戦略的思考を超えて[2-2]

……そして、「宜しき人(エピエーケース)」ヘ荒木勝(岡山大学教授)
– 受動的な知性と能動的な知性 –

 さてそれでは、これらの言葉(生命=霊魂、善、欲求、知性)のなかで、知性というものの説明をくわえていきたいと思います。話があっちこっちに飛ぶかもしれませんが、がまんして聴いてください。
 第一に、「知性(ヌース)」と「理性(ロゴス)」は、ある部分は重なりながらも根本的に違うということを申し上げておきたい。日本語では知性と理性はほぼ同じ意味合いで使われることが多く、また、ともに区別しづらいかたちでアリストテレスは訳されていることが多いものだから、知性と理性のどこが違うのかひじょうにわかりにくいことになっています。
 知性と理性はどういうふうに異なるかというと、厳密な意味での理性(ロゴス、英語でリーズン)というのは推理、計算、比例(比べる)能力を指しています。平たくいえば、入学試験や入社試験などで問われるような能力ですね。この推理、計算、比例能力がないと人間社会は統制がとれずゴチャゴチャになって混乱してしまうので、社会のなかで私たちが生きていくのに必要な能力であることは了解しておきたい。しかし、アリストテレスはその理性とは”別に”、知性と呼ぶべき能力があるといっている。理性と対比すると、端的にいって、知性は直観的に事象を知る能力です。この知性は直知とも訳すことができますが、さきほどから申し上げているヌースを指しています。厳密にいえばヌース(直知)は知性の感性的・直観的はたらきを示しているものですが、混乱を避けるために、「知性」と一括して話をすすめましょう。
 知性には大きく分けるとふたつの性質がある。知性の特徴は二面性というか、二方向性を持っていることにあるのです。アリストテレスもふたつに分けて論じている。すなわち、受動知性と能動知性というふうに。
 受動知性というのは、感覚的知性を指していて、ちょっとむずかしくいえば「個別に即した究極的個の認識能力」といっていい。つまり、たとえば、人間の顔にはひとつとして同じ顔はないのですが、AさんならAさんであることが、視覚をとおして顏を見た瞬間にわかる、といったような能力。感覚的・直観的に個別的なものを認識することのできる知性です。
 もう一方の能動知性とはなにかというと、「規範的な普遍命題や理論的な普遍命題への直観的理解能力」のことです。これまた相当むずかしい言い方ですので解説しましょう。
 たとえば「殺すな」というわれわれの社会を維持するための大原則、普遍命題がある。これは数年前にも「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者からの問題提起があり、マスコミでも話題になりました。さまざまな人たちがそれなりの答え方を試みているけど、なかなか明解には論証のできない命題です。「人は一人では生きていけない」とか、「人間愛に反する」からとかの「答え」がいくつか出ましたが、でもそれ以上つっこんで万人が納得できるような論証にはならない。
 あるいは「盗むな」という命題。状況によってはある程度許容する社会があるとしても、根本的にはどんな社会でも他人のものは盗んではいかんという決まりがあるわけですよね。でも、なぜいけないかの理由を、あるところまで以上に遡って論証できないような命題。こういうのを規範的普遍命題というのです。
 では、理論的普遍命題とは何か。たとえば、顏の例でいま、まったく同じものは存在しないといいましたが、でも、顏なら顏にも共通項はある。AさんとBさんはまったく顔も人柄も違うけど、ともに同じ人間である、といったような事実における理論的な分析に関わる命題です。ユークリッド幾何学における前提命題のようなものもそれにあたるでしょう。
 しかし、改めてその「人間」というものを抽出して論証しようとしても、なかなかむずかしいわけです。簡単にはいかない。人間を人間たらしめている構成要素は何かといったようなことになると、とたんにいっぱい議論すべきことが出てくる。でも、感覚的にはどれひとつとして同じもののない個別なものに共通する”何か”を、瞬時につかむのが能動知性というものなんです。
 たとえば人は、別々の個別のコップでも、そこに共通するコップという概念をすぐに形成できるわけです。現実にはないけど、現実のなかから共通するものを引っぱりだしてくる。これを「抽象する」というのだけど、そういう抽象化する能力が能動知性にあたるものです。この能動知性が個人としてはたらくのか、共同としてはたらくのかという問題は残ります。
 ということで、知性には受動的な知性と能動的な知性のふたつの種類があるということになります。次に述べる実践知と観想知もふまえて、人間の知性のはたらきを以下のように区別します。
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– 実践知と観想知(プラクシスとテオーリア) –

