子を思う母の文字二つ <その2>


龍門牛橛像造記(りゅうもんぎゅうけつぞうぞうき)
牛橛像造記印影
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 龍門牛橛像造記の印影

 もう一つのカクカクとした「母の文字」として、私がこれから述べようとするのは、はなはだ唐突ですが、中国ー北魏の、中でも「龍門牛橛像造記」(太和十九年/495年)です。

 これから述べることは、「町まちの文字を訪ねて」という私の文字の旅からすると、いささか書道という芸術に専門的に偏りすぎている恐れがあるものです。したがって、その道に素人の私のよくするところではありませんが、ことの成り行きで、いわゆるモノの本にたよりながら話を進めることにいたします。

 実は私は、この牛橛像造記には、そこにもう一つ、平安の三蹟に数えられる藤原佐理の「離洛帖」とともに、特別の思いをもってきました。それはほぼ十代の終わりの60年程前、私が抽象絵画に傾倒し始めるころ、たしか夜店の本屋かなにかの山の中から探し出した法帖からはじまるものです。抽象絵画と書道。私はこのとき、日本画を描いており、自分が画面に描き出す抽象的な「線」というものの、西洋絵画の流れとは違う、日本のアイデンティティを求めていたのだろうと思います。佐理については今回は措くとして、問題は牛橛像造記です。これを始めて見た若き日、私はこの、異民族の創りだした線や豪快な形に少なからず衝撃を受けたのです。それまで私がみてきた書/楷書の、王羲之流のまるやかな形とは違う、強靱な精神力と、いわば北魏の騎馬民族的な人間の、強靱な膂力に託された精神力のありかをみる思いだったのです。特に縄文以来の定住生活に明け暮れた、その末裔としての自分とは著しく異質なモノを感じたのです。

 もう一つ、これが、たんに筆によって書き出されたモノではなく、加えるに石工の刀の切っ先によって生み出されたモノ、という点です。これはその後の私の画面の作り方に大いに影響を与えていると思っています。さらに60年代に画業とパラレルに編集という仕事を始めて、グーテンベルクの印刷術に出会い、そこに私なりの問題を見出してゆく、その過程に大きく繋がっていったと思っています。

 前置はそのくらいにして本題に戻りますが、この牛橛像造記は、唐に負けず仏教の熱心な信仰者だった北魏の開発した龍門石窟に刻された中の弥勒菩薩像に付随して、その縁起を記したモノです。龍門石窟とは洛陽の南にあって、雲崗、敦煌と並ぶ磨崖仏の宝庫です(と申しても、そこを実見しているわけではないのですが)。なかでもこれは息子牛橛を亡くした亮夫人、尉遅(いぢ)と呼ばれる母親が奉納した、一躯の弥勒菩薩像に託する願文です。

 それは「願わくば牛橛、分段の境を捨てて、無礙の郷に騰遊し・・・」というように、ほぼ50年以上も、この拓本の複製を手に、今では暗唱できるほどです。そして、「どうかそれが妙楽自在の處であるように・・・若し苦累があれば、即、解脱せしめ・・・」と、いまや我々が住むこの分節世界の、不自由な重い衣を脱ぎ捨てた牛橛の、あの世での、楽しさに溢れた在り方を願う、切々とした文章へと続くのです。

 ですが、これは先の「德竹」の文字と違って、どうも母の尉遅が自ら書いたのではないのだそうです。なるほど今の私達も先祖の法要に供える白木の塔婆なども僧侶が書くように、それは尉遅の願文も「請工鏤石」つまり「工を請い石を鏤み・・・」といっていますから、やはり当時から石工、といっても仏師である石工かもしれませんが、あるいはもっと僧侶か誰か、とにかく専門家がかかわっていたのでしょう。とすれば前回で述べた方筆というのも、もともと北魏の筆遣いが、つまり像造記の原稿そのものがカクカクしていて、その上に、石を鏤んだ専門家が、槌と鑿の切っ先でつくりあげた、そういう、筆とは違う切れ味の表現がだだよっています。それに、ここ龍門の軟らかめの石そのものの質も与っていたかもしれません。

