アリストテレス政治学における「正」の位相2


タクシス(整序)とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より荒木勝(岡山大学教授)
[2]訳語の問題

 第三巻第一章の冒頭でアリストテレスは市民の定義について検討しているが、その文脈に次のような文章が展開されている。

「また市民という名前は、法廷において告訴したり、告訴されたりする資格を与えられている程度においてのみ市民的権利(シヴィック・ライト)に関与する人々に与えられるのではない。このようなものは、外人にも帰属する権利であって、かれらは条約によってそれを享受するのである」(1275a8-11)。

 この「シヴィック・ライト」と訳した「ライト」の部分はギリシャ語では「ディカイオン」の複数形であるが、欧米の訳語においても、「正義のシステム(ジャスティス・システム)」(レーヴ)、「正義の問題(マターズ・オブ・ジャスティス)」(ロード)、「法的訴訟へのアクセス(利用権)」(シンクレアー=ソンダース)、「市民権(デゥルア・シヴィック)」(ペレグラン)、「政治的権利(デゥルア・ポリティク)」「権利(レヒト)」(ギゴン、シュトルンプ)と訳され、「正義」という訳と「権利」という訳とが入り混じっているが、バーカーのように「権利」と訳しても十分意味が通る箇所であろう。少なくともこの箇所の「ディカイオン」は、ホーフェルトの言う、正当な自由行使権、正当な請求権、正当な権能、正当な免除権を意味する語と理解しても差し支えないであろう。

 なぜならここでは、市民間を拘束する法すなわち実定法、また国家間の条約によって規定されている実定法的な関係が議論されているからである。アリストテレスにおける権利概念を否定するレオ・シュトラウス派に属するロードにおいても、「ディカイオン」は基本的には「正しいこと」とされながらも、実定法的な意味での「権利」の意味は否定されていないのである。

 しかしながら当のバーカー自身はこれによって直ちにアリストテレスにおける十全な意味における権利観念の存在を主張していないことに注意すべきであろう。バーカーによれば、古代ギリシャの思想においては、個人の観念は特別に際立ったものというのではなく、権利の観念にもほとんど到達していなかったとされ、プラトンもアリストテレスも正義の徳の教育は国家の使命と看做していた、とされる。したがってバーカーの見解においては、近代の権利は個人から出発し、国家の干渉を排する志向を持つが、プラトンやアリストテレスは、基本的には国家=全体から出発し、個人は国家の目的を実現する手段として位置づけられるか(プラトン)、世界の目的論的秩序のなかに位置づけられる存在(アリストテレス)、とされる。

 こうしたバーカーのアリストテレス理解に立てば、上述のような箇所から、アリストテレスの「ディカイオン」の内容に、個人が固有に持つ権利という観念を読み取ることはいささか早計であるかもしれない。しかしながら、アリストテレス政治学の世界には、「ディカイオン」を個人に即して個人内在的に位置づける視点がまったく欠落しているのであろうか。今一度アリストテレスに即して「正」と市民個人の論理的関係を検討してみることにしよう。

その3へ続く

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