神的なるものと自然的なるものの凝視 2 (石井)

[アリ研フォーラム]試験2 アリ研メールより
荒木先生
『理想と決断』の感想をありがとうございます。
先生の感想文は、結果としてアリ研の全体的テーマの方向性を短く明確に示していただいているようにも思います。


ぼくがこの本を読んだのはアリ研「前」でしたので、もういちど、アリ研に出会った後の眼で読み直してみたい気持ちになりました。
というのも、ぼくにはまだまだ届かぬアリストテレスに対する理解は別にして、先生のおっしゃるところにまったく共感します。だからこそ、アリ研のみなさんにも推奨したのですが、アリストテレスの「すごさ」を感じはじめたのは、荒木先生に出会った以後のことですのでもう一度読むことで、別の視点からの読み方ができるような気がしています。
とくに「神的なるものと自然的なるものの凝視、これは一貫したアリストテレスのテーマであった、とおもっています。」という点。この点こそ、「大アリ」の超スゴサ がありそうだ、という予感があるからです。
でも、まずは『心とは何か』(きのう、やっと本屋でみつけました)を次に読んでみようかな。
(先日、若いメンバーのひとりの市川さんに会いましたら、ぼくはまだ読んでいない 桑子さんの『環境の哲学』を読みはじめていますと言ってました。「発言」はなくとも、メールはちゃんと読んでくれているようで、照れつつもちょっとうれしかったりして)
さて、きょうは時間ができたので、迂回派、「挑発」役として、アリ研メンバーにむけたおしゃべりを少し。
いつものように、政治、経済とは別の方向からのアプローチです。
1) 伊藤さんの「日記」から触発された、篠田節子『ゴサインタン–神の座』を読みました(ぼくもブックオフでみつけました)。小説ではありますが、まさに現代社会における「神的なるものと自然的なるものの凝視」、その齟齬・葛藤と希望、破壊と再生がひとつの「聖なる」(つまり制度としてではなく、、余計なもの、配島さんのおっしゃる「過剰」を捨て去った人間の)男女の「結婚」という軸で語られており、 いろいろ考えさせられながら一気に読みとおしました。
この本の前に読んだイサベル・アジャンデの冒険小説『神と野獣の都』(扶桑社文庫)も、とってもよかったです。
この2作は、もちろんなんの関係もない異なった物語なのですが、いくつか共通性を感じざるをえないところがあります。ひとつは、(文化)人類学的部分なのかもしれません。つまりそれは、単純化すれば、「文明」が神的、自然的なもの「野蛮(未開、ソバージュ)」と触れ合うところに、絶望と希望を見い出し、そこに真にサステイナブルな(変わらぬものの価値)、「西と東」というような図式的文化対立を超えて「人間と自然の知恵」を生き方として探ろうとする姿勢にあるような気もします。 ともに「家族」の病と死、女性の自然的=神的(精霊的、柳田の「妹」的)再生力が重要な伏線になっています。『神と野獣の都』の少女の名がナディアとなっていて、 A.ブルトンの『ナジャ』(Nadja、ロシア語で「希望」の最初の部分)を想起させます。
2) 以前、「世界文明フォーラム」の関連でJ.コンラッドの『密偵』の話題がでましたが、先日、フリップ・グラスという現代音楽家のCDのライナーノート(日本語解説)を見ていたら、「シークレット・エージェント」という彼が曲を提供した映画音楽があり、もしかしてと思ったら、やはり原作はコンラッドとあったので、この『密偵』のことだと思います。さらにこの映画はある作品をリメイクしたものとあり、もとになったのはヒッチコックの初期の映画作品であることがわかりました。ぼくは未見ですが、ヒッチコックは好きなので、探してみようと思っています。
3) レンタル・ビデオでS.ポラック監督の新作『ザ・インタープリター』を見ました。国連本部が舞台のサスペンスもので、同時通訳(!)のある女性(ニコール・キッドマン)とSP(ショーン・ペン)が主役。映画としてはじめて本格的に国連内部に入り込んだ作品ということで、国連で演説するアフリカの要人(独裁者)暗殺計画を軸に物語は進行するのですが、最後ギリギリのところで「報復」を思いとどまる。見ているほうはいっそ殺してしまえとも思うのですが(そのほうがカタルシスがある)、主人公の女性の心の葛藤(と見ている側の葛藤)が、現在のアメリカの「良識派」の心情とかさなり、結果としてカタルシスよりは耐える事=「寛容」を選びます。ブッシュ的「正義」への批判を読み取ることもできる、なかなかよい映画でした。ぼくとしては、場所やテーマ、翻訳(異文化のインタープリター)などの面で、ついつい世界文明フォーラムを想起してしまいました。いま思い出しましたが、シドニー・ポラックといえば、たしか、かつて『大統領の陰謀』を撮った監督でしたね。現実からみればまだまだ「甘い」ともとれるのでしょうが、このような作品をエンタテインメントとしてさらっと作れるところは、やはりハリウッド(アメリカ文化)の底力を感じます。『ミスティック・リバー』などの名優ショーン・ペンは、わずかですが演技(メッセージ) 過剰で他の作品と比べるとイマイチだったけど、トム・クルーズの前妻ニコール・キッドマンはなかなか良かったです。役柄としてはクールな美人すぎるきらいはあったけど。
4) 西郷信綱(在野の日本の古典研究家)の『古代人と夢』(平凡社ライブラリー)は、隠れた名著と呼びたくなるいい本でした。「夢」に昔から関心をもっているからでしょうが、引用したくなる箇所がたくさんありました。夢という言葉は、いつのころからか願望とか理想というような意味ばかりでつかわれるようになり、本来その「元」だったはずの、眠るときに見る夢がなぜか顧みられなくなっているような気がしていました。直感的に「神的なるものと自然的なるもの」の喪失と関係しているような気もします。現代では、願い=夢さえ持ちづらい時代ですが。似たようなことをいっているところがありましたので、そこだけ引用します。
「…昔の表現では決して夢を「持つ」とはいわなかった。人が夢を「持つ」ようにな ったのは、もはや霊夢を見ることがなくなったからで、夢はどこまでも「見る」もの であった」
この文の少し前に「夢を魂のはたらきだと規定したのはアリストテレスが最初だが、 …」という記述もありました。この魂とは「アニマ」、霊魂、桑子氏が「心」と訳しているものですね。結局このアニマという言葉を、どう理解するか。アリ研においても、たいへんに重要なキーになるテーマだと思います。
そして、大急ぎでつけくわえると、アラキトテレスのいうD)の指摘。たとえば、魂と正義をどのような統合的地平のもとに見ていくか。ここにわれわれアリ研の目的、主意が明確に述べられていると思います。人によって「入り方」が違うだけで、多様なアプローチから入って、ひとつの「テーブル」につくこと。(メールは独り言と対話の中間です。だから?)
5) きのう朝日の夕刊に陸田さんの死刑が確定したとの、記事がでていました。「死刑囚と哲学者の対話…」というような見出しだったかな。以前から池田晶子のファンでしたので、目にとまり、「(死刑囚が)善く生きること」の意思と意味を、しばし考えてしまいました。『死と生きる』というふたりの往復書簡をまとめた本のことを思い出し…。彼女はどちらかというとアリストテレスよりプラトン(ソクラテス)なんだろうと素人見には思えますが、いずれにしろ、やはり、アリ研後のいまだったら、どう読むだろう。読み直したいと思いますが、ウ〜、きりがない。
ご存知ない方にもっと説明したいところですが、話題が拡散するばかりで、ここまで書いたところで、息切れです。


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