荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 6-2

 従って、霊魂が実有<ウーシアー>という意味での原因であることは明らかなことである。事実、実有とは、すべてのものにとって、存在していること<ト・エイナイ>(注6)の原因であり(注7)、生命<ゼーン>とは、生命体にとって、存在していること<ト・エイナイ>の原因であり、生命<ゼーン>とは、生命体にとって、存在していること<ト・エイナイ>であり、霊魂は、このもの(存在していること)の原因であり、根元である。さらに、完成志向態<エンテレケイアー>は、可能態において存在しているものの言(ロゴス・根拠)である。
 
 これも、初めて読む人は何をいっているかさっぱりわからない。それがそれであることの原因の連鎖。生物にとって、その生物であるとは生きていることであり、魂こそが生きていることの原因、あるいは起源だからである……。
 アリストテレスがどういうことを言いたいのか。注の6を見てください。
 
 このエイナイを、「存在」「存在する」と訳すか、「存在している」と現在進行形的に訳すかは、大きな問題であり、ギリシャ語の現在時制の意味の多様性に関わる問題を含んでいる。サンスクリット語を含め、インドヨーロッパ語の、現在時制の多様な意味の検討がナーガールジュナ『中論』(観去来品の存在論(帰謬説による存在否定))の解明に不可欠であるように思われる。ギリシャ語の「エイナイ」は、存在していたものであり、それゆえに今も存在しており、将来も存在するであろう、ところのものである。その意味で、『旧約聖書』「出エジプト記」第3章の神の名前と共通するものを含んでいる。
 
 「ト・エイナイ」のト、これはギリシャ語の不定詞です。なので存在とか存在すると訳しているけれど、文法学的にいうと、この不定詞という動詞形態をどういう意味で理解するか大変難しい問題です。わたしは「存在している」と現在進行形に訳している。なぜ現在進行形で訳したかというと、ギリシャ語の現在時制というのは、わたしたちが考えている、ただ現在それがあるというだけではない。サンスクリットがギリシャ語の元になった言葉ですが、サンスクリットの現在時制は非常に多くの意味を持っている。現在進行形であるだけでなく、「〜である」という命題を表現するときもあるし、現在生きている、存在しているということは、なぜわたしたちが生きているのかといえば、生き続けているから生きているわけです。過去進行形から現在進行形までつながっている意味をこの現在進行形は含んでいる。

 そして人間の場合は、ある種の意欲を持って語られている場合は、「わたしたちは生きている!」というときには、瞬間で止まるのではなく、これからも生き続けるということを言外に表現しているわけで、近未来的な表現でもあるわけです。現在形というのは非常に複雑なテンス(時制)を含んでいる。

 そうすると生きているという言い方は、かつて生きてきたし、今もいきているし、将来も生き続けるということを言外にふくめて「生きている」と言っているはず。そのことを最も端的に明示的に語っているのが旧約聖書の「出エジプト記」なんですよね。その中でモーゼが神の名前を聞いたときに、I am who I am.と言ったのだけれど、私も一時期ヘブライ語に集中したことがあって、旧約聖書を読んだときヘブライ語では「イェッヘイエ アッシェル イェッヘイエ」と動詞と関係代名詞が含まれた表現だけど、ヘブライ語の動詞も現在も過去も未来も一緒に用いられる言語なんですね。ある意味テンスがない。なので「かつてあり、いまもあり、これからもあるだろう」と訳していい。
 
 そういう意味で、この「ある」という、存在しているということは、非常に深い時間感覚を持った言葉であるということを述べておきたい。
 そう考えていくと、ウーシアーというのは存在していることの原因になる言葉だ。生命というのは、生命体にとって存在し続けているということの原因になるのだと。そして生命とは、生命体に取って存在し続けることであり、霊魂はこのもの、存在しているものの原因である、根元である、といっていいだろう。だからプシュケー(魂)そのものがあることによって、プシュケーの存在そのものが維持されているといっていい。

 となると、完成志向態<エンテレケイアー>、これは働き、働いている、自分自身を花開こうとしているものだから一瞬たりとも静止していない。過去から引き続いて現在もいて、将来も自分の存在を続けていきたいと志向しているものは、生命、生命体つまり可能態、身体を持って存在してるものの根拠になる。それがロゴスだと。そうアリストテレスは言っている。
 ここでのロゴスの使い方は、生命そのものの働きに近いものとして使われていることに注意してもらいたい。