𦾔拓龍門二十品/上
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 拓本を本の規格サイズに切り貼りしてつくられた牛橛像造記のページ。(「kyu.gif拓龍門二十品/上」上海有正書局発行)

 先にも申した私が若き日に出会った法帖の表題は「kyu.gif拓龍門二十品/上」(きゅうたくりゅうもんにじゅっぽん)」とありますが、上海有正書局発行というものです(右写真)。龍門の像造記の優品二十点を選んで二十品としたもので、この牛橛像造記はなかでもトップクラスのものだということもその後、だんだんとわかってきました。表紙も酸性紙なのか、いまではもうぼろぼろになって、和綴じ様の綴じ目もほつれてしまっていますが、法帖ですから、拓本を本の規格サイズに切り貼りしてつくられたものです。ところが、あるとき感激的なことに、この拓本のもとの姿そのままの印刷物、つまり印影を手に入れたのです(本ページ一番上の写真)。そのとき初めてこのいしぶみのもとの姿を知ることができました。それともう一つ、「kyu.gif拓」ですが、文字通り古くとられた拓本、という意味でしょうが、これは版画のように実際の石面に紙を押しあてて、上からタンポンで墨を打ちながら写し取ったものです。ですからそのときの技術者の能力とか、紙、墨など、石そのものの風化や事故などによる変化もあるかもしれません。早い時代に取られた拓本のほうが、その刻字のオリジンに近い、という意味もあるのでしょう。実際、法帖を比べてみると、石の摩滅のためか、ディテールの抜け落ちたりしているものもかなりみられるのです。ですから「kyu.gif拓」というのはそういう意味でしょう。木版画や石版画などでもおなじようなことがおこります。

「鄭長猷像造記」景明2年(501年)拓本部分
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 「鄭長猷像造記」景明2年(501年)拓本部分。もう一つ、同じ二十品の中のここに掲げた「鄭長猷像造記」などはもっと激しく角張っていて、なにか、この人たちの持つ、私達とは違った、雄大な天地感覚、文明の朗らかささえ感じます。

 しかし素人考えながらそれとなく疑問を感じるところもあります。たとえばこの弥勒像の施主が、なぜ牛橛の父親ではなく母親だったのか(この時代のこの民族の社会制度?)、とか・・・。この家は代々北魏帝室と婚姻関係を結んできた有力な家柄で、夫の亮は中山公主と結婚し重任せられ・・・502年没(平凡社「書道全集6」による)。牛橛像造記が495年ですから、まだ夫は在世中です。どうもつまらないことが気になります。そしてどうしたらこんなカクカクとした文字が書けるのだろうか。筆は? などなどです。いや、それよりも何よりも、こんな四角い文字に価値を見出すこの民族のセンスとは?

 ちなみに、わが空海の最初の入唐求法は、牛橛の文字から300年ほどのちの804年。当時唐の都でもてはやされていた、特に王羲之や顔真卿などの書法を持ち帰ったといわれています。また、すこし早い天平時代に光明皇后の臨模(搨模/敷き写し説も)した王羲之の「楽毅論」の雄渾な文字が、あの正倉院の御物として伝わっています(印影は正倉院のサイト内「宝物検索」で「楽毅論」と入力すると、ご覧になれます)。一緒に筆も保存されています。これは唐からの舶来ものなのでしょう。

 また、あの天平時代の写経の、あの切れるような筆遣いの魅力は、兎毛の筆が創りだした独特の表現、と聞いたことがありますが、この方は写経所による国産でしょう。

 そのように唐の文化は当時の日本にとっても憧れの的でした。従って私達の書の風景は、1500年もの間そのように、基本的に王羲之風であり、円やかな楷書の、つまり唐の都振りの字様が基本でした。

