荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 5-3

 で、この実有とは。(注33)
 
 では、ウーシアー(実有)は、①本有<ト・ティ・エーン・エイナイ>=従来、本質と訳されてきたもの、②普遍的なもの、③類的なもの、④基体<ヒポケイメノン>の一部か、それらの総合されたもの、とされた。ここでは、ウーシアーは、基体の説明と重ねられている。文脈上、ここでは、霊魂の個体的存在性が主要なテーマとなっているからであろう。しかし実有<ウーシアー>は、あくまでも普遍にして個的な存在であるが、……
 
 また何を判らんことを言っていると思うかもしれないけど、
 
 人間がその存在を知るのは、人間の知性に現象してくる(現れてくる)個的存在との相互対応・コミュニケ―ションにもとづいてである。重要な点は、人間が感知する存在性は、客観的に存在する個的存在物であるのではないが、他方で、絶対矛盾の自己同一でもなく、単なる現象、現れ、また現象的なもの連鎖でもない、ということである。
 
 うーん、ここはもうちょっと説明を加えて書き直します。西田幾多郎批判を表現しようと書いたところなんだけどもこれでは十分な展開ができませんので。

 最後に注10。
 
 この点は、言<ロゴス>の観点から見てもそうである。実際それぞれのものの完成志向態は、それぞれの可能態の内にあって、その固有の素材の内に自然本性的に生じるようになっているからである。
 
 これは何を言いたいかといえば、人間の霊魂には霊魂固有の、それにふさわしい身体があるのだということ。まさに心身一如ということで、ある霊魂にはある身体がピタッと合体して成長を遂げていくのだということ。
 これをなぜアリストテレスが書いたかというと、多くのヨーロッパの注釈書を見ると、霊魂、輪廻転生説への批判。人間が死んだら犬に生まれ変わるとか狸に生まれ変わるとかそういう説もあるけれど、そんなことはないと。人間の霊魂は人間の霊魂にふさわしいものに宿り成長して亡くなる。これがアリストテレスの主張したいこと。

 Mr さん、わかりますか。

[ Mr ] いや、先生、そうすると霊魂にふさわしい肉体が必要なわけですよね。で、人口がどんどん増えてきたら霊魂が足らなくなる—-。つまんないこといってすみません。

  それは無限に、神的なものから出てくるんだよ。

[ Mr ] では霊魂はどこから出てくるのですか。

 それは神なんだよ。

[ Mr ] 神が発するものを肉体が受け取っていくと。で、素晴らしい霊魂があるとするなら、それが宿る肉体も、神が素晴らしい肉体を授けている?

 そういうことです。たとえばアレクサンダー大王を見てみるとよい。非常に天才的な戦争の英雄だけれど、それにふさわしい身体が彼に与えられている。だから真っ先に先頭を走り出しても槍に当たらない。そういう最高にふさわしい身体能力を与えられている。
 それからアリストテレスみたいな大天才は瞬時にして「もの」の本質を洞察する抽象能力が与えられている。それは結局人間の身体は視覚や聴覚やすべての能力を凝縮して抽出する訳だから。実際、アリストテレスを読んでいて、この人63歳とかで死ぬのだけど、とにかくありとあらゆるものを分析・分解し、その本質的なものを文章に書き残している。

[ Mr ] でも、そうすると私のような凡愚はなにかこの世の中に残すべきものがあるのか。

 それはあるんですよ、各人それぞれに。だから個にして全体なんだよ。Mr さんには Mr さんにしか発揮できないような個的能力が与えられている。

[ Mr ] それは、私がこの世に出てきた原因であるのか、そして宿命であるのか。そういうことなんでしょうか。

 そういうことなんですよ。そこまでいくと宗教的な感じだけれど。そういう宗教的思考が展開されるベースが整理すると出てくるんじゃないか。

[ Mr ] いずれにしても、唯物論的には分析しきれない部分があるのは明らか。これは理解できるのだけど。

 要するにサイエンスではその働きを引き出すことができない。なぜかというと「生きている」ものだから。ある種「時間」を超越している。瞬間瞬間であると同時にその瞬間を超えていくような存在物である、人間は。

[ Mr ] われわれ存在自体が現実態であるにもかかわらず、現実態を離れた部分の動きともリンクしなければいけないという非常に難解な話になってきますよね。
 
 それが本当にどこまで重要な説明原因になっているかについては、大きな問題があると思いますが。

 ちょっと疲れてきたけど、せっかくだからもう少し先まで行かせてください。2〜3日前に、かなり力を込めて書いた注があります。


 
第3章 霊魂の諸能力と重層的一体構造

 さて、すでに言及されたように、霊魂の諸々の能力については、すでに論じたように全ての能力が備わったものもあれば、若干のものが備わったものもあれば、一つしか備わっていないもののある。

