臭いの自分史3

– 父と訪ねた馬小屋の臭い –

 父の臭いでもう一つ思い出すのは、厩の臭いです。場所は高田馬場辺りか板橋のあたりかはっきりしないのですが、或る時父に連れられて知り合いの家を訪ねたのですが、何とその家の横手の馬小屋に1頭の馬がいて、道を通る馬とは違って、すぐ傍で見る馬はかなり大きくて、その馬の鼻面を親しげに撫でる父をみて、驚くと同時にその時初めて父が馬に乗れる事を知って、急に父が大きく見えたのです。その家はもしかして馬力の運送屋だったのかもしれませんが、父親はよくここに馬を見に訪ねてくる、と云っていたような気がしています。そして何よりもその馬小屋の馬の臭いにも驚いたものです。町中ですから先の鶏舎と同じように、近所は果たしてどうだったのか。
 明治16年生まれの父は、日露戦争時、近衛騎兵上等兵として従軍したということで、馬は得意だという話を聞かされました。当時はよく家に、近所の若い徴兵期の青年が、やがて自分も体験する筈の軍隊とか戦場体験を聞きに来ていましたが、そんな時私は父のあぐらの膝の中に納まって、父の見せる勲章とか従軍手帖(軍隊手帖?「一つ、軍人は・・・」というのが書いてある例のあれです)などを一緒に眺めていました。まあこの60年間、徴兵制度というものを知らない今の平和な日本の青年は、何といっても幸せなのだと思います。

– 削りたての鉛筆の匂い –

 私は若い頃から、西脇順三郎の詩が好きで、初期の詩集『旅人かへらず(西脇順三郎コレクション (1) 詩集1)』を先輩から借りて筆写していたのですが、或る時、その先輩に連れられて、慶応大学の学部長室に先生を訪ねることになったのです。そして首尾よく私の筆写した『旅人かへらず』をお見せして、サインを頂くことが出来たのですが、そのとき先輩の主宰する詩誌で特集した先生の詩集「L’OMBRE」を見せられたのです。その巻頭に載っていた詩ですが、
 「秋」
 タイフーンの吹いている朝
 近所の店へ行って
 あの黄色い外国製の鉛筆を買った
 扇のように軽い鉛筆だ
 あのやわらかい木
 けずった木屑を燃やすと
 バラモンのにほひがする

 というのですが、ここまで読んだとき突然、それまで子供心に大事にしていた匂いの記憶を、突然思い出したのです。本当に人間の記憶の回路は、こんな緊張した場面でも、突然、あらぬ方に繋がるもののようです。
 それは小学一年生の時、私の一年六組だけがその当時では珍しく男女組(共学)でした。何しろ「男女七歳にして・・・」という時代ですから、それは珍しい事で、共学といっても教室では、黒板に向かって右側が男子、左側が女子の席という具合に、男女同数がぴっちりと分けられて、お互いに遠くから相手の様子をうかがっている、といった具合でした。そしてそれはずっと六年生まで続いたのですが、そんな中に一人、奇妙な匂い、そう削りたての鉛筆のような匂いの女の子がいたのです。
 当時女の子はおかっぱでしたが、その子は「ちびまる子ちゃん」ふうではなく、肩のところまで長くしていたのがちょっと目立っていて、何かの弾みに隣り合うこともあって、そんなときこの削りたての鉛筆の匂いがするのです。その頃は誰でも「肥後の守」という二つ折りのナイフをセルロイドの筆箱に持っていて、鉛筆はそれで削ったものです。そう気がついてからは、毎日のように、何本も何本も削っては、私の筆箱の中はいつも削りたての、先の尖った鉛筆がいっぱいに並んでいました。今でも右の掌の親指の付け根のところに、ぽつんと青い点がありますが、その頃、その研いだ鉛筆の芯の先端で、誤って突いてしまったのが、入れ墨のようになって、未だ消えずに残っているのです。

– 四畳半のアトリエは灯油の臭い –

 西脇先生のお宅や研究室に通い始めたその頃の私は、長い療養所生活を卒業して、やっと東京の片隅へ出て、絵描きとして出発を果たしたばかりの時でした。そのころの匂いの記憶といえば何といってもテレピン油(油絵の具の溶剤)の匂いですが、アパートの四畳半をアトリエにして、その一方で以前から謄写版による版画(シルクスクリーン)を制作してきたので、自然の成り行きで、生活のために謄写印刷の仕事を引き受けては、それが結構忙しくて、その四畳半は、印刷工場の、こちらの方はインクの溶剤が灯油でしたので、それに冬などはストーブも灯油ですから、狭い部屋中に灯油のガスの刺激的な臭いが、常時充満していて、鼻を痛めてはそれがもとで冬はいつも風邪を引いているしまつでした。
 ちょうど私が所属していた公募展「美術文化協会」は春3月に上野で開かれるので、制作のピークは1月、2月。鼻をぐずぐずにしながら四畳半の壁いっぱいに、つまり横一間半(約2.7m)、縦8尺(約2.4m)くらいに張ったキャンバスに挑んでいました。ところが、その四畳半に移りたての、最初の展覧会の制作で、あまり一杯いっぱいにキャンバスを作ってしまったので、いざ、搬入ということになって、一間の掃き出しから、作品を対角線にして出そうとしても、どうしても通過してくれないのです。出す時のことを考えずに、とにかく少しでも大作を、と気負っていたのです。泣く泣く作品の木枠を壊して、やっと搬入にこぎ着けたものです。

