アリストテレスの通常のかたちでの翻訳というのはおそらく不可能に近い。これまでわたしたちが読んできたアリストテレスの日本語訳というのは、もっとも肝心のところでミスをしているのではないかと思えるほど、恐るべき誤解・誤読の山なのです。今日も出てくるけど、たとえばロゴスという言葉を理性と訳したり、理と訳したりすることが、いちばんの大きな害毒を流してきたのではないか。今日の話にも関わるけど、ここに西洋近代との大きな断絶がある。
[ Ak ] 僕らはどうしても漢字で哲学を理解しますよね。そうすると中国の仏教、あるいは中国思想の考え方のある種の癖の影響をどうしても受けてしまう。
朱子の理気論ってあるじゃない。あれは中国人が長い歴史をかけてこの宇宙を見た時に「理」と「気」で整理してみようという考え方。理というのは、言葉としても鋭い音だから音感とも関わるけど、物事を分けていくということなんだよね。朱子学専門の木下鉄矢さんから聞いたけど、理気論の理、理性の理は中国のもっとも硬い宝石、玉を細工していく時に玉の中に含まれている筋、この筋に沿って玉を分けるということなんです。もっとも硬いものに筋道をつけて分けていくことが理。
ところが気とは何かというと、ある種の、ものを動かすエネルギー。最近の中国の大家によると、ガス状のものだとか物質的なものもあるけれど、物質的なものを突き動かしていく、ある種、得体の知れないエネルギー。その両方があってものを分け、成り立たせている。
だから万物を考えてみると、硬いものに筋道をつけて分けるという理、分けたものを動かして、時には結合していく気、その両方の原理が宇宙を動かしていくというのが理気二元論の理屈なんですよね。
そういう観点から、今日読むロゴスというのを理と訳してしまうと、区別建てするとか、分けて立体的に構築するという思考によってシステム論的な論理になってしまう。
西洋社会がロゴスによって成り立つといえるかもしれないれど、しかし、アリストテレスのロゴスは今日読むとわかるけど、そういうものではない。ロゴスを理性とか理と訳し、理解すること自身、大きな誤謬といっていい。
ところで、前に中沢新一氏の『東方的』というのを読んだことがあるのですが、あの本を見ると、最近焦点になっているロシア的なものと西洋的なものの区別は何かとか、ギリシャ正教とカトリックを分けるものは何かとかいうの議論に関わるけど、結局西洋的なもの、つまりカトリックはロゴス中心主義。そのロゴスというのは理性的なもの、合理的なもの、システム的なものを構築していく。それに対して、ギリシャ正教も含めた東方的なものは、そう簡単に分けられないと。それがあって、ギリシャは東洋と西洋の狭間に置かれて独特の宗教世界を作り出したという話なんですね。
前にそれを読んだとき、そんなものかなあと思っていたけれど、いまはいや、そうではないのではないかという気がします。アリストテレスの世界につながるベースになるものは、システム的、合理的なものはもちろんあるけれど、それだけに還元できないという感じがしている。その辺も含めて今日は話をしたいと思います。
取っ掛かりとしては2014年ウクライナのマイダン革命。これをどう見るか。これが2022年2月24日の直接的な導火線になっている。わたしは今回そこから話を始めていきたい。
現在のこの事体どうすべきなのか。わたしの気持ちだけ申し上げると、やっぱり2014年のあの事件を引きずっていて、もちろんプーチンが信じがたい暴虐行為をやっていることを世界が糾弾しなければならないということを、何よりもまずやらなければならないでしょう。
ただ、こういっては何だけど、糾弾だけで終わっては問題は解決しない。糾弾のあまり西側の政治的力によってプーチンもろともロシア的なものを解体する方向が、わたしにはものすごく目立っているように見える。
今やらねばならないことは、糾弾すること自体の危機を自覚して、ともかく、まずはすべての争いを停止することです。