 では続けましょう。さらに抽象的な話が続きますが。
 
 また霊魂が「そのために」という意味での原因であることも明らかなことである。事実、直知<ヌース>は、「何かのために」ものを創出するのであり、「自然本性的なもの」<フュシス>は、同じような仕方でそうするのである。そしてその「何かのために」という意味での目的が、その自然本性的なものの目的である。
 
 これは、霊魂というのが身体の目的なんだということを以下話していくんだけれど、わたしたちがものを見るときには、必ずそのものの存在の目的があるのだと。これを「目的因」というわけですけど、その目的因に当たるものが、身体と霊魂の関係で言えば、身体の目的は霊魂なんだという。
 だから、なんのためという目的が、その自然本性的なものの目的なんです。つまり霊魂が居するためにこそ身体があるのだと。そういう目的の関係。
 
 しかし、生命体においては、霊魂こそ、その自然本性に即したそのようなものである。実際、全ての自然本性的な体は、霊魂の器官であり、……。
 
 ここは非常に大事なところ。身体は霊魂の器官だというのは、身体の連続性とよくいうのだけど、全体と部分でつながっているともいえる。でも実は身体そのものが霊魂の器官なんだと。
 
 それは、動物の体においても然りであり、植物においても然りである。しかもそれは霊魂のために存在するものとして、そうなのである。ただし「そのための」という意味は二重である。一つは、目的の意味であり、もう一つは、「それにとって」という、当事者という意味である。
 
 つまり身体とは霊魂のために存在している。このところはちょっとよくわからない部分もあるれど、これはまた後で説明します。

 ということで、身体と霊魂の関係とは、アリストテレスの霊魂論の中心的な課題になっていくわけで、ただ面白いのは、アリストテレスの霊魂論は身体そのもの、特に感覚論の世界に入っていくことです。感覚というのは身体と相即不離にあるわけで、感覚自体が実際に霊魂の働きとどういうふうに複雑に結びついていくかを、これから事細かく説明しようとしている。その意味で、いわゆる「六魂」っていいますよね。五魂とか六魂とか。視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚等々、人間の感覚そのものが霊魂の働きに密接に結びついている。そういう叙述がずっと続きます。
 
 しかしまた霊魂は、場所的な運動が最初に「そこから」始まる起点である。ただしすべての生命体にこの運動能力が備わっているわけではない。また性質変化や成長は霊魂に基づくものである。なぜなら感覚はある種の性質変化であるように思われるが、霊魂の関与しないものはどれ一つとして感覚することはないからであり、成長と衰退も同じような事情にあり、また生命を共有しないものは、どれ一つとして栄養摂取することはないからである。
 
 身体が生まれる出発点が霊魂。また、人間の性質が変わっていくとか、大きくなっていくのも、身体の自動的な働きに見えて、実は霊魂の働きなのだと言っている。つまり、何らかの働きで人間の身体は霊魂の働きと相即不離に結びついているということをここでは述べています。

 もうちょっと行きましょう。
 
 しかしながら、エンペドクレスは、以下の点を付け加えることで、事柄を正しく述べてはいない。すなわち植物において成長が生じるのは、一方では土がその自然本性に従って下方に運ばれていくことによって、根が下方に張るからであり、他方では火が上方に伸びていくことによって、(幹が)上方に伸びていくと言うのである。しかしながら、彼は「上方へ伸びる」ことも、「下方に張る」ことも、正しく理解していない。というのは、「上方」「下方」とは、万物において、それぞれのものにとって、同じものではないからである。すなわち、もし器官の異同をその働きに基づいて論じなければならないとするならば、動物における頭に相当するものは、植物における根であろう。
 
