サカナガツレタ<夢をめぐる断想-6>


サカナガツレタ
わたしが記憶している最初の夢がこれである。
夢見たのは7歳前後のころのことだと思うが、不確かである。
漢字と平仮名で表記すれば「魚が釣れた」となるが、サカナガツレタという7文字の音声が夢の映像と並行して、脳中に録画/録音されている。
さほど大きくないお堀のような池。周囲には田園風景がひろがっている。
わたしは堀端で釣り竿を手にしている。
夕暮れころか。大きな木々が影となって風景の一部を切り取っている。
釣り糸が水面に垂直に垂れ、糸の先は水中に隠れている。
そのとき、釣り糸からぴくっと手応えが伝わり、釣り竿をあげると糸の先にピチピチと元気のよい魚がかかっている。
釣り竿は、その魚の重さで弓なりにしなる。
わたしはうれしくなり、サカナガツレタ、サカナガツレタ、と喜びの声をあげる。
それは鮒かなにか、中くらいの大きさの魚だったような気がする。
場所は父母の郷里である佐賀の筑後川のそば、母の実家近くの田んぼに囲まれた池のようにも思える。
母が出産のため東京から里帰りしたその実家で、わたしは産婆さんから「とりあげられた」と聞いている。
わたしは東京で育ったが、幼少のころ父母につれられて、母の実家(江戸時代からのこる武家屋敷)に行った経験があったような記憶もある。しかし、それもうすぼんやりとしていて定かではない。
この釣りの体験は、夢に見たことなのか現実にあったことなのか。
幼い頃の記憶のほとんどがそうであるように、じつはこの記憶もいまとなっては確かめようがない。
しかし、どんな夢もじっさいの体験が元になっているはずだから、こんな問いは無意味かもしれない。過去の「脳の経験」としては現実も夢も同質の経験としてのこるのではなかろうか。
だからじっさいの体験”も”あったにせよ、こんな夢を見たこと自体は事実であると思える。眠りから覚めたとき、そばに父がいて、わたしがサカナガツレタと寝言を言っていたと教えられた憶えもある。
それらの記憶の細部が多少は”事後に”再構成/編集されたものであるとしてもである。
——それにしても、わたしが釣った魚とは、なんだったのだろうか。
魚にはまぶたがないため、「目覚めた者(悟りをえた者)」の比喩としてつかわれることが多い。
キリストや先覚者というそんな魚のシンボリズムはさておくとしても、水面下が無意識層とすると、そこに糸を沈め魚を釣り上げるということは、無意識から意識に向けて何かが引っぱり上げられ”固体(個体)化”したことになる。
おそらく”正解”は、単純に一言で言い切れるものではないだろう。
しかし、おそらく7歳前後という年齢から言っても、この魚が言葉の獲得とか、自我(自意識)の芽生え(目覚め)、その自覚とかと関係しているということは言えそうだ。
水面という境界面を越境し、空中に躍り出た魚はその後どうなったのか。
糸を引き寄せ岸にあげられたのか、それとも再び水に還ったのか。
わたしのこの夢の記憶は、魚を釣り上げ、サカナガツレタ、サカナガツレタと2度繰り返すところで終っている。
——「溶ける魚」というある意味でショッキングで鮮烈な、固体(個体)化とは正反対の言葉/イメージ(A.ブルトンの詩集タイトル)に出会ったのは、ずっと後年のことである。

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