 さらに、知性を理解するのにもうひとつ別の観点があります。観想知と実践知という区別がそれで、前者は理論知とも呼ばれます。
 この観想知とは何かというと、これはコップかビンか時計かというような、物事の何であるかを判別する場合などに発揮される知性です。それは、コップならコップを存在させているものは何かを問いかける知性であり、そこにも受動的な知性から能動的な知性までのはたらきがみられます(D → C)。
 それから先ほどいったように人間が生きていくうえで、「殺すな」とか「盗むな」といった規範的な、最も根源的な命題があるわけですね。それを直観的につかむのが実践知。それは「何々してはいけない」という、人間が生きていくうえでの”目的”にそった能動知性のひとつです(A)。言い換えると、実践的目的の観点から自分の目の前に起こっていることを見て、それに対する規範的な命令を出そうとする知性がある、それが、実践的な知性といわれているものです(B → A)。
 じっさい、われわれの生きている社会は、この「観想」と「実践」の両知性の非常に厳しい緊張関係のなかにあるといってよいのです。一見社会からかけ離れているかに見える学問だって、すべてそうなんです。たとえば私なんかがやっている政治学なんていうのは、本当に朝鮮からミサイルが飛んでくるのかどうか、これ自体の良い悪いは別にして(悪いに決まっていますが)、さまざまな政治的要因になりうる事柄を冷静に客観的に調べ尽くさなければいけない。そのうえで、では、どうやって防ぐのがよいか、というふうに問いを展開していくわけです。調べることは主に観想知、どうのようにして防ぐかは実践知のひとつの行使になるわけです。
 自動車業界からみた交通事故の場合なら、事故がどのくらいの頻度で起こるのか、原因として考えられることは何かというようなことを客観的に数字的に全部把握しなければいけない。できるかぎり個別な事例を多く集めて観察する(D)。そこから何らかの、その個別的事例の変化の原因とか、多くの事例の変化の方向を推理する。そして何が最大の原因であるかを考察する(C)。そのうえでこれからのことを把握し、それにどう対策を立て、対応しなければならないのかを判断していく。これが実践知です(A)。
 あるいは逆に、自分が事故にあって、自動車事故の問題性を痛感する(B)。そこから自動車事故全般をなくそうと考える(A)。しかしそのためには、自動車事故のデータを集めて客観的に観察しなければならない。事故の発生原因を可能なかぎり普遍的に追求していくことになる(C、D)。これはほんの一例ですが、ことほど左様に、われわれはつねに観想知・理論知と実践知の緊張関係のなかで”答え”を探り、追い求めているのです。
 受動知性と能動知性、観想知と実践知が自乗的に相互に関係し、さまざまな”現実の”局面でどうしてもぶつかってくるわけです。