 今書いている北魏の文字には、刀の効果を差し引いても、どうもそうした貴族趣味の軟らかさは見られません。

 ところが話はそう簡単にはいかなかったようで、騎馬民族であった北魏の場合も、自分が征服した高度な文化への憧れから、王羲之などの書風をまねようとする動きが出てくるのだそうです。そう思ってみると、後述する敦煌の勝鬘義記写経の文字と比べて、この牛橛像造記にも、いくぶんエレガントな円みと文化的な落ち着きのようなモノを感じるのですがいかがでしょうか。

 しかし被征服者の文化に憧れる、ということは、後に中国大陸を制したチンギス・ハーンの元がそうですし、古代ギリシャを征服したローマ帝国も・・・。その辺りは、近世以後の植民地主義的支配の様相とは違うところかもしれません。

 それにしてもその北魏の筆そのものはどんな毛質で、どんな形をしていたのか。どんな筆だったらあんな文字が書けるのか、気になるところです。ところがある時そんな私の疑問にひとつの解を与える機会に恵まれました。

 じつはこれらの文字は始め、というか長らくというか、北方の異民族の文字として、書法としてかえりみられることがなかった、ということ。それともう一つ、これは今申した彫刻刀の力が創りだしたもので、筆でつくる書からみて、手本に値しないものだ、つまり筆によってはこのように書けるわけがない、という説さえ現れたそうです。

 たしかにそう思うのも無理からぬことですが、しかし20世紀の初め、イギリスのスタイン探検隊や日本の大谷探検隊他の考古学者によって発掘された敦煌莫高窟や楼蘭から発掘した木簡、写経などの文物が私達の目に触れるようになって、さまざまなことが解るにつれ、かなり見方も変わってきました。

 私は1983年正月に東京上野松坂屋で催された大英図書館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展をみて大変感動するのですが、そこには我々を魅せてやまない木簡30点の、古びた木肌に隷体、篆体の美しい文字がしみじみと浮かんでいます。その他に巻子本の写経10巻が展示されていて、そのときはなるほどこれが我が天平の写経の元祖なのか、と。

 私にはそれらのどれもが同じように筆先の鋭い切れ味とか躍動感が感じられ、わが天平の写経を頭に思い浮かべながら、つくづくと感じ入ったのでした。そしてこれもやはり兎毛筆によるものなのだろうか。

右から「勝鬘義記」、「北魏・魏靈像造記」、「北魏・楊大眼像造記」。左二字は「北魏・始平公像造記」。
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 右から「勝鬘義記」、「北魏・魏靈像造記」、「北魏・楊大眼像造記」。左二字は「北魏・始平公像造記」。(大英図書館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展パンフレットより)

 この展覧会のパンフレットの解説によると、その大半は北魏の写経だったのですが、その中に「雑阿毘曇心経巻第六 北魏 太和三年(479)」、それから「勝鬘義記 北魏 正始元年(504)という二つの写経をとりあげて、これはわが「牛橛像造記」が太和十九年(495)ですから、ちょうどその中間にあたるものですが、前者は一行17字という写経の決まりどおりに書かれているが、後者は一行の字数を、数えるのもつらくなるほど詰め込んでいます。そしてなによりも有り難いことに、その解説に、像造記の文字と、この写経、特に勝鬘義記の字様と、牛橛像造記ではありませんでしたが、同じ龍門の魏霊像造記、楊大眼像造記の文字を、写真で比べて見せてくれているのです。これがまさに像造記の文字の、刀で削らない生(なま)の姿をみる思いなのです。そうかあのカクカクした文字も、その原稿はこのような字様だったのか、と、思わず納得なのでした。

 ところが「文字の文化史」の著者藤枝晃先生も、著書の中で、この敦煌や楼蘭の発掘写経の、特に北魏の文字に触れ、兎毛ではこれほどの強さは出せないはずで、あきらかに、堅い木簡を書くために用いた鹿毛の筆によるものだ、といって、清の阮元が唱えたという北碑南帖論に対して、むしろ筆の違いが大切で北鹿南兎という説をたてておられるのです。つまり兎毛筆は紙に書くことが定着してきた南朝風のものだというのです。兎毫竹管、わが正倉院に遺っている御物の筆がやはりそうです。

