荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 5-2

  

 

では、冒頭の部分でかなり時間を取ってしまいましたが、続けて。
 
 従って、我々は、考察の出発点を定め、霊魂の有るものと霊魂を持たないものとを、「生きている」(注2)という点において区別することから始めよう。ただし、「生きている」ということも多様に語られるので、以下のものの一つでも、そのものに内在するならば、我々はそれを「生きている」というのである。すなわち「直知<ヌース(洞察知)>、感覚<アイステーシス>、場所的な静止と運動、養育<プロフェー>に基づく運動変化、すなわち衰退と成長である(注3)。
 それゆえにまた「育成しているもの」はすべて「生きている」ものと考えられているのである。というのは、育成するものは、自分自身のうちに相対立する方向へ、成長したり衰退したりする能力と根元を持っていることが明らかであるから。すなわち一方で上方に成長することがなく、他方で、下方にも成長することがなく、等しく両方の方へ、またあらゆる方向に成長し、常に育成が可能な限りは育成し、ずっと生き続ける限りそのように成長する。
 
 「霊魂とはなにか」という根源的問題に入っていくときに注意喚起しておきたいのは、この「生きる」「生きている」についてです。注を見てみましょう。
 
(注2)この「生きている(ゼーン=ゾーの不定詞、名詞はゾーエー)」という言葉は、現在進行形に訳す場合と「生きること・生」と訳す場合とニュアンスを異にする。アリストテレスにおいては、存在は、時間的に持続しているもの、であるからである。「ト・ティ・エーン・エイナイ」に登場する「エーン」は、過去の動作の継続(在りつつあったもの)を示している。アリストテレスおいては、存在、生は、働きにあるもの、在りつつあるもの、生きているもの、であった。
 
 これ、非常に難しい問題で、生きているという言葉をどう理解するかという根源的問題。わたしたちは「生」といって感覚的にわかった気持ちになっているけれど、実は生きている<ゼーン、ゾー>というのは難しい事柄で、現在生きているということは、アリストテレス的にいうと「かつて生きていたし、今も生きているから、われわれは生きているのだ」となる。こういう意味を含み込めてこのゼーンという言葉を使いましょうということ。現在進行系と過去進行形が一体になっている意味が表現されていると書き加えています。

 こう考えてみると、生きているということはどういうことか。構成要素的にいうと、1)直知、2)感覚、3)場所的な静止と運動、4)養育に基づく運動、生命の自己育成、自己養育と言ってもいいかもしれない。つまり、衰退と成長を繰り返すことそのものが、われわれが「生きている」ということです。
 これまで何度も出てきた言葉で言えば生命とは「動的平衡」。だから生命現象はサイエンスの力で摘出できるけれど、動的平衡自体をサイエンスで表現はできない。つまりここは動的な衰退と成長そのものを言っているわけだから、サイエンスで生命を捉えることは不可能だとなってくる。

で、(注3)。
 
 ここで、人間の知性とAIの知性の根本的相違が語られている。さらに人間知性が生きている知性である、という基本視点から、AIと人間知性の有意義な連携も導かれるであろう。
 
 つまりAIは自ら育成しない。自ら衰退・成長しない。そして感覚しない。感覚「のようなもの」はあるけど、感覚そのものがビビッドに動いていない。そしてヌースもないでしょう。そういうことをわかったうえでなら、AIと人間知性の有意義な連携も導かれるだろうと思いますが。

 なんとなくイメージはできたでしょうか。

[ Ng ] ひとつ、育成という言葉が非常にひっかかる。育成というのは他動詞。この場合は「育ち成り行くもの」というイメージで育成するものといいたいのだろうけど、育成するというのは、たとえば稲を育成するとか、山を育成する……。育成しているのは農夫なんですよ。素直に読めば。だからこの訳文はやめたほうがいいのでは。

 やめたほうがいいかなあ。これは本当は自己育成という言い方をしたい。

[ Ng ] それならまだわかる。でも日本語としてあまりよくはない。

 だから、日本語を変えたいと思っている。

[ Ng ] この本(講談社学術文庫『心とは何か』)は「生長する」って書いていますね。

 生長では、自ら物質代謝をして自分で自分を育てていくというニュアンスが落ちちゃうんですよ。

[ Ng ] そうでもないと思うな。生きて長らえるんだから。

 それは人による語感の違いかな。やっぱり自己育成にしたい。つまりものを吸収して育つ、後で出てくるけど、栄養がものすごく大事なんです。ものを食べて取り込んでエネルギーにして大きくなってゆき、その力が弱まるにつれ衰退していく。そういうものが生命、生きているということなんだとアリストテレスは言いたいわけ。単なる成長ではアリストテレスの力点がぼやけていく。

[ Ng ] 成長ではないんですよ。生長。

 う〜ん、まあ、それはちょっと考えます。たとえば、幸福という言葉も、「幸福する」っていう使い方が日本語にないからね。でも、ギリシャ語には「幸福する」「幸せする」っていう動詞があるんです。エウダイモネオー、エウダイモノーかな。ギリシャ語は動詞と名刺が一体となって出てくるんだよね。それだけ動的な表現にしたいということ。幸福はじっと待っていればどこかから出てくるものではない。自分で幸福という運動を作り上げる。これが幸福。トートロジーなんだけれど、そういう世界を表現したい。やはり自己育成ぐらいの感じかな……。

