裁かるるジャンヌ パトスとしての映画

 1400487_556481001105804_1753940901_o.jpg カール・Th・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928年公開)。原題はLa Passion de Jeanne d’Arc。
 そう、「passion パッション」である。このパッションを「情熱」ととってはいけない(その意味もなくはないのだけど)。受苦とか宗教的受難の意味合いで捉えた方がよいが、しかし、それだけではない。
 パッションの語源はギリシャ哲学の語彙でもある「pathos パトス」からきていて、パトスには語義として感情的なものを指す以外に、天啓を受けたり、何かが憑依したときに得るような「受け身の知」(ある意味で身体的な知)の意味合いが含まれる(と私は理解している)。
 この、映画のひとつの発明であるクロース・アップを多用したドライヤーの作品を見ると、神の恩寵を得たとするジャンヌをモデルとして、そんな受け身の知が既存の体制を保持しようとする社会には受け入れられず、「苦(刑罰)」として受容する(具体的には火刑)しかない一種の宿命が、「表情」(情=パトスの表象)として、その「顏」に複雑性(系)のプロセスで表出される様が感得できる、というか、題名のとおり天啓=受苦(すなわちパッション)の多義性自体がこの映画の主題であることが、だんだんわかってくる。ジャンヌ・ダルクの史実などはどうでもよい、とはいわぬまでも二の次、三の次なのだ。その意味でとても崇高、かつシンプルで気取りのない、よくできた、すばらしい作品だと思う。
 ドライヤーは昔『奇跡』という作品を見た(震えるほど感動した)きりで、これはそれ以来のドライヤーだが、私にとっては、端役だが若きアントナン・アルトーが出演していることでも見ておきたかった作品である。また今回興味深いことに、衣装を女性シュルレアリストの星座の一人、ヴァランティーヌ・ユーゴーが担当していることを知ったのもひとつの発見であった。
 1928年末に『裁かるるジャンヌ』のオリジナルネガフィルムは、あたかも火あぶりにされたジャンヌのように(?)火災で焼失し、翌年ドライヤー自身が残ったフィルムをもとに再編集したが、その第二版も焼け、もはや十全なかたちでのフィルムは存在しえないといわれていた。まるでそのこと自体がフィルムが被った受苦のようだが、幸いにも公開から60年近くも経って、完成直後に公開のためにデンマークに送られていたというオリジナル版が偶然に発見される。
 そしてその25年後に、この「奇跡のオリジナルフィルム」をもとにDVD化されたものを、私は家の液晶テレビモニターで、一人で静かに見ることができたというわけである。映画がすなわちひとつの受動的な知、パトスの体験であるということができそうだ。
 ちなみに、1928年といえばブルトンの『ナジャ』が刊行された年である。


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