– ヌースの不完全性 –

 もう少し続けましょう。たとえば「知解を求める信仰」というのがあります。われわれが「神」を信仰するときに、よく「イワシの頭も信心から」なんていわれるけど、本当にイワシの頭を信心するバカ者はいないわけです。それが神様だから信じる。あるいは、神様が宿っていると思えるから信仰する。だけど、それじゃ、われわれは神を見たことがあるのか。神を知らずしてどうして信仰することができるのか。だからそこにも、神とは何かを知ることと実践として信仰することとが、どうしても問題となり、”折り重なるように”からんでくる。学問的議論のなかでは、この、神を知ることのみが観想知だとする見解が存在しているほどです。永遠の存在を知る、見ることが観想知であると。
 信仰という”高尚”なことだけではなくて、たとえば恋愛という事柄ひとつとっても同様でしょう。愛する人を「見なければ」恋愛できないわけですよね。例外的に見なくても恋愛できる人がいるかもしれないけど(笑)。でもまあ、通常は「その人」に会い、顔や形姿を見てこの人はいい、素敵だと思って好意を抱きますよね。で、好意から恋愛に発展する。つまり「見る」ということでいうと、これはもう客観的・理論的な知性のはたらきなわけです。その女性(あるいは男性)はどういう者なのか、美しいのか均整がとれているのかどうかなどを「見る」わけです。そして、見ることで好意を抱き、好意を抱いたとたんに実践的知性の対象になってしまう。じっさいに何を実践するかは、人さまざまだとしても(笑)。つまり、好意を抱くと、さらに見たくなる、知りたくなるのです。そして、どのように言葉をかけて接近すればよいか……。恋愛と知性は別物のように思われがちですが、好意を抱くこと、すなわち愛するということにも、その愛がどのようなかたちであれ、知性が強くはたらいているのです。
 見ることは知ることであるという言葉を思い出してください。愛があって後に彼女(彼)を知るのか、知ってから彼女(彼)を愛するのか。信仰も同様です。信じてから知るのか、知ってから信じるのか。いつもわれわれはこの二律背反にさいなまれているのではないか。だから、人間の知性の両面性を別々のものとして理解してはいけないわけです。ひとつの知性に、ふたつのはたらき方あるのです。相手が何であるかを客観的に知るということと、その相手を愛するとか欲するとかなにかを為すとか、知性にはそういうふたつのかたちが”同時に”あるわけです。
 「善く為すとは、よく知ること、観想すること」とアリストテレスも述べている。善き行いと、知ること、観想することは窮極的には一体である、といっているわけです。部分的にはズレも生じていますが。
 誤解を防ぐためにいっておきますが、ここまで魂の重要なはたらきとしての「知性」を見てきましたが、善く為し、よく知るうえで「理性」は不要であるといっているのではありません。知性と理性は相補的な関係にあって、これもどちらか一方だけでは、ダメなのです。ヌース(直知、直観的知性)が根幹にあるけれども、ヌースの不完全性ということも考慮にいれておかねばならない。人間の直知の身体的限定、つまり多様で不確定な個別的な事柄に対しては、それを理性の確実性によって補っていかなければならないのです。
 直観がしばしば人をあざむくことがあるのもそうした事柄と関連してきます。恋愛でも一目ぼれが失望にかわることがあります。深刻なのは宗教的問題です。神を見たと称した人が、あるいは自ら神(または神の生まれ変わり。使者)と称した人が、弟子たちに、この世では許されていない命令を出す場合です。盲目的信仰といわれるものです。そういうわけで、宗教の世界に、「知解」を求める欲求が出てくるのです。可能なかぎり論理的に理性的認知ができる神理解が生じます。それが「神学」というものでしょう。

