渚のパレード 池田忠利展への招待

09.11.04.jpg「渚の創造者」池田忠利さんから展覧会の案内状が届いた。海岸に打ち上げられた漂着物をコラージュして、ユーモラスでちょっと不気味な作品を生み出す池田さんのひとつの集成ともなる個展である。
 というのも、今回の展覧会は15年余にもおよぶ彼の創作「SCRAP WONDERLAND」の作品集の出版を記念したものでもあるからである。くわしくは本サイトの「コンテンポラリー粋/狂」をぜひ一読いただきたい。これは作品集に掲載されている配島庸二さんの「友愛」につらぬかれた論を「一足先」にアップさせていただいたもの。池田さんの長年のファンである私も、そもそもが配島さんに池田さんを紹介してもらったことが彼の作品を知るきっかけだったわけだが、お二人を知る私にとって、友愛といっても、のっぴきならぬ一種の緊張感漂うこの一文は感涙ものである(そうか、アール・ブリュットやゾンネンシュターンが、こんなふうにつながってくるのか!)。
 池田さんから郵便で送ってもらったこの作品集を眺めていると、なんとも楽しい気分になり、いろいろな言葉が浮かんでは消える。というか、分断された言葉の断片が意識の層に浮かび上がっては、無意識に沈んでいく。それは、たまたま最近読んだ本にあった言葉、たとえばラカンの「他者の語らい」とか「無意識は言語として構造化されている」といった、やはり「言葉」に対する言葉だったりする。そして未開とかブリコラージュ、シニフィアンとかアフォーダンス、「不気味なもの」(フロイト)とかモンスター、夢とか転生とか顏とか渚とか……。
 海と陸地の境目である渚は、意識と無意識の境界でもあるという比喩が成り立つからだろうか。「渚の創造者」という呼びかた自体、ずいぶん前の配島さんによるものだが、いまになってその詩的で多義的、かつ入れ子的な見立ての「意味」がわかってきたような気がするような気がするような気がする(アレ?)。
 そしていま、新たな作品とともに、自然と都市、未開と文明、過去と未来の渚に、それ自体が渚の贈り物としてこの作品集が打ち上げられた次第なのだ。
 配島さんは、「媚」「秋波」という言葉を巧みに使い、またブルトンの『ナジャ』にも言及されているが、それに連関して、私はやはりブルトンの「理解するよりも先に愛すること」という言葉が、久々に大脳の岸辺に漂ってきたことを付け加えておきたい。池田さんの作品群は、まさにモノと人との愛の営みであると言いたくなったからかもしれない。愛の狂気か、「狂気の愛」か!
「狂気の愛」とは、これまたブルトンの著書の題名だが、原語でL’amour fou であり、fou (フ)は英語でいえばフール、狂気であると同時に「おバカさん」とか「道化」の意味を持っている。すなわちこれは「道化の愛」とも読める。考えてみれば、道化とは境界=渚に存在する者ではなかったか! そこでは、道化こそが王である。
 さてさて、これら道化たちのパレードに、私たちもくり出してみようではないか。
 池田忠利「作品集出版記念」展は、11月9日〜14日まで、東京・銀座のギャルリー志門で開かれます。


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