炭書による文明の浄化と再生への祈り、または塩の劇場

 先日お知らせした配島庸二さんの個展を見てきました。下記は報告を兼ねたそのレヴューです。
(本稿は『日本女性新聞』のために書き起こしたものであり、6月1日発行の本紙に掲載される予定です。会期中であるいまのうちに、ご案内かたがたここに紹介させていただくことを日本女性新聞社に感謝いたします。また、配島の配の字は草冠がつくのが正しい表記であることを念のため書き添えておきます。ウェブ上のフォントの問題ゆえ、ご了承ください)。
 本展は5月28日(水)まで、六本木ストライプハウスギャラリーで開催中です。未見の方は、くれぐれもお見逃しなきよう。
配島庸二個展『グーテンベルクの塩竈焼き —8月の雪』レポート 
【炭書による文明の浄化と再生への祈り】  
080521.jpg 現代美術家・配島庸二の個展が東京・六本木で開かれた。社会のグローバル化や「大きな」価値基準の消失にともない、中心も周縁もなくなった観のある現代アート界。しかし、つねにその先端に身を起こし、一見、無謀とも思える活動を企てつづける配島氏は、本紙にも何度か寄稿したことのある文筆家であり、エディターでもある。本展は、言葉(概念)と造形の「あわい」で多面的な創作活動を行い、アートという行為をとおしてユニークな文明論を展開している配島庸二の集大成的作品展であるといってよいだろう。(会期:5月9日〜28日 場所:東京・六本木ストライプハウスギャラリー)
 茶室ほどの小さな空間に、数多くの黒い”物体”が置かれていて、そのいくつかは表面をうっすらと雪のような白いものが覆っている。個展タイトルによって、黒いモノは焼かれて炭になった書物であり、白いのは雪に見立てた塩であることがただちに推測できる。だがそれよりもまず、この室内に足を踏み入れたとたん、異次元の本屋に迷い込んでしまったような不思議な気分にとらえられてしまう。


0805212.jpg 見ていない人のために出品作品の題名をあげておこう。
 1.グーテンベルクの塩竈焼き[A]-[L]書棚の上に 2. グーテンベルク氏の晩餐[M]-[Z] 3. グーテンベルクの塩竈焼きを盛る蜜蝋の皿のための紙型[a]-[z] 4. グーテンベルクの聖婚碑(右の写真) 5.供物A,B/グーテンベルクへ 6.供物C/グーテンベルクへ 7. グーテンベルクの肖像
 すべてにグーテンベルクという名称が付されているこれらの立体・半立体作品は、ひとつのコンセプトを中心に相互に関連しあった、単体であると同時に集合体であるかのような観(あるいは「系」。『グーテンベルクの銀河系』!)を呈している。中心とはつまり、中世ヨーロッパに生きた”あの”グーテンベルク、彼の活版印刷術がその広範な普及を可能にした本という形態・システムの、ある種の廃虚化(廃棄物化)ともいえる「炭書」というコンセプトである。
 このレポートでは個々の作品について詳しく論じる余裕がないので、1.と2.の「塩竈焼き」による炭書作品について見てみよう。

 炭になったこれらの本は、かろうじて本の形態を保ちながらも、私たちにはそれを開くことができない。かりに開けたとしても、黒化(ニグレト、「黒の過程」?)した紙のうえに文字を判読することはほとんど不可能に近いだろう。二重の意味で廃棄され(炭書のなかには、縄で縛られているものもある。ダブルバインド、いやトリプル・バインド!?)、従来の機能を奪われたこれらの書物たちは、しかし、目にみえない別の機能を具えているようにも思える。
 はたして、炭書の作者である配島庸二自身、炭書の制作意図(目的)を「高度に発達するITメディアに文明の主役の座を譲り渡そうとしているいま、いわばグーテンベルク文明の終末にむけて、その本を炭に焼くことで『炭書』とし、本の果たした功績にオマージュを捧げると同時に、それが築き上げてきた環境の過剰に、ささやかな浄化を果たそうというものです」と解説する。環境の過剰という言葉がわかりにくいが、要するに炭書は、本を炭にすることで、空気(自然)と情報文明(人為)の余分を実際的かつ隠喩的にきれいにする機能をもった浄化装置として再生させるのがねらいなのである。
 方法に関しても、なるほどと頷ける説明。「木炭も紙もその原料は木。とはいえ紙は薄く、そのまま炭に焼いてもなかなかソリッドな形を得るのが困難で、試行錯誤のうえ、フラジャイルであることは変わらぬとしても、塩に浸して焼けばそのままに近い形が保てることを信州に伝わる姥捨民話から教わり、さらに、魚類を塩に包んで焼く『塩竈焼き』という日本の伝統料理をヒントにした」という。焼くときは、環境に害のないように、高度な消却技術を持つ工房(青森県の炭工房『勘』)の特殊窯で炭にしてもらったという念の入りようだ。
 そうしてできあがった炭書だが、本展に展示されるまでのプロセスには、もうひとつの思わぬドラマが待ち受けていた。塩漬けした本を焼くという一種文明的「調理」をほどこして仕上がった炭書は、いったん完成をみたが、昨年の夏のある日、配島氏にとってまったく意想外の”神秘”を炭書が演じはじめたのである。
 塩に溶け込んでいた水分が、気温と湿度の変化によって分離し、塩が炭書の表面に結晶化したのだ。それがこの季節はずれの「雪」の正体であるが、廃虚化していわば「死に体」となった本が、自然の循環のなかでモノとして”もうひとつの”メディアへと息をふきかえし、そこに自然が自らの不死の情報をオートマティックに書き始めたのである! 配島氏は、意図せぬまま、いや意図しなかったからこそ、自然へのアクセスに成功したメディウム(媒介者−霊媒)として野(自然)を開き、自然からの思わぬ贈り物を手にすることになったのだ。まるで「花咲爺さん」のごとく(むろん、「よい方」の爺さん!)。
 私たちが目にしているのは、人と自然のその不思議な協働の記録にほかならないが、総じて、この配島庸二の個展は、環境の浄化、廃棄物処理、情報の過剰、破壊と再生、伝統と継承、作者と読者といったきわめて文明論的な主題に、アートという極「私的」な無償の行為を通じて応えようとした、ささやかでしかも大胆なひとつの試みだったといえるのではないだろうか。現代におけるお伽話の新生を言祝ぎたい。


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