昔、カンボジアで国連がPKOを派遣しましたよね。明石氏が行った。同様に国連がなすべきことは、まずは停戦させること。そのことに国際社会が動かなくてはならない。その上でプーチンの犯罪性を明らかにしていかないと、世界がギリギリまで追い詰められていくという危惧を感じています。
どうして国連を始めとして国際機関とか国際宗教団体が、戦争を停止する、そのための軍事的な圧力をかける、それをどうしてしないのか非常に疑問です。
その背景には、プーチンとプーチンに代表されるロシア的なもの、暴虐な権力も含め、自分たちに異質な世界を断罪するという考え方がどこかにあって、これは両者とも確信犯です。「これを地上から抹消しなければいけない」と両方とも言っていることと同様。こういう考え方に歯止めをかけなければならない。
なぜそういう発想になったかというと、人類が継承してきた知性の本筋がどこにあるのかを、いまこそ人間は考える必要があるのです。そういうことで今日の話になっていきます。
ただウクライナ問題に関して言うと、おそらく多くの方々が知らないことだろうけど、ウクライナという地域の特殊性。ウクライナはロシアでもポーランドでもない。東欧もカトリック的なものとギリシャ正教的なものの2つに分けなければならなくて、ウクライナはその狭間に置かれている。にも関わらず東欧としての共通性もあって、第一次世界大戦で明確にそれが表面化したのだけれど、この地域をビシェグラード、つまり中東欧地域共同体するという構想があった。1920年代に。これは西側でも、ロシアでもない、そういう共同体を作ろうという動きがあって、今回もそれが見え隠れしている。ポーランドとかチェコとかスロベニアとか。そういう国の大統領が戦地に入りましたよね。あれはこの動きだと思う。自分たちは西側ではないけど、モスクワを中心とするギリシャ正教の文化圏、つまりロシア帝国の文化圏でもない。そういう言動が形成されている。それを考え直そうというのがもう一つの提案。
最後に、ウクライナは多言語主義、多言語の世界ですね。多言語世界をどうやって秩序化するかという知恵が、あまり人類のなかで構築されてこなかった。それを考える時に新しい言葉ですけれど「不均等連邦制」という言葉があって、連邦国家だけれど、とくに多言語的な連邦国家を、どう戦争回避して統合するかという独自の政治学タームが20世紀になってでてきた。その不均等連邦制にかかわる言説に中心的に関わっているのがカナダです。今後、カナダの政治学の動向に注目していく必要があるでしょう。
それでは皆さんお揃いなので、きょうの講義に入りたいと思います。
今日は第4章、昨日完成した訳に従って話をいたします。途中で意見交換をしたいと思います。「第4章 育生力、植物的霊魂、栄養について」と表題を付けました。
さて、これらの諸能力について考察を試みようとする人は、その諸々の能力が何であるかを把握し、その上で、それらに続くものに関して、またその他の事柄について探求しなければならない。
しかしながら、これらの各々の能力が何であるかを語らねばならないとすれば、例えば、知る能力<ノエーティコン>とは、感覚する能力<アイステーティコン>とは、育生する能力<スレプティコン>とは何であるかを語らねばならないとすれば、それに先立って、知るということ<ノエイン>、感覚すること<アイスサネスタイ>とはなにか、を語らねばならない。なぜなら、言<ロゴス(分節・統合的な知性の働き、存在把握の序列)>からすれば、能力・可能態<デュナミス>よりもその働き<エネルゲイアー>とその実践<プラクシス>が先行するからである。
ここでまたロゴスが出てくる。このロゴスは「説明規定」と他の多くの者が訳しているけど、それではまったく意味が通じない。ここではとりあえず「物事を見るときの能力」ということを、人間が「もの」を見るときに、先ほども触れましたけど、分節する、分ける、AとBがどう違うかと、分けて分けて分けていこうとする志向。しかしそれだけではなく、分けたものをもう一回統合して理解しようとする知性。これがおそらく知る、言<ロゴス>という言葉で表される中核的意味だと思う。