 その能力とは、育成する能力、感覚する能力、欲求する能力、場所的に動く能力、知性認識する能力であると述べたところである。

 さて、植物には、育成する(threptikon)能力だけが備わっており、他の生命体には、この能力と感覚する(aisthetikon)能力が備わっている。しかし感覚的能力があれば、欲求(orektikon)能力がある。というのは欲求<オレクシス>は、欲望<エピテュミアー>と気概<テュモス>と願望<ブーレーシス>も、それぞれ欲求であり、そしてすべての生命体は、少なくとも一つの感覚、すなわち触覚をもっており、そして感覚が備わる生命体には、快苦があり、すなわち快的なものと苦痛をもたらすものが備わり、そうしたものが備わるものには、欲望を備わるのである。なぜなら欲望は、快的なものへの欲求であるから。
 
 わたしたちが議論している人間の霊魂というのは、欲求というのが非常に重要なモーメントであって、欲望と気概と願望、すべてに関わってくる。だから欲求と一体となって人間の知性も働くということになってくる。そういうことでそれと切り離した知性活動は、人間の知性活動ではないと言う原点がここに述べられています。
 
 さらにすべての生命体(動物)は栄養物への感覚を持っている(というのは、触覚は栄養物に対する感覚であるから。実際、生命体はすべて、乾いたものや湿ったもの、温かいものや冷たいものによって養い育てられるものであり、それらへの感覚が触覚なのである)。しかしその他の感覚的な事柄に対しては、触覚は付帯的にしか感覚しない。

 実際、音も色も臭いも、栄養に何も貢献するところがない。しかし味は諸々の触覚の一つである。また空腹や渇きは、欲望であり、空腹は乾いたものと温かいものを求める欲望であり、渇きは、湿ったものや冷たいものを求める欲望である。そして味は、いわばこうした欲望の薬味のようなものである。

 しかしこれらの問題については後で詳細に明らかにすべきであろうが、目下のところ、このような事柄については、生命体の中で、触覚をもつものには、欲求も備わっていると述べることで十分であろう。

 他方、生命体が形象<ファンタシアー>を持っているかどうか(注11)については後に考察すべきであろう。またこれに加えて、場所的な運動をする能力が備わっているものもあり、またその他のものには、認知する能力や直知する能力が備わったものもある。たとえば、人間や人間に類似するものや(注12)、人間以上に尊崇されるべきものが存在するとすれば(注13)、そうしたものもそれに相当する。
 
 ちょっと小さなことからいうと(注12)

「人間や人間に類似するもの」と言っているが、これはいったいなにか。現在でもはっきりしないけれど、おそらく猿とか類人猿のようなものが考えられていて、そこには認知能力、直知能力もあったのだろうと考えたのではないか。
 それから(注13)、「人間以上に尊崇されるべきものが存在するとすれば」という仮定法的言い方ですが、それはさまざまな諸神体、ダイモーン、精霊のようなもの。それから最高存在としての神が想定されている。
 アリストテレスの世界はダイモーンとか神的なものが存在として前提とされている。そうでないと理解できないところが非常に多くあると頭においておいてもらいたい。

 で、今日話した事柄は、人間の知性、人間の霊魂というのはさまざまな諸能力の重層化された働きを持ってる。
 そこで大事なのは、ファンタシアと呼ばれる能力、形象。他のほとんどの訳ではファンタシアが表象となっている。表象という訳が採れないと私が思うのは、どうしても人間がものを見たり感覚したときに、それに相即不離にできるところの姿形、現れる形で、かなり即時的な第一次的なイメージが出てくる。ギリシャ語ではファイノメノン。「現れる」プラス「出たもの」。それに対する注を書きました(注11)。
 
 このファンタシアーについては、第3巻で主題的に論じられるが、これまでの日本の翻訳では多く表象と訳されてきたが、ファイノメノン=現れ出たもの=現象と紛らわしいところがある。原義は、感覚対象の像 image を、意識内において、再現する意識能力、imaginatio(イマギマティオ)、または species(スペキエース)、としてラテン語訳されるもの、霊魂内に形成される心的形相と想定される。それゆえそこには、ある種の存在性が刻印されると考えられる。まさにこの点において、オッカムとトマス・アキナスの相違、潜性的実念論と唯名論の相違がよこたわっている、と思われる。
 