 エンペドクレスはギリシャの賢人の一人で、彼自身は重要な哲学的知見を持っている人ですが、植物が成長するのは、土が下の方に動いていくので植物の根が下の方に引っ張らっれていくのだという。
 また、「火が上方に伸びていく」。これは説明がいるんだけど、エンペドクレスという人は、宇宙が動いているいろんな元素を分析しているのだけど、「火」というのが大きな運動の原点だと考えている。「熱する」起点になるようなもの。
 だから動物の中にも「火」の要素があって、動物の中で火が燃えている。火は上の方に登っていく性格があるので、植物も生きている、つまりその中に火がある、火は上に登っていくので、植物も上の方に伸びていく性格がある。
 
 これに加えて、火と土とは互いに反対方向へと運ばれていくものであるが、それらを結びつけるものは何であろうか。というのは、結びつけることを妨げる何かがなければ、それらは切り裂かれることになるであろうから。もし切り裂かれることを妨げるものがあるとすれば、それこそ霊魂がそれであり、また霊魂こそが成長と栄養摂取の原因であろう。
 
 エンペドクレスは万物の中に火という要素と土の要素があり、土的な要素は下の方に伸びていき、火的な要素は上の方に伸びていく、これによってものが生長していくと説明している。だけど、そういうのなら、どこまで伸びていいかわからないだろう。生命とは下の方に伸びる、上の方に伸びるということを一定程度のところで限る力が必要だろうと。それをエンペドクレスは説明していないという話。
 
 しかしある人々にとっては、火の自然本性が、栄養摂取と成長の端的な原因であるように思われる。なぜならば、諸々の物体や基本要素の中で、ただ火だけが栄養摂取を行い、成長増大するものであると思われているからである。
 
 古代ギリシャ人にとって、万物は四つの基本要素からなるとされている。水、土、火、空気。たとえばタレスは万物の起源は水だと。水があることですべてのものが存在して大きくなっていくとタレスは考えた。またある人は土、別のある人は火だと主張する。
 これはギリシャ的な四因説ですね。アジアでは木、火、土、金、水という五行説。これがアジア的な意味での5つの基本要素だとすると、ギリシャは4つの要素によって万物が成り立っていると考える。
 そのなかでヘラクレイトスは火が熱を発し、ものを成長させていく原因だと考えた。
 
 それゆえ植物においても動物においても、人は、働いているのは火であると理解しているのであろう。しかしながら、それは、ある意味において副次的な原因であり、端的な意味での原因ではないのである。むしろ霊魂こそがこのような原因なのである。なぜなら火の成長増大は、燃えるものがある限り無限に続くが、自然本性的に組成されたものにはすべて、大きさと成長との、限界<ぺラス>と言<ロゴス(比例的根拠)>が存在するからである。そしてこのような限界と言(比例的根拠)は、火にではなく、霊魂に属するのであり、また素材に属するのではなく、むしろ言<ロゴス(比例的根拠)>に属するのである。
 
 こういう重要なことを言っている。
 
(注10)ここに生命そのものに内在する、生命の成長を比例的に限界づける根拠としての言<ロゴス>が言及されていることは重大である。ギリシャ語のロゴスの多義性の根拠がここに与えられている、といってもいいであろう。後に展開される、感性の比例的構造や、人間知性の合理性・論理性もまたロゴスと言われ、また神的直知もまたロゴスといわれている。アリストテレスは、ある意味で生命のもつ躍動力も、また衰退性も、ロゴスとしてとらえる感覚知を持っていたのだろうか。
 
 これによると、アリストテレスの概念では、近代的なわたしたちの使う理性とか合理性をはるかに超えて生命力そのものの均衡性とか躍動性の根元にロゴスという名前を付している。そのことを今日は明確に言及しておかなくてはならない。

 そういうことで、今日の講義はここまでにしましょうか。この後、みなさんと議論もしたいので。

 今日申し上げたかったことは、これから本格的に『霊魂論』に入っていきますが、霊魂の働きを考えていくと、いちばん大事なのは、人間の身体そのものが生きているということの根元が霊魂、すなわちプシュケーであるということ。そしてそれが栄養を摂取して成長し、完成し、そして衰退していくのだけれど、そのことによって霊魂は永遠なるものを志向している。それは神的なものだというのが第一。
 そして、もう一つには、そういう霊魂の働きそのものの根拠がロゴスである。ロゴスこそ人間の成長・発展・展開・消滅の律動そのものであるといっていい。律動力そのものがロゴスであるということが重要なポイントです。

《2022年4月9日》


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