以下「一言コメント」のつもりが、作品によってはつい長くなってしまい、、、本数を減らして。
5.12●『天然コケッコー』(山下敦弘監督 2007年)
以前にレンタルしたことがあるが、仕事で忙しくて見ぬまま返却したのが、やっと見ることができた。こういうのケッコー好きである。出演者がみな、いい! 子どもも、青年も、大人も。題名どおり「天然」系というか脱力系というか、でも、ただ甘えるだけじゃない、強制でもない「愛のようなもの」が芯にあって爽やか! 原作はくらもちふさこの漫画。
5.13●『顔のない眼』(ジョルジュ・フランジュ監督 1959年)
昔からずっと見たいと思っていたホラー(スリラーというべきか)映画の「隠れた名作」。再発されたBDをアマゾンで見つけて入手。
子どものころ、たしかディズニー映画を誰か大人に連れられて見にいったときに、この映画の予告編が大きな音量とともに唐突な感じで流れ、その黒白映像を見て、子どもながらに見てはいけないものを見てしまったような、決して本編は見ないようにしよう、その誘惑に負けないようにしようと心に誓った映画がじつはこれ。つまり、恐くて見たくないのに、眼を覆った指のすき間から覗き見たい気持ちをどうしてもおさえきれないような……。何年も何十年も忘れられない「予告編」があるとしたら、私にとってはこの映画が筆頭にくる。
しかも、題名が「眼のない顏」じゃなくて「顔のない眼」(原題はフランス語で Les Yeux sans visage)なのが、それはいったいどうした事態をいうのだろう? と、想像しにくいだけに想像力を刺激され、忘れられぬまま、年月が経過した。「呪縛」を解くには、じっさいに「それ」を見るしかない。で、やっと、ついに、とうとう見てしまった、というわけだ。
いうまでもなく、なんとも非情で、しかし/しかも、これは、「夢」のような恐怖と、えもいえぬ美しさをたたえた映画であった! これをしも、新たな「呪縛」というべきか。あっそうそう、音楽はモーリス・ジャールで、これがまたすごくいいのでした。
5.14●『死神の谷』(フリッツ・ラング監督 旧題『死滅の谷』1921年)
「特撮」が微笑ましく、愛らしい。サイレント作品だが(だからこそ)、映画はマジカルなものを前にしたときの驚きを目の前に「再現(リ・プレゼンテーション)」するものとして作られるということを再確認。ラングのこのメリエス的な片方の傾向が、後の『メトロポリス』(1927年)へと姿を変えつつ展開していくのだろう。
ある意味で、ここにはすでに「映画」のすべてがあるような気がする。
5.17●『青の稲妻』(賈樟柯監督 2002年)
以前に賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の『長江哀歌(エレジー)』(2006年)を日比谷で偶然に見たときの感激が忘れられない。何の先入見も情報もなしに、たまたま久しぶりに映画でも見ようかと、ある映画館の前を通りかかった時に、ちょうどこの映画が始まる上映時間だったので立ち寄って見たにすぎない(この映画がベネチア映画祭で金獅子賞をとった作品であることなどは事後的に知った)。
見終わったとき、とんでもなく優れた若い才能に出会った驚きと喜びでいっぱいだった。後日、ヴィデオ(DVD)で見直してもすばらしかった。そしてまた、この後にDVDで見た数年前の作『世界』(2004年)が、これまたすばらしい! 他に類を見ないような、設定、演出、カメラ・ワークの見事さ、映画としての/映画であることのおもしろさ。
これ以上語りだすと長くなるのでやめておくが、一言でいえばホウ・シャオシェンを見て以来の彼と並ぶアジアの才能を「発見」したような気持ちだったとでも言っておこう。この2作のさらに前の作品であるこの『青の稲妻』はなおさらそうといえるだろう。