 さっきの例でいうと、人間という把握、これは人間同士が勝手に作った抽象名詞、問題を整理するために作った抽象名詞ではなくて、ある種の存在性がある。実際に人間がものを見て、そこから抽象してきたものなので、そこにある種の存在性が刻印されている。だからファンタシアというのはたんなる現象の対応物、「写像」なんてものではなく、それに人間の知性が加わった加工物である。だからコピーじゃないんですね。そこにある種の人間の知性活動が刻印されている。同時にある種のものの鏡のように受容したものだ。そういう理解なんですよね。

 これは仏教的にいうと、唯識論に比する存在。わたしもまだ十分に検討していないけれど、唯識論の世界は、ここでいうファンタシアが結局無である、存在しないと総括するのだろうと思います。アリストテレスの場合は唯識という世界の中に、ある存在性を見るという違いがある。そして、ヨーロッパ哲学史の流れでいうと、少なくともトマス・アキナスのレベルではファンタシアの中に存在性が刻印されているけれども、これはたんなる抽象名詞である。連想ゲームの所産であると、そのように私的な連想体だと考える出発点になるのがウィリアム・オッカム。それとトマスはまったく違う哲学系統にある。

 それを世界でも稀なぐらいおそらく最初に明確に言ったのが、この前亡くなった稲垣良展先生なんですよね。『抽象と直観』という、非常に重要で難解な本を書かれてますけど、興味のある人は是非それを読んでもらいたい。今日はぜひ稲垣先生のことを皆さんに知っておいてもらいたいと思ってこの注を書きました。
 ざっと見る限りで、イギリスに展開する哲学の流れは、オッカム的、唯名論的な哲学が大きな支配力を占めているように思われます。

 そういうことで、今日の重要な議論の対象はここまでとさせてもらって……。

 

[ Ng ] 幼稚な質問で申し訳ないけど、オッカムとアキナスの相違とあって、そのあと潜性的実念論と唯名論とありますよね。実念論はリアリスムでしょう。有名論はノニマニスム。そうするとオッカムがノニマニスムに対応するわけ?

 そういうこと

[ Ng ]じゃあ、これ、逆に書いたほうがいいですね。素人はこれ、読めないですよ。

 そうですね。直しておきます。オッカムは唯名論の哲学の、ヨーロッパで代表的な人ですね。

 [ Ng ] それからもう一つ。ファンタシアについて感想なんだけれど、生命体が形象を持っているかということでファンタシアを形象と訳したわけだけど、形象という言葉を聞くと、なんかこう人間の想像力が向かっている客体のことを言っているように私には感じられる。なにせ「形」なんだから。ここで問題にしているファンタシアは形象を生み出す力のことでしょう。その点だけで言えば「表象」のほうがずっとあたっていると思う、形を「表」すのだから。フォアシュテルング。

 でも、形を表すだけではなくて、表し方の中に人間の創造的な作用が組み込まれている。だからフォアシュテルングというのは形作るということだけれど、結局客観的なものの像として、いわば直截的なコピーとしての印象が残っているのではないか。

[ Ng ] このファンタシアは、それを超えたものだと。

 そういうこと。

[ Ng ] それが生かされるように形象能力とかとしないと、アクティビティが反映されないで、客体の方を言っている気になる。

 そういう像を作り出す力であると同時に、像そのものを示す場合もあるんですよね。その場合はファンタスマと。ファンタシアはその働くプロセス。

[ Ng ] だったらなおのこと形象力とか言ったほうがいい。形象という言葉だけを聞くと、僕はドイツ語ならフォアシュテルングのほうがずっと能動性を感じる。

 フォアシュテルングの日本語訳はどうなっているの。

[ Ng ] 表象でしょうね。意訳すると想像、イマジネーション。

 翻訳を考えるけれど、なんで形象にこだわったかというと、スペキエースというラテン語のもう一つの言葉、これが形象なんですね。人間の心の中に作られたイメージ。それが形象という言葉で神学大全の中に定着しているから、それを活かしたいなあと。これは稲垣先生の用法なんだよね。

[ Ng ] わかりました。

 この、人間のファンタシア、イマジネーションの力というのは人間の認識論の中で非常に大きな作用をしていますので注目してもらいたい。

 