なぜそうするか。人間の前に立ち現れるいろんな存在物、その存在物を見たときに、まずこれは一体何だ、これは何と何が違うのかと分けるという話。そして分けたうえで、一体的なものとして見れるかどうか。そういう意味で目の前にある存在物を把握しようとする、ある種「知的な序列化」ですよね。そういう働きが「言」と言われているもの。
そういう「言」の働きから見ると、能力よりもその働きと実践が先行する。ここは非常に難しい言い方をサラリとやっている。
これは、たとえばわたしがどういう存在なのか知りたいというときに、わたしがどういう能力を持つのかというのはなかなかわからない。ぼくの内部のことなので。ところがわたしが皆さんに語りかけたり、触ったり話したりするとか、そういう働きかけを知ることによって、わたしとは何者かがわかってくる。
そういう意味で、まず「言」、人間の知性能力からすると、まず着目すべきは「働きのありかた」だろうと。それはどう動いているのかが関心の的になる。そういうことでアリストテレスは「先行する」と言っている。
アリストテレスの他の著作でもそうですが、かならず「先行する」という言葉が何度も出てくる。ギリシャ語でプロテロンというのですが、これはすごく多義的で、時間の最初とか後もあるし、関心の度合いとか、順番をつけてものを見るとか、とても多様な意味を持つ言葉です。注意してほしいのは、ここで「人間がものを見る」、ものとは存在するものですが、存在物を見るときの序列の問題として、ある種の二項対立的な区別建てをしている。
それは、現実態、働き。それがどう働いているか。動いているか。そしてそれがもともと持っている状態、能力とかを「可能態」といっている。
それから期体と付帯という言葉もよく出てくる。期体とは、そのものが存在を維持するための体になり、基になるもの。ヒポケイメノンという言葉。そのものが存在するためのもっとも支えになるもの。それと、それ以外にいろんなものを身につけているわけだけれど、たとえば色だとか形だとか。そういうものは付帯的なものです。
そして、「もの」がどういう全体の関連の中にあるのか。あるいは一個の全体としてつながっているか。そういう全体と部分の関係。それからもう一つ、これも繰り返し出てくる最も重要なアリストテレス理解の要は形相と質料です。これはわかりやすくいうと、形と素材というふうに分けている。家で言えば形は家の形、そして家を作ってる瓦だとかコンクリとか木だとかは素材ですよね。
ただここで注意してほしいのは、形というと目に見えるものとかになるのだけれど、目に見えないものも形相の中に入るのですね。英語ではフォルム、ラテン語ではフォルマといって、これは非常に難しい問題があって、近代以降は同じフォルムでも形式と訳した。ところが中世まではフォルマというのは「形成するもの」という概念。そのものを作り出していく本当の力。だから「形」というふうに訳すとそれだけでは誤解される恐れがある。目に見えなくともそのものを作り出していく根源になっていくもの、これが形相です。それだけ二項対立的な視覚でものを見ていこうと。
アリストテレスの哲学では、最低限、①現実体と可能態、②基体と付帯、③全体と部分、④形相と質料、この観点でものを見ることが大事です。
もしそうであるならば、さらにそれらのものの対象となるもの(対置されるもの<アンティケイメン>)を観ることが先行しなければならない。そして同じ理由によって、最初にこれらのものの対象について規定(区別立て)しなければならないであろう。例えば、栄養(養うもの)について、感覚を与えるものについて、知られるものについて。
今度は逆にいうんですね。ものを分けてみるのだけれど、見るということそのものを、もう一回対象化してみようという話です。それは深い意味での認識論、人間がものを知るとはどういうことかという認識の構造まで含めて物を知るということを考えていこうと。
