『半分のぼった黄色い太陽』のこと

 20140424.jpg チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽 Half of a Yellow Sun』(くぼたのぞみ訳 河出書房新社)を読んだ。
 この本は映画化され、昨年の夏フランスで知り合ったエヴァが、早く見たいとFacebook上に書いていた。スウェーデン人の彼女はヴェクショー在住なので、映画の公開はあちらでの話である(日本で公開されるのかどうか、私は知らない)。
 その英語で書かれたFBの投稿を読んだとき、たまたま以前にこの本を買ってもっていた私は(数ヶ月「積ん読」状態だった)、いまちょうどこの映画の原作本を読もうとしているところだとコメントした。すると、その絶妙のタイミングに驚いたらしく、エヴァは少し興奮気味にコメントを返してきた。
 このアフリカの若き女性作家アディーチェ(1977年生まれ)は、たいへんに優れた作家で、ストックホルムに彼女が来たときに会いに行ったし、彼女の作品はすべて読んだという。また、アフリカ系黒人である夫のベンはアディーチェと同じ「部族」の出であるとも書いていた(それがイボ族であることはこの本を読んでわかった。ベンには、エヴァや3人の子どもたちといっしょにフランスで会ったことがある。彼女たちは、私同様、私の姪の結婚式に出るため家族でフランスに来ていた。結婚式の数日後、パリで会食したときに、Facebookに熱中していたエヴァとその席で「友達」になった)。
 この小説は1960年代後半の「ビアフラ戦争」を軸に展開する物語で、戦争のむごたらしさと人としての尊厳性の相克が主題になっているといってよいが、それが「外側」からジャーナリスティックな「客観的視点」ではなく(むろんそれも必要だが)、日常の生活者の「内側」からの目線で語られており、戦争の悲惨さばかりではなく、何組かの男女の恋愛小説、複数の家族の集合・離散の物語としても「楽しく」読めるところが特長といってよいだろう。多数の登場人物や出来事を複雑にからめながら、しかも複数(3人)の視点でグイグイと読む者をひっぱりこんでいくストーリーテリングの才にはたしかに非凡なものがある。その筆致も毅然とした、佇まいのよい小説だった。
 国とはなにか、民族、部族とは? 家族とは、親子、兄弟姉妹、親類、そして恋人とは? また「主人と奴隷」とは? つきつめれば、自己とは、他者とは、いったい誰なのか(本文中にランボーの引用が一箇所だけ出てくる。「私とは、(ひとりの)他者である」)。
 いまだにはっきりしない推計では、150万人ものイボ人が虐殺され餓死したとされるこのビアフラ戦争(ナイジェリア内戦とも呼ばれる)。独立を宣言して3年もたなかった国ビアフラ(「半分のぼった黄色い太陽」とはビアフラの国旗にも描かれていたこの国のシンボル的アイコンである)。いま、時代は移り、世界情勢も激しく揺動しているとはいえ、この小説を読みながら、私には、あの子ども好きで口数が少なく物静かなベンの姿が何度も脳裏に浮かんでは消えた。
 私のように行動範囲も交友関係もけっして広く多いとはいえない人間にも、世界は無数の見えない糸でむすばれていることを感じ、アフリカを遠いと同時に少し近しいものにも思えた一冊だった。エヴァのおかげである。


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