– 魚臭に悩んだモンテーニュ家 –
はいじまようじ
モンテーニュが新婚時代を過ごしたという、ラ・ルーセル街23番地、25番地の家の正面(左端ビル)。はいじまようじ
同じく左手前のビル。通りはガロンヌ川方向へ(いずれも撮影は筆者)。

 堀田善衞著『ミシェル城館の人』全3巻は、モンテーニュ好きの私にとって随想録の時代背景や、ミシェルの人となり、伝記を知る、格好の、そして楽しい読み物です。
 私は20代の初め頃から、モンテーニュの『随想録』に親しんで来た手前、何かのおりにぜひ、モンテーニュの城館を訪ねてみたいと思い続けてきたのですが、04年5月、ちょっとした用事があって私たち夫婦でヨーロッパを訪ねたおり、長年パリに住む義妹の案内で、それを果たすことになったのです。
 城館はボルドーから60kmも田舎ですから、まずボルドーの市街、ミシェルの新婚時代を過ごした家やミシェルが市長を務めたボルドー市庁舎、或は高等法院庁舎などから訪ねる事にしました。そしてまず義妹がミシュランの案内書を頼りに探し当ててくれたのが、ラ・ルーセル街23番地、25番地です。ミシェルの家系は曾祖父の代からこの地で、回船業を中心とした商業を、葡萄酒、大青(パステル)の染料、鮭その他の塩魚を各地へ売りさばく大商人でした。問題は塩魚です。先述の『ミシェル城館の人』によると、これが大変な悪臭を発する甚だ近所迷惑の商売だったようです。かのエラスムスはその『対話集』の中で、この塩魚屋に対して「塩魚屋よ、阿呆の臭太郎」と呼びかける始末です。

ガロンヌ川
ガロンヌ川。ボルドーの港は川港だ(撮影/遠藤恵子)。

 ご存知のようにミシェルはアンリ4世に仕える帯剣貴族でしたが、その貴族という地位にとって、一方で商人であるということも芳しからぬ事の上に、事も有ろうに塩魚屋というのは最も具合の悪いもので、祖父の代から、何とかこの魚臭を抜き去ることに、多大の努力が払われたというのです。もちろんわがミシェルの頃にはすっかりそれは消え去って、身のこなしも、考え方もすっかりと立派に帯剣貴族となってアンリ3、4世の政界で活躍する訳ですが、その倉庫兼事務所のあったこの家は、今ではそれぞれ別の人の住居になり、そんな匂いは遠い昔の事として、静かな佇まいを見せています。車がやっとすれ違えるくらいの、細い石畳の道を挟んで、3〜5階建ての家が並び、その一軒の戸口高くに、わがミシェル・ド・モンテーニュの事蹟を記した金属の板が打ち付けてあるのを見ている時、暑い日差しの中、ガロンヌ川の波止場の方から、ふと、潮風とともに立ちこめる、問題の強い魚臭を嗅いだような錯覚に襲われたのです。そして長い事忘れ去っていた私自身の魚臭の記憶が激しく蘇ってきたのです。
 私は子供の頃、たぶん6〜8歳のころですが、絶えず歯痛に悩まされてきました。荒川という比較的大きな川が近くを流れていたのですが、その川沿いの工場街の一角に「鯖の神様」と呼ばれている小さな石の祠があって、これが、虫歯の治療に霊験があるということを、何処からか聞きつけて来た母が、お供えの生鯖を一匹携えては私を連れてお参りにいったものです。この辺一帯は荒川の海運を利用したさまざまな大工場が密集していたのですが、その中の一つに干し鰯(か)の製造工場があって、常に魚の腸樽(わただる)が積んであり、焼け付くような魚臭が立ちこめていたのです。思わず鼻をつまんで駆け出したくなる臭いです。多分それらは陸送では憚られるので、腸樽専用の船を使って運んだのでしょう。その魚臭はなるほど、歯の痛みにも増して、かなり堪え難いもので、母と私はお参りもそこそこに、真夏の酷暑の中、汗びっしょりになりながら、少しでも早くそこを逃れるように、小走りに通り抜けたものです。
 ガロンヌ川ならぬ荒川の魚臭が、同じような暑さの中、凡そ70余年の時を隔てて、突如蘇ったというわけです。
* * *
 しかし、こうして書いてきて、凡そこれらどれを取っても、一つとして心地よい匂いというものの記憶ではなく、余りにも貧しく、ある場合には少しばかり下品でさえあることに愕然たる思いです。この先いくら思い出してもそれは変わらないのではないか、と思えるくらいです。例えば西脇先生の研究室で突然襲われた鉛筆の臭いの記憶にしても、上の魚臭にしても、すぐその場の誰かに、或は同行の義妹にもそしてワイフにさえ、話すことが憚られる気がして、再び記憶の底の元あった場所へ、意識下へと慌てて圧し隠す始末でした。と考えてくると、だとしたら、いくら洗っても洗っても血の「臭い」が取れなくなってしまった、あのマクベス夫人の手のように、何と狂わしいことでしょう、私の一生は。(おわり)


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