これからこういうことを念頭に置いて、育成力の問題を考えていくのだけれど、そのときに育成をする手段になるものが栄養、すなわち養うもの。
それから、生命が運動するときに、生命力がついてくると感覚という能力が与えられる。ですから感覚についての考察もでてくる。さらに人間になると「知る」という動きが出てくる。だから「知られるもの」と「知ること」について、以上述べたことを念頭に議論しようということになる。
ここで以下(注2)を見てください。
ここにアリストテレスの霊魂研究の方法が提示されている。能力、働き(活動)、その対象、この3つの組み合わせが研究方法の前提であることに注意しなければならない。さらにそれらの対象を認識する方法、認識論が検討対象となっている。ここで、古代認識論のもう一つの体系を為すインドの唯識論との比較研究が求められるであろう。
これから霊魂論を追求するときに非常に入り組んでいるのは、霊魂とは何かと見ようとするときに、見るわれわれ自身の認識のあり方まで検討しなければならないということ。古代認識論がまとめられているけれど、これだけの認識論を対象としているのはおそらく人類の歴史の中ではインドですよね。インドの世界で登場した「唯識論」と言われる認識論があるけれど、その認識論のあり方とこのギリシャの古代哲学に登場した認識論のあり方を比較検討していく必要がある。
霊魂において命を持続させる手段になるものが栄養、養うものですね。そして霊魂のもう一つの最も重要な働きは「産み継いでいく」ということ。
従って、まず第一に、栄養と生み継ぎについて論じなければならない。なぜなら育生力ある<スレプティケー(threptikee>霊魂は、人間以外の生命体にも存在し、霊魂の第一の、かつ最も共通した能力であり、これに基づいて、すべてのものに、「生きる(ゼーン)」ということが備わるからである。
つまり、人間を含めた生命体が存続するためには、栄養(養うもの)がなくてはならない。養うものを吸収することで、生きることが可能になる。
その働きは、生き継ぐことと栄養を摂取することである。
生きるということをもっと単純明快にいうと、自分一代で終わるのではなく引き継いでいくこと。これを生殖と生々しく書いてある。もちろん生殖なんだけれど、ゲネシスという言葉には、ただ生き継いで継承していくという語感、いわゆるgenerationですから、私としては一回限りの生殖ということではなく、生殖行為が引き続いていくということを含めて、ゲネシスを生き継ぐと訳した。
そしてそのために、まず個体そのものが栄養を摂取すること。この栄養摂取と生き継ぎということが、実は生命規定の根源になるということですね。
いまウイルスが生命であるかないか。現代生物学の最大課題としてまだ決着がついていない。生命の定義そのものはサイエンスでは明確な結論が下せないという典型例です。生命とは何かというのは定義の問題なので、いくらデータを積み重ね、生物学をどれだけやっても、定義を生み出せない。アリストテレスは直観に基づいての命題ですけど、生命の最大の規定は、自分の子孫を増やすということと栄養を摂取することだと言うのです。
これは現代でも生きる根本的な生命規定だと思う。
その面から見ると、ウイルスもどんどん増殖して生き継ぎをやっている。それから自分だけでは生きられないけれど、他者に寄生することで何らかの栄養を摂取するし、そこに遺伝子を移し替えていくことは広い意味で栄養摂取している。アリストテレスの定義によると、ウイルスもまた生命体だと定義できる。いかにウイルスが結晶体をもって動かないように見えても。
というのは、生命体にとって、その生命体が完全であって、不具でない限り、また自動的に発生するものでない限り、可能な限り、永遠なるもの、神的なものに与るために、自分に似たものを創出すること、すなわち動物が動物を生み、植物が植物を生むということは、それらの活動のなかで最も自然本性的なものであるからだ。3(415b1)