 さらに藤枝先生によると、写経は何人かの写経生が一人の先生の工房で生産したチームワークだったのだそうで、そのためその工房で作られた写経は、どれも同じような書体になっているということです。つまりこれは人類が最初につくりだした紙媒体としての書籍は巻子というもので、それをこうして組織的に作りだしていた、というごく初期の風景なのです。たぶん牛橛像造記も、その原稿は、そういう人たちの誰かによって書かれたものなのでしょう。

 しかし、その敦煌の、北魏時代の写経が発見されたのであれば、何も石窟の拓本に依らずとも、その生の文字を手本にした方が、手っ取り早いはずだし、もっと正確に真に迫れるのではないか、とは、誰しも思うところです。しかし、そのようにはいっていない。なぜか。

 思うに、やはり龍門石窟群の文字は、確かに写経に代表される文字をもとにして彫られてはいるが、石に彫られた以上、写経の肉筆の文字とは、やはり別物で、刀が加わった分、造形的な変形が加わり、そこに新たな魅力が生まれたのだと思います。つまり両者はほとんど別物で、当然といえば当然のことで、だから石窟の拓本を臨書する人は、北魏の文字に憧れはするが、敦煌で発掘された写経のようななまの文字を、この拓本から書き起こそう、とは思っていないのでしょう。

 つまり北魏の刻字の原稿としての肉筆がまずあって・・・刻字・・・そして拓本という印刷、それを再びこのように、臨書というコピーとして、もうひとつの肉筆が生産されるという・・・・その一連の過程で起こる手とか目の背後に存在する文明の変化、それぞれの書き手の身体的な遺伝子の履歴とか、そういうものが歴史を通じてつくりだす文字のダイナミズム。

 ところが先日、NHKテレビで「とめ はねっ」という、なんと高等学校の書道部をテーマにしたNHKドラマを見ました。いま若い人の間で書道がはやっているとは聞いてはいましたが、びっくりです。舞台は鎌倉にある鈴里高校。う! すずり(硯?)、河合克敏作の漫画がベースになったドラマだそうです。

 ドラマは鈴里高校が、書道甲子園に出場することになりましたが、その背景にも、一瞬でしたが、高校生の作品として、龍門像造記の部分的な臨書が、半切に何文字か、かなり拡大して書いた文字が映りました。だれか専門家の手によるものでしょうが、なるほどこういう字になるのか、と、感心しながら、しかし拓本を見慣れた目には、どこか情緒的なにおいが先行して、やはり筆というものの作り出す表現の生々しさが妙に気になる、といった感じでした。まさに「とめはねっ」という言葉が言い当てているように、筆の穂先の鋭さとか、撥ねの筆先の利かせ方の、それに筆のかすれも、つまり書道という身体行動そのものの生々しさ、「肉筆」とはよくいったもので、それは龍門の法帖では、陰刻の線の空白のなかに、すべてしまい込まれているものです。

 いろいろ述べて参りましたが、じつはこれからが本番。もったいぶるようで恐縮ですが、この稿で私がほんとうに述べたいことなのです。

 それはこれらの文字が、先述の通り、肉筆を原稿にして刀で彫りだした、文字、というまさにそのことです。この法帖の北魏の文字がつねに頭にあり、抽象画を描き、いけばなの雑誌を編集し、当然印刷術にもふかくコミットし、そういう生活の流れの中で、北魏の文字は私の中で、つねに見直され、新たな美をうみだしてきました。

 そして特に1973年に発行した「町まちの文字」と75年の「祈りの文字」(いずれも芳賀書店芸術叢書)の二冊を作るための、約10余年にわたる取材の途上で出会った、活字ないしはグーテンベルクにおいて、そうなのでした。