[ Sg ] 前に戻って申し訳ないのですが、気概<テュモス>と出てくるのですが、欲求<オレクシス>、欲望<エピテュミアー>、願望<ブーレーシス>とならんで、ここに気概が出てくるのが違和感がありまして、もう少し詳しい説明をいただければと思うのですが。

 これ、テュモスというのがどういう言葉なのかというと、勇気に近いんですよね。だから欲求でもあるんだけれど、欲望というと感覚的な感じがしますよね。で、願望というのはもう少し精神的な欲求に近い感じも入ってくる。
 それとはちょっと違って、勇気を振り起すことで作用するような欲求なんですよね。なかなか表現しづらいのないのだけれど、生命というものが存続することを強く望む力、そういうもの。

[ Sg ]「強い気持ち」のような。

 そうそう。プラトンなんかはこれを戦士階級の大きな徳として着目するわけです。で、欲望というのは身体的な、飲み食いするとか、そういう世界に近い。で、願望というのはもう少し精神的な、知性的な欲求に多く使われる。それに比べると、たとえば、ギリシャ人の理想的なあり方として4つの徳と言われているのは、正義、節制、知慮分別、勇気。節制は自分の自己の欲望をコントロールすることなので欲求のコントロールに近い。で、気概とはなにかというと勇気の問題なんですよね。正義というのは知性的なバランス能力ですから、願望もそこに含まれるでしょうね。そういう意味では勇気に近い概念。勇気ってどういう願望、欲求なんだろうなぁ(笑)。

[ Mt ] スポーツの観点からいうと、昨日のフィギュアスケートの羽生結弦が勇気、気概です。あの4回転半に挑んだのは素晴らしかったと思うのですが、わたしはあれが気概だと思って聞いておりました。

[ Ng ] 覇気と言う言葉に近いんじゃないの?

[ Sg ] しっくりきますね。

 しっくり来る?

[ Sg ] 覇気という言葉がしっくりきました。

 覇気をどういうふうに受け止めましたか。

[ Sg ] 目的を持って、強い気持ちを持って、何かをするということ。

[ Ng ] 気概という言葉にはベクトル性がないじゃない? 覇気というのはベクトルがあるんですよ。他者に対する。

 どういうベクトル?

[ Ng ] 自分の内側から出て何かをするというベクトル、動き。気概というと動きが感じられないんだよね。欲望はなにかに向かっている。願望もなにかに向かっている。それに対して気概っていうと静止しているように聞こえる。

[ Sg ] 内向的な感じ、いや内向じゃないな、自分の中での感じ、内省的かな。

[ Ng ] 自らを律するという感じ。

[ Ak ] 広辞苑では、覇気というのは「覇者になろうとする気性、積極的に立ち向かおうとする意気、勝気」とあります。

[ It ] だから意気込みだろう。覇気というと、なんか覇者とか連想しちゃうから。意気込みのほうがいいんじゃないの?

 何への意気込みなの。

[ It ] 一般的な意気込みだよね。能動的にやらなくてはいけないと、ぐっとくるときの意気込み。

[ Ng ] そのへんがいい落とし所かもしれない。

[ Fr ] 前に出ていくような感覚なのかなぁ。しかし、気概というと前に出てくことだけではない気がする。私の感覚だともっとレベル感が高い、人間として。言語としてのニュアンスはどっちなんでしょうね。一歩前に出るような感じなのか。気概だと一歩前に出るよりも、一段高くというイメージがありますよね。

 比喩的に「権力に屈しない人」とか(笑)。

[ Fr ] そうそう。気概というのは、覇気よりは二重丸かなと。覇気だけだとどうかねって(笑)。

 まあ、訳が難しいね。でも人間知性にはそういうものが含みこまれているということ。それが重要な定義になるんじゃないでしょうか。

 

 あと全体的なところで質問がありますか。あるいは今日全体の感想など。

[ It ] 最初の方に戻ってしまうけど、たとえば国家のできる原因ということで4つ挙げられていたけど、どう考えても中国の中華思想のような「求める方向性」のようなものがもうひとつあるんじゃないかな。ひょっとしたらどれかに入っているということかもしれないけれど、国家ができるときに一種の、全体で共有している何らかの方向性がある気がする。この4つに入るのかなぁと。目的ともちょっと違うし。それがもやもやしている。中華思想という話があったときに東西文化の比較などを読むとそれを強く感じる。