これは非常に重要な指摘です。
(注3)この箇所が、プラトンの『饗宴』206E以下の叙述に近いことを指摘する註があることにも注意すべきであろう。アリストテレスの経験論的唯物論的傾向を指摘する理解との差異を確認したい。
このひと言によっても、アリストテレスはプラトンと対立する経験的な唯物的な思考の持ち主ではなく、むしろプラトンと通じる側面があるのだと確認できる。
それと同時に、生命が永遠なるものを志向するわけですね。そしてそれは神的なものだとアリストテレスが言っている。それはつまり、生命は神的な力なのだと。そのことがここで明確に言われている。つまり万物の中で生命体はそれ自体神的なものだと明言されている。
この問題をカトリック、キリスト教会がどう処理していくのかが大きな問題ですが、まずここではそう言っていることを確認しておきたい。
実際、すべての生命体はそれを欲求している。彼らが自然本性に基づいて行うすべてのことは、まさにそのために行うのである。ただし、「そのために」というのは、二重の意味がある。一方は、「何のために」という目的の意味であり、他方は、「何々において」という、当事者の意味である。
したがって、可滅的なものは、同一性をたもちつつ、数的に一つのまま存続することは不可能であるために、永遠なるもの、神的なるものを連続的に共有することが不可能である以上、個々のものがそれらのものに関与することが可能な仕方で、それらのものを共有するのである。
つまり、神的なものは不可分に連続するということはなくて切れている。一つひとつが切れているけれども、自分に似たものをもう一つ生み出すことを通して、永遠なる生に与ろうとする志向性を持っている。
ただしその在り方には大小の差はあるし、自分自身は存続できないが、自分に似たものは存続するのであり、また数的に一つでないが、種としての一性を保持するのである。
つまり種としての一性を保持する。種としての一つの存在性を保持しようとする。それが人間を含めた生命体だと。
私はここに注4を加えました。
万物は、種としての完成、神的なるもの、永遠なるものの共有を志向する、とは、つとにトマスが注目するところである。人間もまた、個人としての自己完成と同時に(人間は個的な意味での永遠と神的なものに与る)、種としての完成にも与る。国家共同体並びに宗教共同体、また同時にそれを超えた人類として(生命を永続化させようと努力するものなのだ)。しかし今やホモサピエンス、人類は種としての存続が危ぶまれている事態を迎えている。
これから検討しなければいけないのは、自分の、自己完成のみならず、自分の身の回りの共同体、特に人間にとっては、安全を保持する最大の共同体は国家です。そして死者の永続的な存続性を大切に思う共同体、宗教共同体だから、国家的共同体、宗教的共同体をどう存続させるか、強めるかに多くの知恵を注ぎ込まなくてはいけない。
ここまででなにか質問がありますか。
[ Mt ] ここまで読んで、霊魂という言葉をDNAに代えてもうまくいくなと思ったのですが、これはどうでしょう。
DNAというのは、それ自体として細胞ですか?
[ Mt ] DNAそのものは細胞体ではないですね。いくつかの基本的物質が集まったものですが、少なくとも生命の発現の元になりますし、DNA自身は必ず複写でコピーを取ろうとする傾向がありますので、個として連続しようとする。
問題は、DNAが自分のなかに生命というパワーを持ちますか、ということです。DNAは一つの物質で、その物質を動かす源泉がDNAの中にあるのでしょうか。つまりDNA自身が自己運動するのか。
[ Fr ] 松下さんの議論が続いているのかもしれないけれど、私は松下さんがDNAと言われる意味で、霊魂は大日如来とか集合無意識といったほうがピンとくるのだけれどどうでしょうかね。集合無意識では生命規定にならないかあ。
