神的なるものと自然的なるものの凝視(荒木)

アリ研フォーラムのために、試験的に、最近のアリストテレス研究会のメーリングリストにポストされた一文を掲載します。まず、アリ研の全体的テーマを期せずして示していると思われる荒木座長からのメールより[石井]

 石井さんの薦めによって、桑子敏雄氏の『理想と決断』(講談社学術文庫)を読みました。そこには、単に大学の講壇から哲学を知識として伝授するのでなく、哲学を現実の生活に生かそうとする氏の姿が明確に語られていました。現代の近代的土木・治水事業への批判等、おおいに共感するところがありました。主客対立の構造のなかで、自然を近代的生産力・技術力によってねじ伏せる環境政策を根本的に転換させる必要もおおいに共鳴するところでした。そのうえで、2・3の感想を述べます。


1)氏の立脚点の1つが氏自身のアリストテレス理解にあり、そのプラトン批判は私も共有するところです。その点からいえば、先に紹介した、三嶋氏のギリシャ哲学理解とは正反対の向をしめしています。プラトンでなくアリストテレス、という立場でしょう。イディアでなく現実存在、人間中心の哲学でなく、自然と人間の、配置と履歴を重視した哲学の推奨。
2)宇宙と人間の関係(178ページ)、行為を空間的なものと捉える視点(208ページ)、という点ではプラトンもアリストテレスも大いなる欠落があった。
3)むしろ朱子学、易の思想にこの2の視点が存在していた。
 
A)以上の氏の基本的理解に対して、私は、アリストテレス哲学にイディア論的思考が欠落していたとおもっていません。人間の生命の不死性もプラトンとともに共有していたのだろう、とおもいます。アリストテレスの『デ・アニマ』を『こころ』と訳された桑子氏は、霊魂という実体的言葉は避けたかったのでしょう。しかしアリストテレス哲学のなかには、神的なるものの実体性は前提されていた、と私は考えます。
 神的なるものと自然的なるものの凝視、これは一貫したアリストテレスのテーマであった、とおもっています。
B)人間の行為を、自然と歴史のなかで考察しようとしたことこそ、むしろアリストテレスの新骨頂ではなかったか、とおもいます。アリストテレスと歴史・文化人類学というテーマを考えてみたい。
C)東洋と西洋の文化・哲学の対立的把握はやはり慎重にすべきだとおもいます。
D)やはり、三嶋氏の作品にも感じたことですが、国家、正義、民主主義という問題への切り込みが欠落しているようにおもいます。ないものねだりは避けるべきでしょうが、アリストテレスから学ぶ場合、この論点を抜かしたら、根幹的部分で理解をゆがめてしまうのではないか、とおもわれます。いま必要なことは、このテーマを、一方において、イディア的、形相的に理解すると同時に、歴史的、空間的にも、理解し、それを統合すること。そうでないと、今日、私たちに課せられた、歴史的課題としての憲法問題を深く理解することができないのでは
ないでしょうか。
いずれにしても、今日の思想状況のなかで、近代主義的手法への懐疑が、大学の教壇から現実の政治・行政、また私生活にまで及んできたことをこの書を通じて再確認しました。またその際、ギリシャ哲学理解、というよりもアリストテレス理解が1つの焦点となっていることも再確認しました。[荒木]


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