 中華思想で僕が重要だと思っているのは、中国は武の国ではなく、文、文明の国だと。文明とはなにかというと、暴力ではなく礼によって治めること。だから礼治という独特の秩序で国が立つのだと。それが中華主義の最も重要な根本概念だと思うのだけれど、そこに付随して中華思想を実現するのは中原ね、中国における中原の国民だと。そこからあとは四夷(東夷、西戎、北狄、南蛮)の劣等諸民族を従えて中国がそのなかにそびえ立つというのが中華主義の根元だと思う。それによって中国は建ったのだと。それで礼治が起動因のひとつでしょうし、それが形相の根幹を作っていくことになる。

 この形相因といっているのは、政体ですよね。

 そうです。

[ It ] その政体を動かす、それこそ気概のあるもの、それが中華思想と考えればいいのかな。つまり形相因の中にあると考えればいいのか。

 そうです。つまりこの4つの原因は主な区別であって、それぞれ相互に連関している。特に起動因と形相因、目的因は非常に親密性のある要因です。
 だた、はっきり言っておきたいのは、これはある種の国家を分析する要因なんですよね。繰り返しになるけど、国家は人間が作ったものだから、人間の集団として当然意欲とか志向性とかを持って動いている。ある種国家は「生きたもの」として動いている。その意味で、分析的には4つに分けられるけれど、現実的な国家としては、その形相因を動かす具体的な主体者が国家を動かしている。そういうことになる。

 だから、企業とは何かというときも、あくまでも「企業は株式会社である」とかいっても、企業の本質規定にならない。たとえばA社はこういう目的を持ってこういう人がリーダーとなってこういう構成員をひきつけて動かしている組織体だと、そういう形になる。だから目的が失われたら、名前が同じであってももはや同じ企業ではない。

 

 Is さん、今日の講義、どうですか? 全体的な印象とか質問があれば。

[ Is ] いろいろと、難しいですね。でも、もうちょっとでわかりそうな感覚もある。そこのもうちょっとが、なかなか辿り着けない壁でもあると思うけれど。

 訳語の中で最大の欠落は、やっぱりロゴスの訳ですよね。

[ Is ] そうですね。前々から、翻訳の問題として、ともかくまず「読める」日本語にしなきゃいけないと思っていて、それはある意味でそれぞれ個人が講義を受けて、どう理解するか、どう解釈していくかという問題でもある。結局は自分が日頃使っている日本語で考えるわけですから。

 みなさんが一番さっぱりわからないというのはロゴスの訳し分けで、前後の脈略が全部失われてしまうような訳になってしまう点。あるところは言葉、あるところは理性、またあるところは説明規定というふうに、やたらにいろいろ出てくる。理といったり、それを「ことわり」と読ませたり。「ことわり」と説明規定とはどう違うのか。そこらへんの難しい問題もある。

[ Is ] 先生は「言(げん)」という言葉をロゴスに充ててますけど、一般的な口語、話し言葉としては日本語として使われていないので、ぼく個人的にはカタカナでコトバという表記、それがいちばん複雑な意味を一つの言葉で示しうるかなという気もします。

 日本語の文脈としてね。漢字が使えるイメージ能力が減退しちゃった?

[ Is ] うーん。なんか「言」って聞いても、現代人にはピンとこないというか。先生がそう表現したいのはわかるのですが。

[ Fr ] Is さんがおっしゃりたいのは、「じゃあロゴスと言い続けよう」ということですか? そうやっているうち、各自がいろいろな理解ができるようなると。

[ Is ] それもありますね。それは以前にも申し上げたことがあるけど、このテキストにもカタカナ表記がかなり出てくる。日本語としてはいろいろな言い方があるけど、それぞれがたとえばロゴスという語に対応する複雑な意味を持っているのだということが、それなりにわかってくるかなという気がする。だからカタカナをそのまま使ってもいいんじゃないかなという気もします。

[ Fr ] でもカタカナでやろうとすると、丸山眞男の「であることとすること」じゃないけれど、日本人がカタカナを使うときには名詞で入れるから、本来の動詞的意味合いが欠落して社会に混乱を催すと。「ロゴスする」(笑)みたいなものを含めて。

[ Is ] なにか一つの方法、訳に限定しようとすると無理が出てくるかな、どうやっても。その複雑性を、どうやって複雑なまま表現するか。よくあるように「それをひとことで言うとどういうこと」って言い方があるけど、それをやっちゃうと、結局ずれてきちゃうみたいな。そういう恐れがある。すごく難しい。