大日如来とは神のことでしょう。ここで大事な事柄は生命であるかどうかということですよね。生命とは何かというのはこれから出てくるけれど、働きとして自己運動的もの、自己運動的働きの主体であるかどうかなんです。
[ Fr ] 霊魂は荒木先生にも私にも、ここに参加している皆さん各人にあると共に、霊魂の源、存在というのは全体としてもあるわけですよね。
つまり、Mtさんの話に立ち戻ると、DNAがよく遺伝子情報が書き込まれた紐のようなものと考えたときに、その紐自身が自ら自己再生して他者に働きかけようとする力があるかどうか。あくまで情報が書き込まれたものは、極論すればアリストテレスがいうならば、それは質料、情報を組み込んだ質料ではないかということ。
これを Frさんの話に関連させると、仏教徒自身が仏とは何かと議論しますが、古田さんは仏は何だと思いますか。
[ Fr ] 生命の中心ということでもないんですよね。生命のないものも仏が生み出しているから、ある意味で生命を含んだ全存在が私にとっての仏ですかね。そして全存在の一部である、たとえば時間限定空間限定のわたしであったり荒木であったり、個々の生き物であったり山があったり川があったりと。そんなイメージを持っている。
ぼくの感じとしては、仏教徒自身も仏を生命だという人もいますよね。多義的なんだけれど、アリストテレスの問題でいえば、本当に存在するものは生命なんだと。それを仏というか神というか、名前はいいのだけれど、それはすべて永遠の存在を志向し、人間においては個人としても、自分が肉体的に滅却しても代々引き続いて存続することを志向するものが生命だといちばん言いたいのだろうなと思う。
[ Fr ] 先生がいまそれを仏といおうが神といおうがと言われたけど、アリストテレスはたまたまそれを霊魂と言っているということですか。
そうですね。霊魂<プシュケー>という言葉の根源的な意味は生命そのものである。その生命は生きる主体的な力。
ここは非常に難しいけれど、「力」と表現してしまうと、パワーというところで留まってしまう。能力的な意味を含めて、能力自身が動いている、発揮されている、働いているもの、これが神的なものなんです。だから神的なものをなにか能力的なものに固定して限定してはいけない。
そういう規定があるとすれば、サイエンスでは生命は絶対に把握することができない。サイエンスは時間と場所が限定された瞬間的データ、運動するものの切り取りですよ。問題なのは運動する本体そのものが生命なのだから。
それを言葉によって表現するのが難しいので、現在大部分の翻訳者が翻訳しそこなっている。「なにをいっているかわからん」という文章がここに出てきます。
さて、霊魂は、生命体の身体の原因<アイティオン>であり、根元<アルケー>である。
生命体の身体が動いていることの原因でもあり、かつ根元である。生命体の身体を動かす元になっている。
しかしこれらのもの(原因や根元)は多様に語られているし、同様に霊魂も、すでに定義された仕方に基づいて、三つの意味で原因となっている。すなわち(1)「そこから」運動が始まるという意味での根元であり、(2)「そのため」という意味での目的であり、(3)霊魂を持つ身体の実有<ウーシアー>としての原因である。
で、注を読みますと、
(注5)いうまでもなくここではアリストテレスの4原因論が基本的視座として言及されている。我々の思考の大部分を占める、質量因の分析・統合、社会学的、データ処理的思考の部分性を自覚しなければならない。またこの箇所の翻訳に、「身体の本質としての原因」(桑子訳、講談社学術文庫)や「身体の本質的あり方(本質存在)としての原因」(中畑訳、岩波新全集)という訳は誤解をまねく。本質<エッセンティア>と、存在<エッセ>は、可能態と現実態の関係にあり、本質は存在のいわば静態的把握である。また「身体の本質的あり方」という表現は、それ自体が多義的意味をもってしまう。ここでアリストテレスが言いたいのは、身体の生命力、「生きている」ことの根元としての霊魂という主張であろう。
