第3章
なにか行為をするときに、それを快いと思うか苦痛と感じるかは、その人のヘクシス(心的傾向、状態)のありようを測るさいの一つの目安となる。すなわち、肉体的な快楽を抑制しながらも、その抑制することに悦びをおぼえる人は節制的な人であり、それに反して、我慢を我慢ならないと感じるならば無節操な人である。また、恐ろしいことに耐え、耐えることに苦痛を感じない人は勇敢な人であり、反対に、そこに苦痛しか見出せない人は臆病な人である。
まったくのところ、人格のアレテー、すなわち徳といわれる人柄における技量(裁量)は、それを行うことがその人間にとって快か不快かによって測ることができるといえよう。じっさい、私たちは快楽ゆえにそうと知りつつ低劣なことをしたり、苦痛を厭うがゆえにせっかくの尊い行いを避けたりするものだ。だからこそ、プラトンのいうように、悦ぶべきことを悦び、苦しむべきを苦しいと感じることができるよう若いときから何らかの指導が必要なのであり、それこそが真に教育に求められるべきことなのである。
また、「人格のアレテー」は行為(プラクティス)と情念(パトス)にかかわりがあり、あらゆる情念や行為には快楽と苦痛がともなうものであるとするなら、アレテー(徳)に快楽と苦痛が関係してくることは言うをまたない。懲罰・懲戒といったことが、快を奪い苦痛をあたえることによって行われるのも、そのことを如実に示している。じっさい懲罰・懲戒には一種の矯正としての医療に近いものがあるが、それは医療行為が相反するものを処方することによって(熱には冷を、小には多をといったぐあいに)行われるのが基本だからである。
およそあらゆる魂のヘクシスは、それを善くしたり悪くしたりするものの本性との関係において、その本性の特長にかかわっていくという性格をもっている。したがって、人々が劣悪な人になるのは、この快楽と苦痛への姿勢として求めてはならない快楽や苦痛を求めたり、求めなければならない快楽や苦痛を求めず、求める時を誤り、また求める方法を間違えたり、その他、どんな事柄であっても、この快楽と苦痛に関係したかかわり方を見誤ることによってである。
そのためある人たちはよきアレテーを一種の「何も感受しない状態(アパティア)」とか「平静の状態(エーレミア)」だとかいうことで説明しようとする。しかし、この定義は、その事項が無条件的に語られており、いかなるやり方でそうなるのか、ならないのか、どんなときにそうあるべきか、そうあるべきでないのか、その他それに附随する諸々の条件が何も語られていない。だから、語られていない以上すぐれた定義とはいえないのだが、いずれにせよ、人格のアレテーとは、快楽と苦痛に対して最善のかかわり方ができる魂のヘクシスであり、悪徳(カキア)とは快楽と苦痛に対して魂がその反対の状態にあることだということは間違いなかろう。それはまた、次のようにいえることからも明らかだ。
なんであれ、私たちは私たちが対象を選ぶさいの選択基準を3つあげることができる。すなわち、美しいもの、有益なもの、快いものであるが、反対に選択のさい避けるものとしては、醜いもの、有害なもの、苦しいものがその3つである。選択にあたって、善き人はこれらに正しい対応ができる人であり、悪しき人は誤りやすい傾向をもつ人であるといえる。ことに快さ、快楽についてはそうである。
というのも、快楽を好む傾向はすべての動物に共通であり、しかも、選択にあたってのあらゆる対象に快さは伴うものだからである。それに、じっさいのところ、美しいものや有益なものは同時に快いものでもあるのだから。
もっといえば、快楽(快感)は幼児期からわれわれひとり一人の欲求のうちに培われてきたものであり、われわれの生に折り込まれたこの快楽への情念(パトス)を拭い去ることはきわめて困難である。そればかりではない、われわれは自分たちの行為の価値さえ、程度の差はあるにしても、快いか苦しいかを基準に推し量っているものなのだ。
そうだからこそ、私たちのこの講義においても、快楽と苦痛の問題を避けて通ることはできないのである。事実、同じ快楽と苦痛であっても、善いやり方でそれを感じるか、悪しきやり方で感じるかは、われわれの行為のあり方に少なからぬ影響や効果を及ぼすものなのである。
またさらに、ヘラクレイトスのいうように、たしかに「激情と戦うのはむずかしい」が、快楽の誘惑と戦うのはもっと困難であり、技術(テクネー)もアレテーもその困難なことにいつもかかわっているのである。じっさい、「善き」行為とは、そんな困難な事柄においてこそ、それが困難だからこそ「善」であることを発揮できるともいえるのだ。
事ほどさように、アレテーも政治学もそれが対象とするすべてに快楽と苦痛が関連しているのである。これらに良く対処できる者が善き人となり、悪い対応しかできない者が悪しき人になるのであるから。
ということで、アレテーは快楽と苦痛に関連していること、また、それにともなう行いによって成熟し、その行為がきちんと行われないときに失われるということ、さらに、アレテーは自分がそれによって生まれた原因と同様の目的をもつ行為において活動するものであることが、この講義で語られたことになる。
超訳『ニコマコス倫理学』第2巻 第3章
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