– 夢と責任、そして愛 –

 さて、ちょっと脇道に逸れますが、つい数日前にアリ研のメンバーの一人から、村上春樹の小説『海辺のカフカ』に「夢に責任を持つ」という言葉が出ており、これはどのように考えればよいかというメールがありました。また、別の会員から、小野二郎の『ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想』に「夢の責任」という数ページがあり、ちょうど読んでいたところだけど、そこに「夢の責任は『教育』がとらねばならない」という一文があると教えてくれました。まさに夢のようなこの偶然の一致に少し驚きましたが、驚いたついでに(笑)、この「夢の責任」という言葉から、知性と愛の話を進めてみましょう。
 この言葉がどのように使われているか、両著の文脈はいまは無視させていただきますが、一見なんの関連もないように思える、この夢と責任という言葉にはどんな関係があるのか。
 ここまでのお話である程度おわかりかとも思いますが、責任というのは実践的・選択的行為で発生することです。選択する場合には選択する対象(人やモノ)を知らなければならない。選択とは人間の自由な知性的要求の行為です。だから、選択的行為には責任が生じる。知ったことを自由に選択したわけですから、そこから生じた問題に責任が出てくるのです。
 他方、夢というのは魂の一種のはたらきで、直知を含むものと、アリストテレスは考えている。身体の機能は休んでいるのだけれども、知性のはたらきが残存している。アリストテレスは夢に関して、歴史上はじめて理論的に語った人であるともいわれていますが、彼によれば夢にも知性がはたらいているのです。フロイト以降、近代においては無意識というものの存在が重視されるようになっていますが、要するに無意識のなかでも知性はちゃんと活動している。簡単にいうと、知性が実践的行為と切り離せない以上、やはり知性のはたらきである夢にも責任が生じます。当然といえば当然のことなのです。ですから、この場合の責任とは、行為と夢とが密接に結びついていることを、しっかりと認識しておかねばならないという「責任」が知性にはあると理解しておくことができる……。そして、そのことを教えるのが教育の本来の役目なのです。それは夢だけでなく、祈りとか、希望とか、つまり欲求するという魂のはたらきともつながってきます。

– 欲求と三つの愛のかたち –

 先に、魂には知性の力とは別に欲求する力とがあるといいました。では、欲求とは何か。こんどは、そのことを考えてみましょう。それは、他者を捉えようとする魂の固有の力であると、とりあえず定義しておきます。ちょっとややこしくなりますが、その欲求のなかにも知性的欲求と感覚的欲求とがある。つまり、人間の「知りたい」という知性的欲求と、感覚・五感が欲する欲求とは根本的に違うはずです。
 知性的に知りたいというのは哲学の言葉でいうと「意志」ということになる。意志という言葉は日常でも使いますが、意志は単純に生存本能にもとづいた生理的欲求ではなく、知性が関与している欲求を示す言葉なのです。「意志がある」とは、知ったうえで、知りつつ欲求することであるといってもよい。
 だから、そこには何を欲求するかという選択が生じてくる。その選択の能力のことを自由意志と呼ぶのです。要するに、人間には自由意志がある、だからこそ、前にも述べましたが責任という問題も出てくるわけです。繰り返しになりますが、責任ということを厳密に追求すると「知性」が大きく関わってこざるをえないのです。身心耗弱者には責任を問えない、というあの刑法原則もそこから出てくる。だからヌース(直知)の場合と反対に、選択意志のはたらきが、近代的な意味での理性的、合理的理解だけに留まってしまうと、夢と知性と責任のリンクが切れてしまい、夢の責任を理性的に考えることはできないとなって、「何をいっているのか、さっぱりわからない」ということになってしまうのです。
 夢を眠っている身体のなかに残存する知性的欲求と捉えれば、夢を構成するものとは何かが重要なファクターになってきます。夢の内容として、われわれは何を本源的に知的に欲求しているのか。他方、「教育」は欲求するその知性的な「何か」を人々のなかに形成する機能と役割をもっています。だからこそ、夢は教育とも密接に関わってくるわけです……。
 欲求をさらに突き詰めていくと、その根源には「愛(アモール)」がある。恋愛についてはいまちょっと触れましたが、この場合の愛は、恋愛を含む広い意味でのエロス的なものと考えてもらってよいでしょう。つまり相手と合一しようと願う非常に強い欲求の展開形態と考えておいていただきたい。
 愛に関しては、またあとでも触れたいと思いますが、愛のかたちを取りあえず三つに分類しておきましょう。それは、

(1)最広義の愛:本源的、合一的愛。性愛も含まれます。
(2)愛情:選択的に快楽を求める利己的愛。
(3)友愛:相手を見る、つまり知ることの愛で、理性的な愛、他者の善を思考する愛。

となります。もちろんこれらは、正義や知性の分類同様、まったく別々に分離されてあるものではなく、複雑に重なり、混じり合って存在しています。
[2-3]へ続く


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