わたしたちが目にするものを分解し分析しようとするときに、アリストテレスは4つの点から見なさいという。まずそれは何からできているのか。要するに素材的なもので、「質料因」といいます。それから「目的因」、「起動因」、そして「形相因」。どんなものを見る場合でも、こういうふうに4つの視点から見ましょうと提言する。
ところがわれわれの日常生活での分析は、「質料因」の分析が大半なんですよね。なぜかというと目に見えるから。質量因の分析・統合、社会学的、データ処理的思考がわれわれの大部分の思考を占めていることを自覚しなければいけない。
この翻訳をわかりにくくしているのが、いろんな訳があるけど、桑子さんのものを見ると、「身体の本質としての原因」という言葉とか、岩波の新アリストテレス全集の中畑さんや、京都大学学術出版のもそうですが、「身体の本質的なあり方としての原因」という訳が出てきている。それはウーシアーという言葉の適切な訳語がないものだから、「本質的あり方」とか「本質存在」という訳になってしまっている。
ウーシアーにどういう訳語を与えるかということで、これまで非常に大きな混乱が哲学界の中にあった。それは「本質」という訳語、エッセンティアというラテン語から来たessence、これに「本質」という訳語を与え、そして「エッセ」というのは「存在」と訳しているのだけれど、この本質と存在がどういうふうに関係するのかというと、未だに多くの人たちが混乱しているのだけれど、わかりやすくいうと本質というのは存在しているものの、いわば静態的な把握。そういうことを理解すると、ここでは本質という言葉を使ってはいけない。静態的なものではなく動的に「働いている」存在。その原因だときちっと掴んでもらいたい。
そういうことで、これはもっとも最高度に抽象度の高い問題で、私自身もサラッと言ってしまったけれど、この部分を間違えると哲学的な訳は何を言っているかわからなくなってしまう。
繰り返していうと、霊魂というのは本当に存在している、イキイキとして存在している働きの根元なのだということ。そういう理解を共有したいなあと。
[ Mt ] そうすると実有ウーシアーというものを、実存と訳してはダメなんですね。
(荒木)実存はね、これは固有の言葉があってexistenceという言葉。これは個体的な、個として現れる形をとった存在。実存主義というのがある。サルトルの「実存は本質に先立つ」という有名な言葉がありますね。これに対してハイデガーが皮肉を言っている。「そんなことを言っているけど、実存とか本質という言葉がわかっているのか」と茶化して批判している。
それはじっさいおかしな話で、実存というのは個的な形をとった存在者なんですよね。「本質に先立つ」というと、サルトルがどう思ったかわからないけれど、人間はなにかどうとでも選択が可能だと言っているわけで、本質とは社会的に規定されることもあるかもしれないし、ヴォーヴォワールのような「女」の本質は作られたものだいう言い方があるように、本質は作られたものだという理解も可能になるわけです。
ところが本質というのは、働いて存在するものの、ひとつの断面なんですね。断面というはちょっとおかしいかもしれないけど、ものが動いているなかで、「これはいったい何であるか」と問うときに、たとえばMtさんと私は「同じ人間だと」いいますよね。それはMtさんと私をある抽象概念で切ったときに共通項として人間という概念に当てはめているわけです。
つまり本質というのは抽象概念なんです。抽象的な概念によって、ウーシアーとか、もっと同質のものでいえば、ト・エイナイというものを表現することはできないとアリストテレスはいっている。
人間の言語によってウーシアーというものを表現することはできないので、なにか普遍的な抽象概念によってバッサリと切った言葉としてのレベルがあるとすれば、それが「本質」だと。大体イメージは共有できましたか?
