アリス イン ワンダーランド<夢をめぐる断想-7>

ティム・バートンの『アリス イン ワンダーランド』は、意外におもしろくなかった。『アバター』にひきつづき、今回もデジタル3Dで見たが、この新しい上映方式に早くも慣れてしまって驚きを感じなかったからだろうか。
そうとばかりも言えないだろう。
この映画の宣伝コピーが「世界はもう、マトモではいられない・・・」というのだから、よほど”マトモでない”作品かと期待して見にいった。しかし、さほどのことはない、と思ったがどうだろう。モーション・ピクチャーやデジタル技術とかと関係ないレベルで。
この『アリス』を見て、ティム・バートンにしては毒がないし、「お上品」すぎやしないかと感じたのはぼくだけではないだろう。
ジョニー・デップのマッド・ハッターだって、「ジョニー・デップはいいけどぉ、マッドつーか、意外にフツーだし・・・」というのが娘(高校生)の評言。
まあ、これがディズニー映画の限界といえば限界なのだろう。
ティム・バートンやジョニー・デップの一ファンとしてちょっと弁護しておけば、彼らにもそれなりの妥協を強いられざるをえなかった面があったにちがいないし、もちろん細部の「らしくていい」ところを認めるに吝かではない。
そう思って見ればなにもケチをつける所以はないのだけど、でも、それにしたってティムやジョニーや「アリス」のファンにしてみば、このお行儀のよさはなんかものたりなくて、歯がゆいわけで・・・。
キャラクターやガジェットのデザインなど美術はさすが凝っていて、官能的な心地よい美しさにあふれているが、衛生的にきれいに洗練されすぎていていまひとつ味気がない。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』ほどのよい意味でのマニアックな「かわいい」残虐性も弱く、シュバンクマイエルの人形アニメ『アリス』の不気味さからはほど遠い。ジェファーソン・エアプレインの『ホワイト・ラビット』の、グレース・スリックの”歌声”の呪文性も希薄である。
ワンダー(不思議/驚き)は「見る」(あるいは聴く)ことのうちにこそあるわけで、ヴィジュアル・イフェクツや3Dなどで”リアルに”見せすぎているため、それがかえって仇になり、映像に緊迫感がなく見ることを疎外した結果になっていると思う。そのことに、あまりに無自覚でありはしないか。
いうなれば、そこに見ることにおける自由な想像力の発露がない。
ジャバーウォッキーとアリスの闘いが「ドラゴン退治」として図式化されているけど、そもそもアリスがあんなに簡単に勝っていいの!?
今回は「強いアリス」というが、むしろ赤の女王(ハートの女王)はじめ相手が弱くなりすぎている気がする。
映画としてのスリルがない(同じ最新作でも、CGなどに目もくれないクエンティン・タランティーノ『イングロリアス・バスターズ 』の、あの堂々たるスリル満点の「駆け引き」を見よ!)。
それとアリスを19歳、コドモとオトナの境目に設定したことの良否もあろう。
原作としての「アリス」のストーリー設定や、同じディズニーの往年のアニメ映画『不思議の国のアリス』とは一線を画したいという、それを通過したオトナとしての意図はわからないでもないし、それなりにその気概(?)を評価はしたいところだが、いかんせん、やはり、現代においてオトナになることが、こういう具合に簡単に退屈な人になることなのかと、そんなことをこの映画=夢は自ら明かしてしまった観がある。
見る夢↔持つ夢の対比でいうと、見る夢、見ることの夢であった「アリス」が、世俗的願望そのままの持つ夢の「アリス」に入れ替わってしまった。
このことさえバートンの批評的意図の範囲だとしたらスゴイと思うが、おそらくそうではなかろう(そうだとしても、成功していない)。
この映画のラスト、胸をふらまして「ビジネス社会」へ船出するアリスの男勝りの「勇姿」がそのことをわかりやすく示している。この船出は、植民地主義による世界制覇として、西欧近代のはじまりの暗喩ともとれるのだ。『アバター』と同様にハリウッドの「覇権主義」をそこに読み取ることも可能である。
自己のカリカチュアでもなさそうなところが、『アバター』同様なんだか居心地が悪く気味悪い。
世界はもう、マトモではいられない・・・。
だから、矛盾するようだが、たしかにそうかもしれないと考え直してみたくなる。
現実と夢を合わせてひとつの「世界」とみれば、その対称性が破れ、比例的正義が失われつつあるいまの世界はマトモな世界とはいえないからだ。
つまり映画=夢自体ではなく、その”こちら側”、映画をつくる=夢を見る側を取り巻く世界がなんだか”変”なんじゃないか、ん!?
そういう意味では、世界はもう、かなり前からマトモでないってことは、程度の差はあれ、おそらく誰でもみなが感得しているわけで。
世界はマトモじゃなくては困るのだ。
いま世界に必要なのは、現実を矯正し変成するための夢見る力である。その力を呼び込む「依り代」としてのアート(技芸)である。
ティム・バートン版『アリス』の意外なマトモさは、夢見る力(想像力)が駆動しないまま、現実世界をうまく相対化しきれていないことに起因していると言ってしまってもいい(かな?)。
——うまくまとめられないが、書きながらいろいろ考えているうちに、なんだかそんな気がしてきた。
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夢に現実が反映するように、書くことにも読んだものの光(あるいは影)が差す。
ごく最近読んだ本は、小説で阿部和重の『ピストルズ』と村上春樹『1Q84 BOOK 3』、そして配島庸二の『グーテンベルク炭書【焼畑の神を祀れ】』である。
「なんだかそんな気がしてきた」のは、この3者の近著をほぼ同時に読んだことが作用しているのかもしれない。
我田引水の誹りを受けそうだが、たまたま偶然に見たものや読んだものにつながりや共通性を見出そうとするのは、わたしのヘクシス(心的傾き、習癖)なので仕方ない。
3者(「アリス」も含めると4者)に通底するものとしてテキトーにあげると「植物」「夢」「神」「物語」「少女(女性性)」「巫女」「依り代(メディア)」といったいくつかのワードが思いつくが、次回は、先日読んだ(見た)ばかりの配島庸二の本/物に焦点を合わせ、個展への案内を込めて簡単に触れておきたい。


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