[ Fr ] でもカタカナでもずれてきちゃう。大本の意味とぜんぜん違うふうに——。

[ Is ] いろいろ使い分けるしかないんじゃないかな。ぼくが言っているのはカタカナ一つで限定するということではなく、カタカナ語を含めていろいろ多様に使っていくしかない。こういう議論ではいろんな考え方、言葉、つまり考え方を使っていると、文脈上それなりにわかってくる感じもあって。先生のテキストも、これ正直いってテキストだけ読んでも何を言っているのか、すんなり入ってこない(笑)。それはそれで思考を促す良い面もあるのですが、訳語が「普通の」日本語として成立していないというか……。
 でも講義を受けていくつかの言葉を照らし合わせながら思考すると、ああ、なんとなくこういうことかなというのが、「おぼろげに」見えてくる。

 同じ言語空間を何度も繰り返してやっていくという学びなんだろうね。そうでないと語りきれないんでしょう。

[ Is ] そのへんが古代ギリシャのときも、アゴラで議論していた方法論に近いのかな。

 そうでしょうね。しかし、不可能なことを可能なことにちょっとづつ、読めるように努力していきましょう。

[ Is ] 「完全(完成)志向態」のままに(笑)。

 完全志向態も馴染みのない言葉でしょうかね(笑)。ただ、この言葉が出たので補足しておくと、他の訳ではエンテレケイアという言葉が「完全現実態」になっていたりする。この言葉を最初に読んだときにぼくはびっくり仰天した。なんでこんなに長ったらしい漢語で表現しなければいけないのか。もっと短く言えないのかと。しかし、ギリシャ人にとってもそうなんですよ。エン+テレイア。テレイオス、完成です。「完成のなかにある」あるいは「完成へと導く」。そこも、完成の中にある状態なのか、完成へと導くのかで全然違ってしまう。だからもし生命体とすれば、花が咲いて終わりということではなく、最後まで人間は死に至るまで完成を志向する存在。なぜなら人間は知性的な動物だから。記憶力が減退していっても、完成を求める知性活動がありうるわけで、そういう意味を込めてぼくは完全、あるいは完成志向態という言葉をぜひとも使いたい。

[ Is ] やっぱり運動ですよね、志向/思考というのは。

 運動、動きなんですよ。

[ Is ] だから逆に言葉も一つに固定して、つまり単純化して停まって静止してしまうと、ある意味魂=知性から離れていってしまうのかな。「わかった気」になることと「わかる」ことは根本的に違うことだと思う。人は単純化してついわかった気になりたがる。抽象的なことを言っているようだけど、本講義による「抽象」という概念の捉え方も、ちょっと眼からウロコ的なことがありました。抽象って、いわゆる「抽象絵画」を連想して、具体的な形でない幾何学的な形や色彩に分解していくことだけが抽象ではないという。そういう話は、眼からウロコが落ちるような話でした。何かを抽出する、切り離す。すると何かが「わかる」というか「ひらめく」——。

 切離して抽象する。

[ Is ] 抽象の反対はかならずしも具象ではない。

[ It ] いまの抽象の話で、冒頭に Fr さんが人と人とが直接会うことの重要性を言っていましたが、よくわかっている人との間では、たとえば私は Fr さんとは長い付き合いだから、私は Fr さんをその意味で抽象化して理解しているのでしょう。しかし、直接古田さんと会ったことのない人は、この二次元の場でしか知らないわけだから、抽象化できないかもしれない。人とじっさいに会って顔を見ながら、目線を合わせながら語り合うことの重要さは、そこにあるのでは。私はそう思っている。人間関係は抽象化して理解している。ああ、この人は信頼できるとかね。この人はどうか、とかね。漠然とした抽象化した概念だけで評価として見ていると。

 

 Sbさん、どうですか?

[ Sb ] 皆さんの議論がいろんな所に飛んで面白い。要するに近代をひらいたデカルトの心身二元論というのが最近特に評判が悪くて、心身一元論に傾いていると思う。でアリストテレスの心身一元論、東洋の心身一元論と通ずる部分もあれば違う部分もある。ここはどうなのか、今日でなくてもいいのでそれを知りたい。
 もう一つはNgさんが質問した「知性で知って、それが霊魂に作用して、それが最終的に肉体に及ぶ」ということ。具体的な例として、感動的な物語を読むと心が感動して、肉体としては涙が出る。あるいはオリンピックで頑張れと言葉をかけると頭で理解して、やる気が起こり勝負に勝つとか。そこの部分は理解できた。
 
