第2章(2-2)
われわれのこの講義は学問(テオーリア、認識)のための学問を目的としているわけではないのだから(つまり、われわれはアレテーとは何かを学ぶこと自体が目的ではなく、学ぶことで善き人となるのが目的であるのだから)、じっさいにどのように活動を行うべきなのかをここで考えておく必要があるだろう。これまで述べたように、人格のヘクシス(傾向、性向)がちゃんと一定のかたちでつくられるかどうかは、どのような行為をどのように行うかにかかっているのである。
私たち人間は「正しいロゴス(道理、理性、言葉)」に従って行動すべきだということは、だれもが認めることなのであるから、まずはその前提で話を進めよう。ただし、なにが正しい(オルトス)ロゴスなのか、それがアレテーとどんな関係があるのかはということはここではあまり追求せず、後にまわすことにする。
またこの講義をはじめるにあたって、題材に応じた論述の仕方を考えなければならぬわけだが、その意味で、行為(プラクタ)に関するこれからの議論は定義の厳密さをもとめる方向ではなく、まずはその大まかな輪郭を描くことができればよいとすることで進める点も了解のうえであるとしたい。実践(プラクシス)的な事柄やじっさいにそれが何の益になるのかというようなことは、何が健康にいいかといった事柄と同様に、事前にはっきりと決められるようなことではないからである。一般的にいってそうなのであるから、なおさら個別的な適用の仕方など厳密な決めつけはできない。
じっさい、個々にどうすべきかなどということは、技術面からいっても、一般的な教育からいっても一律にはいえないものなのであって、ちょうど医療や航海術がそうであるように、それぞれがそれぞれの状況に応じてそれに適したやり方を考えるしかないのである。しかしまあ、そうはいっても、できるだけ実際面で実践的に役立つ助言になるように努めてみるつもりではあるが。
ということで、まず始めにいいたいのは、人格における場合のヘクシスは、体力の維持や健康の増進がそうであるように、なにごとも多過ぎるか少な過ぎることがあるとそれらは損なわれやすくなるということである。これははっきりといえる。こういう言い方をするのも、私たちは、明確でないことを明確であることによって示さなければならないからだが、運動の不足も運動のし過ぎも身体から力を奪い、食べ過ぎ飲み過ぎ、反対に飲食の不足も健康を損ねる結果をまねくことはわかりやすい事例であろう。体調に合った運動量や食物の適度な摂取はよき身体をつくり、健康を保つものであることは誰もが知っている。
節制とか勇気など、人格のアレテーについても同様のことがいえるのだ。すなわち、なにをするにも億劫がり、あらゆることを避け、恐れ、耐えることをしない人は臆病な人間となり、反対に、何事も恐れるということを知らず、向こう見ずに突き進んでいくような人はただ無謀な人間であるということになる。同様に、あらゆる快楽に目がなく慎みを欠いた人は放埒で自堕落な人間となり、生きることのあらゆる悦びを放棄する人はおもしろみのない野暮な無感覚人間となる。かくして、重要な徳(アレテー)のひとつである節制と勇気は、ともに過剰であることと不足することのどちらによっても失われ、「中庸(メソテース)」によってこそ保たれるということになる。
アレテーが生まれるのも向上するのもひとつの同様の事柄からであり、同じ事柄に対する行為の大小と多寡によってであるが、それだけでなく、アレテーに応じた活動もまた、同じ事柄にたいして再帰的に遂行されるといってよいだろう。このことはやはり、たとえば身体の例をみれば明白である。
つまり、しっかりと食べて栄養をとり、多くの厳しい労苦に耐えることで体力はつくられるが、逆に、体力のできている人ほど多くを食べ、つらい鍛練にも耐え得るようになるものなのだ。アレテーの場合も同じであって、私たちは快楽への欲求を慎むことで節制的な人間になるが、そうなったとき、私たちはなおさらに快楽を慎むことができるようになる。勇気も左様に、私たちはなにごとも不必要に恐れず、恐怖への耐性を習慣づけることによって勇気ある人となり、同時に、そうなったときますます私たちは恐ろしさに怯まず立ち向かうことのできる勇敢な人間になるのである。
超訳『ニコマコス倫理学』第2巻 第2章
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