再び「ヌース」について

前回、アリストテレスと現代研究会主催の「戦略的思考を超えて」という荒木教授の講議のことに触れました。
その講議のなかで、「ヌース」という単語が何回となく出てきました。アリストテレスの「知慮論」に関わる重要概念のひとつなので、当然といえば当然のことなのですが、アラキトテレスこと荒木先生の口からヌースという単語が出てくるたびに、なにやらとんでもない言葉を、私たちのHPのタイトル(ドメイン名)に使ってしまったものだな〜っと、大いに誇りたい気持ちと畏れ多く恥じ入りたいような気持ちが相まったかたちで、胸のうちで交錯しました。


とくにウ〜ンとうなってしまったのは、ヌースがロゴスと対比して語られたときと、ヌースという広義に知性の範疇にある言葉が、知性のなかでも、ある種、能動性をそなえたはたらきを持つものであると聴いたときです。つまり、ロゴスは通例、推論的理性としてパトスと対比され、パトスとはパッションが「受苦」とも訳されることがあるように、受け身かつ「情」や感性面での知を示しています。単純化してしまうと、「直知」とも訳されることのあるヌースとは、ロゴスやパトスの根っこ、あるいはメタレベルにあって、それらを統合するような、どうも生命の根幹にある直接的行為的知性のようなのです。
しかも、荒木教授によると、古代ギリシアにおいてアリストテレスは、「日常語」としてそれらの言葉をとらえ、講議していたそうなのです。だから、ヌースは、五感を統合する共通感覚という意味では、日本の日常語「第六感」に近いといってもよいのかな、とも思いました。
私はかねがね、「わかる」「感じる」とはどういうことかという認識論・知覚論に興味を抱いていました。また「哲学(考えること)は驚くことからはじまる」という『形而上学』の冒頭にでてくる、大アリストテレスの有名な言葉についても、ずっと考えてきたような気がします。
この場合の「驚き」は「不思議」と同様な意味を持っていると私は思っていて、わからないからこそ驚きであり不思議なのですが、じつはこの驚き=不思議には、反対にわかること(わかってしまうこと)の驚き=不思議という面がふくまれているのではないでしょうか。
ややこしい言い方ではありますが、ヌースという、自分なりに文字どおり直感的にとらえた言葉(概念)からみると、なんとなく腑に落ちる気がします。「わからない」と「わかる」が、同一平面上で、言葉を超えて感得される…。
かつてアインシュタインが言ったとされている「宇宙は謎と神秘に満ちています。しかし、私にとって最も神秘的なことは、宇宙のことをわかる、わかってしまうということにあります」(うろ覚えです)という言葉を思い出してもいました。わからないものの不思議とわかってしまうことの不思議!
おそらくヌースとは、その両犠牲の「あいだ」に生起する、表現するには最もむずかしい、しかしだれもが「知っている」身近にある知の形態=機能のことなのでしょう。
と、取りあえず、学問のアマチュアとして/ながらに。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: