橋口幸男遺稿集のこと

 下記は一度スマホからfacebookに投稿したもの。じつは、投稿のさいにうまくいかず文字データが消失してしまったので時間をかけて書き直したのだが、そのときもやっと書き終える寸前に文字がピシッという音とともに一瞬で消えてしまうというトラブルがあり、再再度書き直したものである。しかし、そのときはさすがに気持ちが苛立ち散漫になり、粗っぽい原稿のまま投稿したので、もやもやとした思いが胸のうちに残留していた。少し修正と加筆をほどこして、このブログに記し直しておくことにしたい。

4.24.jpg 昨日(3月9日)、義父の一周忌が早稲田の専念寺であった。そのさい、生前義父が書きとめていた文章をまとめ、冊子にして、参列者にお配りした。
 亡くなったあと、若いころに義父の書いた文集が実家の箪笥から出てきて、その古色蒼然とした原稿の束を娘である家人から借りて読んでみたのだが、そのとき確かに「感動」したのだけど、なんというか、その読後感とは別に、私はある種複雑な感慨と使命感のようなものにとらわれた。これは、なにかのかたちにして遺し伝えようと思った。それが私の役目だろうと自覚した。
 まずはそのうちのある文(「戦災記」というタイトルが付されていた文)をワープロでデジタルの文字にして、このブログに掲載した。
 しかし、それはこの文集の一部にすぎない。
 第二次大戦時の東京大空襲で家を焼け出され、両親を失った体験を綴ったこの「戦災記」は、ある意味で「一般」の人に伝える意味もあると考えネット上に公開したが、他は文字通りプラーペートで親密な家族との思い出が記されたもの。
 ブログで「戦災記」を公開して少し時間がたったころ、家人と相談し、ともかくこれを全てデジタルの文字にして、そしてウェブに掲載するよりは紙にプリントして、故人を知っており、第一の読者として当然の資格を持つ近親者と、数人の読みたいといっている知人に配ろうということになった。
 茶色に変色し褪せた原稿用紙に細いペンで几帳面に書かれた文を一文字ずつ読み取ってワープロに打ち込んで「活字」化し、わかる範囲で註を付してプリントしたものを綴じ、A4で70枚ほどの冊子にした。二女である妻と二人で、文字どおりの手作りである。
 ワープロに打ち込む作業と註の原稿作りを妻が行い、私がそれに多少編集の手を加えDTPのデザイン作業をして、事務所のプリンタで30部分を印刷した。本文は片面のみの印刷で通常のコピー用紙を使用したが、表紙には和紙をつかった。
 空襲による焼夷弾で、このお寺とも近い距離にあった家と両親を焼かれ、すべてを失った悲痛な体験を書いた「戦災記」も胸をうつが、家族との楽しかった思い出や、大好きでよく口ずさんだ歌のことを記した「歌の旅」など、幸せな時の思い出を記したものがとてもよくて、そのどれもが研磨される前の小さな宝石のような優しい輝きを放っている。その一行一行から義父の温厚な人柄や、家族同士の思いやりにあふれた気持ちの触れ合いが伝わってくるのだ。
 その文からは、いうまでもなく不運もあったが、家族や人々とのさりげない交感のなかに、貧しくとも仕合わせだった「よき時代」が義父にも確かにあったのだということが伝わってくる。それは、たとえば先に亡くなった私の父や母にもあったはずだということが。そんな一つの過ぎ去った時代を偲ばせるこの遺稿集を少部数なりと作り、のこされた方々に手渡すことができて、自分としても素直にうれしく思う。
 なぜ義父は、22歳という若さでこの文集を書いたのか。
 義父には過去をいたずらに嘆くつもりも、逆に美化して一人で悦にいるつもりも暇もなかったはずだ。おそらくなにもかもを失い、なにをどうしたらよいのか文字通り路頭に迷っていた戦後まもなくのとき、ひとつの覚悟を決め前を見て進むために、つまり過去に別れを告げるために、一度は後ろを振り返り、かつてあった過去をしっかりと見つめ心に焼き付けておく必要を感じたのであろう。そのために「書く」という手段を思いついたのではないか。
 妻も似たようなことを言っていたが、私もそう思う。
 逆説的なようだが、書くことで過去を想起し再構成するのは、それを忘れないようにするためであると同時に、文字にして原稿用紙という「箱」に封印することで、自分の芯となる過去は失われず確実にそこにあるという安心感を得ることができる。つまり、それによって安心して過去を忘れ、過去への固着から解放されるのだ。義父は、ほとんど無意識にそんな「書く」という行為のもつ儀式的な機能を感じとり、実践したのではないだろうか。
 法要が終わり会食の場で冊子をお配りしたのだが、この文集の存在をほとんどの人が知らなかった。その席には、この文集のなかに登場する方も、あるいは自分の親や親類が出てくる方もいらして、しばらくは、みなさん食事をとるのを忘れるほど、この冊子を食い入るように見つめ、ページを繰る手をとめようとしない。
 そのうちに、こんなことやあんなことが書かれている、じつはああだったんだこうだったんだと、何人かの人は笑いながら涙を流し、泣きながら笑い声をたてはじめた。義父が闘病中に脳出血で半身不随となり認知症もある車いすの義母も、何事か判らぬままに、あるいは何か感じるのか、いささか興奮ぎみのようす。
 閉会して三々五々に別れるさい、数も残り少なくなった義父の縁者の方々から言われた「ほんとに、ありがとう」という言葉が、深く心に沁みた。


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