この前書いたけど、黒沢清の映画『リアル』はおもしろかった。それで、原作の『完全なる首長竜の日』(乾緑郎著、宝島社)にもちょっと興味が湧いてきて、そしたら先日、本屋(ブックオフ)でたまたまこの本が目にとまったので読んでみた。
脳と脳をつなぐある医療装置をとおして、夢と現実が互いに侵食し合い、その境目が不分明になる、、、一人の女性まんが家が主人公の、「フィロソフィカル・ゾンビ」たちが跋扈する、そんなオカシナ世界のなかに主人公といっしょに読者は引き込まれていく、、、「弟」の自殺の謎をめぐる一種のSF/ホラー/ミステリー仕立てのお話なのだが、荘子の「胡蝶の夢」とサリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)』、あるいはマグリットの絵画『光の帝国』(私も好きな絵で、部屋にポスターまで貼ってある!)などをモチーフにしていて、物語の筋立てとしての謎の解明よりも、主人公が生きているこの現実とはなにか、登場人物たちはいったい誰なのか、といった物語の「舞台」あるいは仕掛け自体がミステリアスなテーマとして前景化し、物語の空間が私たち読者のそれとクロスしてくる、、、「ねらい」とするところは映画も同様ながら、微妙に人物設定、首長竜の扱いなどが違うところが、すでに映画を見たあとでもたのしめる、、、そんな「このミス」で大賞をとった作のわりには、ちょっと風変わりな味の「佳作」のよさをもった小説だった(ネタバレになるからこれ以上、中身には触れない)。
ところで、この前の週末、家でこの本を読んでいたとき、ページから目を上げ、ふと正面の壁のCD棚をぼんやりと見ていたら、その棚の脇の隅っこに何かをかたどった濃い灰色の陶器があることに気がついた。これまでこの陶器の存在をまったく忘れていて、この何年かほとんど目にもとめたことがなかったのだが、このとき、ああそういえば、こんなのがあったなと思い出した。これは何年も前に娘がこどものころ学校で作った陶作品であり、ほこりをかぶったままそこに置いておかれたままだったのである。
私はそれを手にとってみて、その重さの現実感と形に一瞬頭がクラッとなった。頭部などいかにもこどもが手で土をまるめてつくったような稚拙な出来映えではあったが、これはあきらかに首の長い「恐竜」であり、脚がヒレのようになっているから、まさにいま小説のなかに出てきたばかりの「あの」プレシオサウルス(首長竜)ではないか、、、!?
この陶製のオブジェが何の恐竜をモデルとしたものか、なんでここにあるのか、ほんとのところは、小さいころから恐竜好きだった娘にきいてみなければわからない(「ほんと」のことなど、このさいは重要ではないと思う)が、そのとき居間にひとりだった私はこの「偶然の一致」にいささか興奮して、読みおえたばかりの本をその首長竜らしき陶器のそばに置いて、iPhoneで写真に撮ったのでありました——。
SNSは人を(フィロソフィカル・)ゾンビ化してしまう怖れがある、気をつけねばと思いつつ、またしてもこうやって、ブログやFBに投稿しようとする自分がいるのでした。ウ〜ム、、、おしまい、
にしようと思ったのだが、、、やはり同じ週末に岩井俊二の『ヴァンパイア』を見たことを書いておきたくなった。これは21世紀のいまを「生きる」新しいタイプのヴァンパイア映画で、ジム・ジャームッシュの『オンリー・ラヴァーズ〜』とはまたちょっと違う、でも、これもいろいろと、とてもおもしろい映画だった。
ゾンビ対ヴァンパイア。私としては圧倒的にヴァンパイアを支持したいところだが、現実がゾンビ(映画でもゾンビもののいかに多いことか!)であふれ貧血状態になった観のあるいま、現実(リアル)が現実性(リアリティ)をどんどん喪失しているこの時代/社会、ヴァンパイアたちはどうやって血液を手に入れればよいのか。ゾンビの血など不味くて飲めたものではないだろうし、ましてやクオリアのないフィロソフィカル・ゾンビには血など流れていないにちがいない。ヴァンパイアは死に絶えるしかないのか。
黒沢清、ジム・ジャームッシュ、岩井俊二のそれぞれの最近作に、ゾンビ化する現実への抵抗、あるいは告発とでもいうべき共通する何かを感じてしまうのは私だけだろうか。
フィロソフィカル・ゾンビにならないために
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