 で、『サピエンス全史』とか書いているイヴァル・ハラリが言ってるのは会社も国も、みんな幻想じゃないかと。人が頭の中で作り上げて、人がそれでもってやっているだけなんだという。その意味で国家の4つの因子の話はよく分かるのですが、でも「みんな幻想だよね」と言いたいところもある。それから前に荒木先生が言われていたと思うけど、もともと日本の国というのは、山城の国とか、外国が現れない前の国とは日本国内だけのこと。アメリカもstateですから個々のstateがあって対外的に戦争というときには連邦政府がやろうと。そういった国の概念も時代によって変わってくるだろうし。でも、なんだかんだいってそれは幻想なんだろうなあと最近強く思っています。

 それから心も、やはりハラリが書いてますが、正義とか節制、勇気、特に覇気の話がありましたけど、覇気を高めたければセラトニンを飲めばいい。それとの関係はどうなのか。非常に物質的即物的なんですよね。勇気を高めたければ、それこそいろんな物質があるわけです。そうやれば、心そのもの、気概は生まれてくるよと(笑)。ちょっとおかしいなと私も思うけれど、そういう議論に対してどういうふうに考えていけばいいのか、それが先生の講義を聞きながら一つのアンチテーゼとして考えてました。

 いろんな問題がいっぱい出てきた(笑)。これ、簡単にいかないので継続審議にしましょう。継続審議として皆さんの頭に入れておいてほしいのは、まず第一に心身一如という問題に対する西洋的なものと東洋的なものとの異同ですね。それから国家とか会社のフィクション性ですね。それを本当にフィクションといっていいのか。それから心身の問題に関わるけど、人間の心というのは薬物の作用に対して反応することをどう考えたらいいのか。正常ではない心の動かし方があるとすれば、それはどういうものなのか。その他にも重要な問題があったと思いますが——。

 

 Okさん、なにか感想がありますか。

[ Ok ] ぼく自身は今日の議論で霊魂というものが生きているということに関わっていて、その中で先生がおっしゃっていたように育成していくというか、何かになっていく、とうことなら、この頃中島隆博さんとかよく言っているのですが、中国の「仁」の思想などでも、「人間になっていく」というような、生成していくというようなイメージを持ちました。生きている事自体がそういう育成、人間として生きていくことが人間になっていくのだと。そういう感覚がアリストテレスのなかに、自己育成というか、人間になっていくというところに自己育成、魂というものの存在を考えていたのかなと思いました。

 あと、もう一点は、最近話題のマルクス・ガブリエルの話ですが、まさに存在性が知性の中に刻印されているのかどうか。ただ名前だけがある唯名論ですかね。実在なしに名前だけがあるという。ガブリエルについても、ハイデガーの批判というのが彼の中では大きくウエイトを占めていて、ハイデガーが存在と言いながら、存在者を神のように扱ってしまっているということを非常に批判的に捉えている。知性のところ、アリストテレスの実在(実有)感覚として、存在感覚としてなにか永遠なるものがあるという感覚。感覚としてそういうものがあるという世界と、われわれ現代人の感覚、それがないというか失われた、それが非常にアリストテレスの、ぼくも理解しずらい部分がある。まあ知性ですよね、知性が独立して存在するということが神的なとこから来るのだということが、ぼく自身も感覚として持っていないということが、もうひとつよく理解できないなぁというところです。

 うーん、一つだけ言っておくと、彼がハイデガーを批判する感覚はわかる。ドイツで「黒いノート」というのが発見されて、それはハイデガーが戦時中に作ったもので、それを読むと、前から暴露されていたけど、いまやますます「黒いノート」のなかでヒトラーとハイデガーの深い関係が読み取れる。現代ヨーロッパの中では「黒いノート」を巡って知的にも政治的にも激震状態にある。それがためにガブリエルはハイデガーをものすごく批判するのだけれど、ぼくに言わせてみると逆方向の批判だね。むしろハイデガーが存在を語りながら、なぜ神の存在を語らなかったか。彼は存在を、ガブリエルがいうように神秘化するところがあるのだけれど、それはそこで終わって神の問題に一切触れてこない。わたしはそこに大きな限界を感じている。それらの諸問題が現代ヨーロッパの思想状況にどういう大きな意味をもたらすのかを含めてどこかでまた議論したいところ。

 

 Wkさん、どうですか。

[ Wk ] 意見というのはないのですが、今のお話を聞いていて、セロトニンによって覇気を高めるという話、要は心というものを物質に還元できるのかどうかという話。あとZoomでのオンラインコミュニケーションとリアルコミュニケーションは違うということ。なんとなく漠然とそうだと思っているのですが、心とかコミュニケーションをデジタルに還元できるのかどうかということなどとても興味深いです。どうやらアリストテレスはこの五感の詳細な分析に基づいて、そのあたりを哲学的に解明してくれるのではないかと楽しみにしています。

