引用の星座 2 『寺田寅彦随筆集 第一巻』

 街路に向かった窓の内側にさびしい路地のようになって哲学や宗教や心理に関する書棚が並んでいる。
 不思議な事に自分は毎年寒い時候が来ると、哲学や心理がかった書物が読みたくなる。いったい自分の病弱な肉体には気候の変化が著しく影響する。それで冬が来るとからだは全くいじけてしまって活動の力が減退する代わりに頭のほうはかえってさえてさえ来て、心がとかく内側へ向きたがる、そのせいかもしれない。こんな気分の時にはここの書棚を物色する事がしばしばある。


読んでみたい本はいくらでもあるが、時間と金との欠乏を考えるために、めったに買って読む事はない。ただいろいろの学者の名前と本の名前をひとわたり見るだけで満足する場合が多い。だれかが「過去の産出物の内で、目に見られ、手にふれる事のできる三つのもの」の一つとして書物を数えているが、この言葉をここでしばしば思い出す。そして書物に含まれているものは過去ばかりではなくて、多くの未来の種が満載されている事を考えると、これらのたくさんの書物のまだ見ぬ内容が雲のようにまた波のように想像の地平線の上に沸き上がって来る。その雲や波の形や色が何であってもそれはかまわない。ただそれだけで何かなしに自分の目は遠い所高い所にひきつけられる。考えてみると自分も結局は一種の偶像崇拝者かもしれない。しかしこんな偶像さえ持たなかったら自分はどんなにさびしい事だろう。

寺田寅彦『寺田寅彦随筆集[第1巻]』(岩波文庫)「丸善と三越」(初出は大正9年6月『中央公論』)より。


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