[ Mt ] ということは、実有<ウーシアー>そのものは人間の言葉では、本来は表現できない。
そうです。だから「本当にあるもの」という意味でしかない。だけど、それを哲学的にも社会科学的にも言葉にして言わないと人間同士として合意が得られない。だからあるものとあるものの共通項を引っ張ってくる。わたしもMtさんも「人間」という普遍的な共通する性格を持っていると見るわけですよ。人間というものが、わたしとMtさんの最も普遍的な本質なんです。
でも、「私は人間である」といったところで、それはわたし自身の活動全体を表現するのとはまったく別のこと。それをラテン系の人はアリストテレスがよく判らんことをいっているなあという認識があって、あえてエッセ、エッセンティアという言葉を作った。もしラテン語で表現するなら存在はエッセなんです。で、本質はエッセンティア。
だから私の本のなかで、非常に文学的な表現になっているんだけれど、「人間というのは存在の核心を捉えようとしてロゴスという光によって存在を切り取ったものが本質だ」と述べている。
[ Mt ] でもそれは一つの断面に過ぎないと。
断面ですよ。人間の悟性というか理性によって切り取ったエッセの断面的な、普遍的規定なんですよ。
[ Mt ] 心理学の視点からいうと、言葉で表現できないものを、どうしてアリストテレスが「そういうものがある」と考えたのか不思議なんです。
だからこそヌース(直知)という、アリストテレス本人だけではなく人間誰しにも与えられた知性能力があると考えた。ヌースというのはサイエンスに限定された知性の働きではない。
[ Mt ] カントが、経験に基づかないものを認知する能力として純粋理性というのを考えたようですが、ヌースは純粋理性とはまた違うものですか。
違うんです。カントは非常に難しい人なんだけれど、カントは人間が持っている悟性とか理性、それによってものの本当の存在を認識することはできないと思っている。だけど、存在そのものはあるといっている。それを彼は仮想界、ヌーメノンという、彼の造語なんだけれど、ヌーメノン的世界の存在性といっている。だけど人間の純粋理性ではそれに触ることができない。だから言葉として「物自体」という言い方をする。物自体は認識できない。だけど認識できないといって、「ない」とまでは断定しない。人間には認識できないところがあるから、人間が認識できる部分は感覚によって与えられた世界として整理することができる。そういう世界に限定しなければいけないというのです。
これがカントの世界だと私は思う。ところが認識できないと言った彼の世界が、人間の理性によって感知できる世界というある意味サイエンスの世界として拡大していった。まずは感覚的なところ、人間の身体的なところから行くんだけれど、いろんな機械、測定器があって膨大なデータが蓄積されていきますよね。そのデータの世界でわたしたちが生きているということになってきた。それを彼は「現象の世界」だというわけですね。でも本当の世界はそこにはありませんよと。で、本当の世界に関わるうえで、人間にはすべてわからないわけではない。特にいかに生きるべきかという道徳的世界に関連すると、人間の心の中に呼びかけていく命題がある。ということで、『純粋理性批判』とは別の、『実践理性批判』というのを書くだけど、アリストテレスはそういう世界とは違う。
[ Fr ] 私の雑な理解だと、ブルーバックス的な宇宙理論を読んでいると、ダークマターとかダークエネルギーというのが95%ぐらいで、いまのところ科学では触れられない。5%ぐらいのところでいろんな宇宙理論を展開しているという議論をよく目にする。カントにせよアリストテレスにせよ、過去いろんな人が感じてきたことを宇宙物理学でそう言い換えているに過ぎないのだということなんでしょうか。
ぼくはそう思います。
[ Fr ] 最先端の宇宙物理学が、理屈がつくのは5%ぐらいだ、95%は未知の領域だと言っておかないと解決がつかないというか。ある局面局面で、アリストテレス以来、あるいはもっと前から、人類とはそういうものの感じ方をしているということなのか。
これは、アリストテレスが、真の存在性というものに対する直観能力と、サイエンス的な能力の大きな違いを認識しなさいと言っているわけです。本当に生きていること(エッセ)と働きというものは人間のサイエンスによるデータ処理の対象ではないと。しかもその世界は永遠なるものを志向している。これを神と言わずしてなんと言おうかと。そういう話ですよね。だからアリストテレスが時代遅れになったというのは、ホッブス以来のとんでもない誤解で、まさに存在論の理解がずれちゃった。
[ Mt ] アリストテレスは理性の限界はないと考えたのでしょうか。カントは理性の限界があると言っていたと思うのですが。
理性というより知性ですよね。知性の限界はないけれども、人間は身体を持っているので、完全な形での知性の展開はない。だから、完全ではないけれども、自分が考えている限界ギリギリのところまで表現していかないといけない。
ただ、アリストテレスがもう一つ重要なことを言っているのは、人間の知性自身が、わたしたちが日常生活で感じているような能力以上の能力を持っているとも言っている。それはこれからいう問題です。
この問題は、ぼくの説明も不十分なのでどれだけ理解していただけるかわかりませんが、何度も繰り返して立ち返ることにしましょう。
《2022年4月9日》