったいない!」と言いたいのかどうか、わかりませんが(笑)。
 アリストテレスは幸福と幸運とは異なるものであり、人間の内発的な卓越性(アレテー)、つまり徳というものは単なる偶然の運よりも一層すぐれたものだと考えている。徳によってつくりだされる幸福は、運によってもたらされる幸福よりもよりすぐれた幸福であると主張しているのです。
 そして次の一言で結ばれる。
 「この問題にたいしては、われわれの議論からも明白になるだろう。すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動(エネルゲイア)である」
 この2行はアリストテレスの幸福論のなかでも、もっともよく知られた命題です。
 これまでの読解である程度理解されてきたと思いますが、端的にいいますと、人間は卓越性=徳によってのみ幸福になることができる、と結論づけているのです。そして幸福とは、魂の一種の活動状態のことである、と。
 この最後の言葉は「神与」ということにも関わる、これまたひじょうに難しい事柄なので、あとでまた関連したお話をします。
 以上のように、幸福とは徳を磨くことによってはじめて手にすることができるものだということ。だから欧米の知識層のなかでは、このアレテーをいかにして磨いていくかということが、いつも議論の底流を流れている。はじめに言ったように、アリストテレスをちゃんと読んでいるからですね(苦笑)。
 もちろん中国や日本においても、徳というのは人間性を形成するうえで昔から重要な言葉としてつかわれてきました。しかし、このアレテーは儒教的な意味でいわれる徳よりも、もっと広い概念としてあります。たとえば儒教的な徳は、親切心とか義の行い、惻隠の情とかを示す道義的な面を強くもっているものですが、ヨーロッパにおけるアレテーでなにがいちばん重要かというと、知性つまり知的な徳なのです。アレテーを磨くということは、知的な徳を磨くということ。たくさん勉強して知性を身につけることが人間を幸福にするんだという方向にヨーロッパの人々の思考は向かっていくわけです。
[3-3]へ続く


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