 その二冊は、書道という芸術の文字から又こぼれ落ちた民衆の文字、というテーマを持つもので、いわば書道界からシカトされた文字たちの写真集という態のものです。

 その過程で気づいた書道界からシカトされた文字、の一つ(刀が作りだしたものだから、書法としては不適)としてのわが牛橛像造記の文字も、先述のように、まず民族的な差別、そしてもう一つ、それが筆によらない、刀の切り出した文字、という美的差別にさらされた文字だったという発見です。

 その本の中で私は、グーテンベルクの印刷機そのものよりも、むしろ彼が活字の鋳造器をつくりだしたことの意味を述べました。それは銀細工職人だったという彼の出自に興味を引かれたからです。そしてさらに中世の錬金術へと想像の輪はひろがったのですが、それはともかくとして、古い写本の文字を一字ずつ丹念になぞって、それをまた銀細工で培った職人の技術で丹念に彫り上げて、文字の、活字の父型(原型)を作り上げた、という点です。

 グーテンベルクではそれが印刷機というかれのもう一つの発明品によって、大量なコピーを生み出す、ほとんど神話的豊穣のイメージをもつ仕事の基となったわけです。そして良かれ悪しかれ、この巨大な現代文明を作り出す基となりました。

 いっぽう、何度も申しますが、北魏の像造記の文字においても、肉筆原稿を刀で切り出してつくった独特な文字だったということ、またそこに紙を押しあてて、それをこすって写し取る、拓本という一種の印刷術も加わって、その総合で出来上がったものだということに、両者の相同性をみるのですが・・・。

– 會津八一 –

 石の文字から肉の文字へ・・・。肉筆。ここで會津八一先生の独特な書法の書のことを思い出すのです。先生は古代への憧れから、まるで万葉集から抜け出したようなすばらしい歌を作ることで有名ですが、若き日、奈良を旅行するときなぞには、決まって先生の歌集を持参したものです。

「ならさかの いしのほとけの おとかひに こさめなかるる はるはきにけり」
古い街並みで有名な奈良町へ通じる道筋で、ちょうどこれから三月頃、この先の元興寺へはよく通ったものです。

「ふしはらの おほききさきを うつしみに あいみることき あかきくちひる」
法華寺の十一面観音。先の楽毅論の光明皇后によって創建され、インドの仏師が皇后を写したと伝えられています。

写真はその前5、7、5の部分ですが、ご覧になってわかるように、平安の歌切れなどとはずいぶん違うものです。(西田松香氏採拓)
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 写真はその前5、7、5の部分ですが、ご覧になってわかるように、平安の歌切れなどとはずいぶん違うものです。(西田松香氏採拓)

 などと、次から次へと口をついて出る歌に誘われながら歩いたものです。
 先生はこれらの歌を、墨で書かれるのですが、それがまたすばらしいのです。私も一枚、歌碑の拓本を持っています。私のは、

「ひそみきて たかうつかねそ さよふけて ほとけもゆめに いりたまふころ」

 と、すべて仮名文字です。

 そういう先生の書法には独特のものがあって、なんと、新聞の活字を手本に稽古する、というのです。いま出先なので資料が手元にありませんが、確か先生も北魏の文字などの金石文を好んで居られたと記憶していますが、活字が一番いいのだ、と云われるのです。

 活字となれば我がグーテンベルク。先述したように彼の発明した活字も、写本の手書きの文字を、金属の文字に変換したものです。そうであれば、活字こそ現代の金石文。先に述べた會津先生のお習字は、活字という金石文を刷って作った新聞という「拓本」を、お手本にしていたということで、先生の書法は活字というものの底に流れる古代の薫りをかぎ取ってのことだったのではないでしょうか。

「壺中居」の看板
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 「壺中居」の看板

 そういう會津先生の揮毫による看板があります。これは日本橋の有名な古美術商「壺中居」の文字です。秋艸道人とあるのは會津先生の雅号ですが、この文字、いかがでしょうか。「はねとめっ」という筆の穂先を全部文字の線の中にしまい込んだような、やはり方筆といった感じが、私にはするのですが・・・。

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