哲学のはじまりに向けて
「人はだれでも、生まれながらに知ることを欲する」。これは古代のギリシャ哲学者アリストテレスの『形而上学』という書物の冒頭に出てくる有名な言葉です。 形而上学(メタフィジック)などというと、その言葉を聞いただけでいかにもむずかしそうで、即座に敬遠したくなる人もいるかもしれませんが、メタフィジックとはそもそものはじめは、単に「自然学(フィジック)の後」というほどの意味でした。つまり「万学の祖」あるいは「哲学の王」とも称されるアリストテレスの遺した幅広い哲学体系のなかで、執筆の順番でいえば『自然学』という書物の後に位置付けられるということ、そのことを単に示していたにすぎません。
むろん、形而上学が肉体とか具体的な物質とかではない、目に見えない本質とか実体とか魂とかを扱っている本で、抽象的で、いわゆる「高次」の思考対象を扱っていることは確かですから、ちょっと取っ付きにくいということは言えるかもしれない。でも、だからといって一般の人は近づくことさえできないような、特別な学者専用の高尚な学問ということではなかった。たまたま哲学者アリストテレスのこの書物が具体的な形で示しにくいそんな領域のことをあつかっていたため、後世になって、人間の魂とか、神の存在とかの抽象的な題材を思考対象とする学問領域をこの言葉で引き継いできただけなのです。つまり、人が生き、そして死ぬことの意味を知りたいと思うのはことさら特殊でも、特定の人に限ったことでもないということです。
「人はだれでも生まれながらに知ることを欲する」というこの言葉からもわかるように、哲学あるいはその一領域である形而上学とは、決してわれわれ「普通の人間」とは無縁の世界のことを扱っているものではない。日常の生活のなかで、目に見えるものだろうと見えないものだろうと、人はいつもいろいろなことを知りたいと思っているし、それは自分以外の他の人もそうであることを知っているということ。つまり、むしろ、誰もが知りたいと思っていること、万人に共通しているはずのことをわかろうと欲する思考が哲学であるともいえるのです。
形而上学という言葉だけではなく、この「哲学」という言葉自体に「むずかしそう!」と身構えてしまう人がいるかもしれませんが、そもそも日本語の「哲学」はギリシャ語のフィロソフィアの翻訳語です。フィロは「愛する」こと、ソフィアは「知」を指しますから、フィロソフィア(英語でフィロソフィー)とは知ることを愛する人といった意味なのです。「生まれながらに」物事のなりたちを調べたり、自然を観察することが人並み以上に好きで、いろいろと考えずにはいられない人をフィロソファー(哲学者)と呼びます。どの程度好きかどうかは人によって異なるでしょうが、多かれ少なかれ誰でも生まれながらに知ることが好き、というか、知りたいと思うのが人なわけで、つまり誰でも哲学者の資質をもって生まれてくるといってよいのです。
『形而上学』冒頭のこの一行の少し後には次のような言葉があります。
「人は驚くことから哲学する(フィロソフェイン)ことをはじめた」。これはどうでしょう。これも感覚的にわかりやすい、というか受け入れやすい言葉なのではないでしょうか。この場合の「驚き」とは、ただ大きな音に反射的にビックリするというようなことよりは、驚異、つまり人が不思議を前にしたときの心の反応です。不思議なものや畏怖すべき現象を眼前にしたとき「これは何だろう。なぜこんなことが起こるのか知りたい」という気持ちが自然に生じる。そんな当たり前の意識の動きが考えること、哲学することの原点であるとアリストテレスは言っているのです。ある意味で誰にでも「わかる」言葉なのではないでしょうか。じつは、そもそも「わかる」とはどういうことなのかということが哲学の大きなテーマひとつのでもあるのですが、ここではそのことは置いておきましょう(あとの「知性論」でもう一度触れることになると思います)。つづく