 まずセロトニンと覇気の関係でいうと、アリストテレスもそれは感じているんですよね。ただ条件がある。それは病的であるかそうでないかということ。覇気が、人為的に薬物を入れることによって生まれることもあるけれど、それは本当に人間の生活の中で自然的に起きるものであるかどうかというのが大きな問題なんだと。
 わたしたちが考えているのは病的な事柄ではなく、自然的に多くの場合に生じる事柄を自然的現象として分析しようということ。問題はそれを病的といえるかどうか。みんながセロトニンを常習すると言ったら、どちらが正常かわけが分からなくなるかどうか。そこは論証を超えた人間理解でしかないんだろうなと。自然に放置した段階で、覇気をもたらすときには人間関係のあり方に大きな問題があるということに即して分析しましょうということの有効性を考えてみる必要がある。

 それから覇気の問題にもかかわるけど、そういうふうに人間を掻き立てていく、たとえば戦争に掻き立てていく、危機的なものに掻き立てていく原動力が国家の、あるいは会社の巨大な組織の問題に関わってくるので、巨大な組織自体が人為的で幻想的でフィクションのような存在であったとすれば大きな問題ですが、そこはアリストテレスの考え方は、国家なり会社なりはnatural、フュシスの産物だと言ってる。
 ところがそういっても、自然科学を用いてつくるのではなく、人間の霊魂の自然本性的な産物という言い方をする。人間が集団になったときに、確かハラリが50年前に認知革命が起きて150人以上の組織ができて、それが国家を作る前提になっていると言っている。つまり150人以上を組織化するときに必要なものはなにかというと、人間の自然本性に内在するバランス感覚ね、利他の利得というものをバランスよく配分するときに発揮される心的傾向だと。これはだれに教えられることもなく人間の中に自然本性的にビルトインされている大きな性向である。つまりエートス、心の傾きであると。
 となれば、この心の傾きによる自然本性的な行為は、人間が意識として行なったのだから作為と言ってもいいけども、同時に万人において見られる傾向的な方向性だと。だから国家は自然本性的なもののひとつである。

 もうひとつの彼の大きな説明原理は、人間が物を作るときにだれしもこの世の中にないものを作る能力がある。これを能動的知性とか創造的知性というけれど、これまでにない存在物を作るという知性が人間には自然本性的に与えられている。となれば国家、あるいは企業というものも、放っておいたら絶対できないものを、一つの正義感に掻き立てられて人為的であり同時に自然本性的な作品として作ったものだということになれば、これは作為的、人為的であると同時に自然本性的なものであり、人類はそれを抜きには一日なりとも存在できない。というふうにアリストテレスは説明しているんじゃないか。

 だから人類が、文明が成立して以降、国家ないし国家的現象抜きに持続的生活を保持して来た時期は一度たりともない。廃止しようとしても人間は国家を廃止することすらできない。そういうもの。だからハラリの人為的なものという言い方自身が非常に狭い。これは丸山眞男以来の大きな負の遺産というものがあって、人為・作為と自然というものを2つに分けてしまっていることとも関連するんですよ。
 そうではない。人間がやったことは、すべて人為的な作品ですよ。だけども、万人において傾向的に見られる、避けがたい「作品」なんですよね。これが国家なんです。企業なんです。こういうものとしてみれば、誰でもが簡単に廃棄できるようなものではない。それがアリストテレスの国家論なんです。

[ Sb ] 自然本性的な面と人為的な面がある意味で絡み合っている。そのへんはなんとなくわかります。

 その理解が完全に欠落してるのが中世なんですよ。オッカムがそうですね。人間の本性が全部人為的なものになっている。たしかに人為的な部分もあるのだけども、ほとんど万人において選択しなければいけない不可避の性向としての傾向性がそこにある。これが人間にとっての自然本性。だから国家抜きに人間の正義も現実化しない。
 あと東洋と西洋の異同、これはわたしの永遠のテーマでもあるから、またどこかで議論したいのだけれど、それは重なると同時に根本的に違っていると感じますね。東洋思想といってもものすごくたくさんある。たとえば仏教的な心身一如と儒教的心身一如とぜんぜん違うんですよ、わたしの理解では。そこはゆっくり時間をかけて、また。(第5回講義終わり)

《2022年2月12日》


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