近代化する中国社会で生きる登場人物たちの、若さゆえの「粗暴さ」というか「いらだち」が生々しい傷となり、その傷から流れる血が、画面=皮膚を通して内出血した血のように透けて見える。ラスト、雨に濡れながら走るバイクの後ろの曇り空に光る一瞬の稲光が、その一瞬の「無償性」ゆえに成瀬巳喜男の『稲妻』のシーンを想起させる。
5.19●『山椒太夫』(溝口健二監督 1954年)
子どものころに見た記憶が残っている。どっちを見たのが先か後かは忘れたが、東映動画の『安寿と厨子王』(1961年)も美しいアニメーションに魅了されながら、この姉弟の物語に没入して見たことを覚えている。この物語自体に、何か子ども心を惹きつけるものがあるのだろうか。
今回は2度目か3度目かの溝口版『山椒太夫』観賞である。物語の最後に厨子王と盲目となった母が再会するシーンがあの歌とともに忘れ難い記憶としてあったが、今回は「大人になってから」初めて見た(?)せいか、安寿の入水自殺のシーンがとくに気になり、見終わったあとまでずっと意識に残った(今も残っている)。
追っ手の目をそらすことで厨子王を無事に逃がすためと思えるあの自殺は、いったい何だったのか。どうしてあれほど美しく描かれたのか。合理的に考えると、あの自殺は、どう見ても安寿を逃すこと(一見、そのための自殺に見えるようにプロットされているのだが)には直接は貢献せず、無益である。そう思うと、あの自己犠牲は、安寿の逃亡をたすけるための咄嗟の手段というよりは、もっと、「崇高」な何かに身を捧げたものだということが、次第にわかってくる。
気になったので、後日、森鴎外の原作も読んでみたが、意外にそっけない記述だったにも係わらず主題は「(自己)犠牲=利他行為」であることはそれなりに感得できた。溝口はさらにこの主題を鮮明化して美しく見せてくれたのではないか。
だから逆に、これは無益だからこそ美しいのである。そう考えると、たしかに、犠牲(人身供養)というのは、どんな場合でも、特定の個人に捧げるものではなく、なにか大いなるもの(神とか天とか祖霊とか)に身を捧げることで、個を超えたところで運命を変えようとする行為であるという当たり前の事実にいまさらながらに思い至る。悲劇的なかたちとはいえ、安寿の自己犠牲は「少なくとも」厨子王と母との再会をかなえ、虐げられた人々を解放したのである。原因と結果の単純な連鎖ではない「因果応報」(「因果」とはそもそもそう単純・直接なものではない)……。そして、自由と宿命。仏教的ではあるが、同時にこの映画がキリスト教国(西欧諸国)から高い評価を得た理由も、この「犠牲」のかたちが受入れやすかったからかもしれない。あるいは「妹の力」的な「おなり信仰」や、(不在の)父と(盲目の)母と(母のもとへ帰還する)子の関係はギリシア悲劇を思わせる面もあり……、ともかく多様な解釈が可能な、文字通りの古典的名作中の名作である(個人的にはアリ研の課題映画にしたいほど)。
蛇足だが、厨子王と母が一種の「偶然」のように再会する佐渡の海辺の場所、浜から突き出た小島が特徴的なその風景を画面で見ながら、突然のデジャ・ヴュ感覚に襲われた。昔見た映画の同じシーンを「もう一度」見ているのだから当たり前ともいえるが、それだけでなく、あれは20年ほど前に家族で佐渡を旅行したさいに、私が海底の貝殻で足を切った「あそこ」と同じ場所でないかと、映画を見終わってすぐあとに思いあたった。たしかまだ幼い子ども(娘)が潮に流されないようにしようと、あわてて近寄ろうとして、そのとき、海底の割れた大きめの貝殻を踏みつけてしまったのだ。傷は深く、かなり血を流した。娘ではなく私のほうが溺れそうになった。私の左足裏(正確には内側側面)にまだそのときの傷跡が消えずに残っている。この浜のあった場所の地名は覚えていない。
この風景が、じっさいに佐渡でロケされたものかどうかはわからない。しかし、事実はどうあれ、私にとってもはやそれは、記憶のなかの空間と時間、夢と現実が一体化した動かし難い真実(リアリティ)なのである。
映画備忘録(5.12〜5.19)
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