第4章
ところで、こんな疑問を口にしたいと思っている人がいるかもしれない。正しい人になるためには正しい行いを、節度ある人になるには節度ある行いをしなければならないというが、しかし、それはどういうことなのか。つまり、正しい行為や節度ある行いをする人たちがいるとしたら、あえていうまでもなく、その人たちはすでに正しい人であり節度ある人なのではないか。文法を正しく使いこなせる人、音楽を巧みに奏でられる人たちは、すでに文法家であり、音楽家であるのと同様であるはずだからだ、と。
しかし、たとえばテクネー(技術、技芸)においてさえ、そうとばかりはいえないのではなかろうか。というのも、かりに文法通りに語ってはいても、たまたま偶然にそれができているということもあるし、誰かに教わったとおりになぞっただけということだってありうる。したがって、ある人を正しく文法家であるというには、文法に関連した事柄を自らのものとして、文法家ならではの仕方で語る人でなければならない。文法家ならではの仕方というのは、自分自身のものとして身につけた知識・知恵に基づいてという意味である。
さらにまた、テクネーとアレテー(徳、卓越的力量)とでは微妙に異なる点もある。テクネーによって作り出されたものは、そのテクネーの性質をそのもののうちにもっている。したがって、それがそのものに一定の”成果”として結果しているならテクネーとして十分なのである。
アレテーの場合はそうはいかない。ある行為がテクネーのようにある一定の性質をもっているというだけでは、正しい行為や節度ある行いとはいえないのであって、行為する人自身がある一定の状態(ヘクシス)において行為することが、正しい行為や節度ある行いには必須の条件なのである。
その条件には3つある。すなわち、①行為する者はおのれの行為が何かを知っていること。②その行為をその行為自体を目的として選択できること。③行為する者はその行為をぶれることなく安定して持続的に行いうること。この3つの条件が満たされている必要がある。
これらの条件のうち①の「知っていること」はテクネーにもあてはまり、それ以外はテクネーの条件にはないものであるが、反対に、アレテーにあっては「知っていること」はまったく、もしくはほとんどといってよいほどわずかしか意義をもたないかわりに、②と③はわずかどころか絶対といってよい重要な意義を有し、また、それは正しい行為や節度ある行いが何度も繰り返えされることによって生まれ培われるたぐいのものなのである。
ということで、さまざまな行為がなされる場合、それが正しい人や節度ある人が行うであろうような行為であるときに、それを正しい行為や節度ある行いというのである。そして、ここでいう正しい人、節度ある人とは、ただ単にかかる行為をする人であれば誰でもそうというわけではなく、これらの行為を正しい人や節度ある人が本来行うような仕方で行う人を指すのだ。
こうして、正しい行為をすることで正しい人となり、節度ある行いを実践することで節度ある人となるという言い方が適切な言い方となるのである。しかしながら、人々のなかの多くはこのように行為することをせず、言葉による議論に逃げて、それが哲学することであり、議論することで「善き人」になることができると思いがちである。しかし、それでは、医者のいうことに注意深く耳を傾けはするが、処方されたことはなにも実行しない病人と同然。だから、そのようなやりかたで治療に臨んでも患者の身体の容体がいっこうによくならないのと同様で、そんな態度で哲学する人たちの魂の状態(ヘクシス)が善くなることは、まずありえない話なのだといっておきたい。
超訳『ニコマコス倫理学』第2巻 第4章
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