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【最終目的は「最高善」であり、その実現を志すことが政治(学)の目的である】
さて、いま種々の実践的事柄のなかで、その目的の遂行自体を願望するある種の目的があり、しかも私たちが他の諸々の実践もこの目的にかなうことを望むような目的が存在するとすれば、またあらゆる事柄をその目的以外の他の目的には選ばないというような目的があるとすれば、それこそが善そのもの(タガトン)であり、「最高善」(ト・アリストン)であることは自明である。もしこのような目的が存在しないならば、この目的の目的という過程の連鎖は無限につづき、そうなればその善への欲求も空回りしてむなしいものとなるだろう。実際この善の存在を知ることは、たいへんに重要な意味をもつことになるだろう。そうであればこそ、まさしく弓を射る人にとっての標的のように、私たちなすべき事柄に狙いをさだめ、それを射止めることができるのではないだろうか。
もし私のいうとおりだとすれば、その善なるものがいったいいかなるものなのか、またそれがいかなる知識と技能に属するものであるのか、その輪郭だけでも描いてみる必要がある。
しかしこの大きな目的である善は、もっとも高い権威があり、もっとも棟梁的(つまり総合的で統括的)な知の領域に属するものであろう。それは何かといえば政治学こそがそうであると思われる。というのも国家<ここでは具体的にはアテナイやスパルタなどのポリス(人口数十万人規模の都市国家)を指す>においてどのような専門教育が行われるべきか、また市民(国民)各人は、どのような学問をどの程度学ぶべきかを配分し取り決めるのは政治学であり、さまざまな技能のなかでももっとも尊敬されている能力、たとえば戦争術、家政術、弁論術のための能力も政治学の統括下におかれているのを私たちは見るのである。しかも政治学が他も含めた諸々の知をもちいて、何を行い、何を避けるべきか法で定めるのであるから、その目的は他の種々の知の目的を包含することになる。したがって市民である人間にとっての善の追求こそが政治学の目的なのである。<政治学こそ、市民の共同生活のあり方と国家の基本構想を提示するものであるし、市民にこの構想を共有できるようにすることが政治家の基本的義務である>。じっさい、善は個人にとっても国家にとっても同じ善であるが、国家の善を獲得し、それを維持することのほうがより大事なことであり、またより一層究極的な目的であることは明らかだ。なぜなら善は個人においても望ましいものであるが、諸々の民族(エトノス)や国家においては、さらにいっそう美しく、いっそう神的なものであるから。かくして私たちの探求はこのような善を追求することであり、それはひとつの政治学の研究ともなろう。
<ここでは倫理学と政治学を連携させて論じることが求められている。アリストテレスにおいて立派な人間とは、立派な市民的・政治的人間でなければならないが、彼の正義論においても個人的正義と市民的・政治的正義が共存する。また、政治学は、ギリシア後ではポリティケー・エピステーメーであり、その語義には市民的・国家的政治の意味がある。つまり政治とは、政治家だけが担う専門的で狭い仕事ではなく、市民一般が広くかかわって行う実践行為なのである。したがって倫理学もまた、ひとりの人間の個人的生き方としての倫理であるだけでなく、市民として求められる市民倫理、すなわち正義、節制、勇気、知慮などが重要な項目となる。現在、日本においても再興が唱えられている教育におけるリベラル・アーツの根幹も、これらの倫理項目を教え、それらの学びをエートス(習慣)化することにある>。