 では、次に。
 
 さて、この育成する能力が、他の能力から切り離されるということは可能なことであるが、死すべきものにおいては、他の諸能力はこの能力から切り離されることはあり得ないことである。この点は、育成するもの(植物)の場合についてみれば、明かなことである。というのは、植物には、霊魂の他の能力は何一つ備わっていないからである。 
 従ってまた、「生きている<ゼーン>」ということは、諸々の生命体<ゾーン>においては、この根元によって存在しているのである。
 しかしながら、他方で、この生命体<ゾーン>は第一に、感覚によって存在している(注4)。 実際、我々は、運動もせず、場所を変えることもせず、ただ感覚だけは持っているものを、ただ「生きている<ゼーン>」というだけでなく、生命体<ト・ゾーン>(動物)と言っている。

 しかしながら、諸々の感覚の中で、全ての生命体(動物)に第一義的に備わっているものは、触覚である。そしてあたかも養育力<スレプティコン(threptikon)>が触覚やその他の感覚から切り離されるように、触覚も他の感覚から切り離されうるのである。ここで我々が養育力と言うのは、育成するもの(植物)が共有しているような、霊魂の部分である。また生命体(動物)のすべてが、接触的な感覚をもっているように思われる。しかしこれら二つの能力も各々がどのような原因によって成立しているかは、後に述べることとしよう。

 さて、目下のところは、以下のような点が述べられたとしよう。すなわち霊魂は、上述の働きの根元であり、またそれらによって、すなわち養育力、感覚力、知力<ディアノエーティコス>、運動力によって規定されるのである。しかしこれらの各々が、霊魂であるのか、それとも霊魂の一部分であるのか、そしてもし部分であるとすれば、それが一部分として分離されるのは、言<ロゴス>という観点からだけなのか、それとも場所という観点からも切り離されるということなのか。霊魂のこれらの能力の若干のものについては、見て理解することも困難ではないが、或る能力については、難問を抱えている。
 
 ここでは触覚がものすごく大事だと述べているんですね。 
「しかしながら、諸々の感覚の中で、全ての生命体(動物)に第一義的に備わっているものは、触覚である」。感覚というのがものすごく重要な、規定的意味を持つと言っている。
 
「そしてあたかも養育力<スレプティコン(threptikon)>が触覚やその他の感覚から切り離されるように、触覚も他の感覚から切り離されうるのである」。つまり、感覚自体が同時に一体的に働く場合もあるし、それぞれが別個に存在する可能性もあるといっているわけですね。それぞれの感覚を切り離すことができる。
 
「ここで我々が養育力と言うのは、育成するもの(植物)が共有しているような、霊魂の部分である。また生命体(動物)のすべてが、接触的な感覚をもっているように思われる」。そういう話になってきて、一応生命体は基本的には触覚的感覚を持っていると述べて、
 
「すなわち霊魂は、上述の働きの根元であり、またそれらによって、すなわち養育力、感覚力、知力<ディアノエーティコス>、運動力によって規定されるのである」という。霊魂はこれまでのさまざまな働きの根元<アルケー>である。また霊魂というものも、これらさまざまな働きによって規定される。定義されていくものだと言っていいと思いますが、
 
「しかしこれらの各々が、霊魂であるのか、それとも霊魂の一部分であるのか、そしてもし部分であるとすれば、それが一部分として分離されるのは、言<ロゴス>という観点からだけなのか、それとも場所という観点からも切り離されるということなのか」。ものすごく入り組んでて、なんでこんな七面倒臭いことをいうのかというと、感覚、まあ触覚とか視覚とか、いろんな感覚が出てくる。人間の場合、それはかなり統合的に働く場合もあるけれど、触覚しか持っていないものもある。しかし、合体して働く場合、人間がものを認識するときには触ったり見たりする。それは結合しているけれど、それは本当は全部が分離しているのか、それとも場所的に分離しているだけなのか、あるいはロゴスという観点から分離するというのか。この表現は非常に難しくて理解が困難。

 われわれがものを見るときに、一体でありながら分析的に「もの」を見る。これを概念的に見るといいますね。概念的に見たら視覚と触覚は分離できるが実際はほぼ同時に並行的に行われる。でも概念的には区別することができるだろうという理解を、ロゴス的に見るといっている。普通の場合は、よく考えればそれぞれの感覚を区別して理解することはできるのだけれど、
 
「或る能力については、難問を抱えている」。この或る能力とはなにかというと、知力なんです。人間の知性というのは肉体から分離するのか分離しないのか。この問題はその後、人類を長い間悩ましている、たとえばオカルティックなところまで行ってしまうと、幽体離脱とか……。あるいはプラトンの考え方からいうと肉体を牢獄と考えて、知性は肉体の中にあるのだけど、まったく分離した働きをするとか、死によって人間が初めて解放されるとかいうような(『パイドン』参照)、「心身一如」といえるのかいえないのか、そういう根本問題にひっかかってくる。こういう問題をこれからやりましょうというわけです。いまそういう面白いところに差し掛かっています。

 では、つづけて。
 
 すなわち、植物の内の若干のものは、切断され、さらに互いに切り離されても、明らかに生きているように見えるものがあり、このことは、切断された部分に内在する霊魂が、一方、そのそれぞれの植物においては、完全志向態という観点において一つでありながら、他方、能力においては複数であることを示すものであり、このようなことは、霊魂のその他の種類においても生起するものであることを、我々は、有節動物(昆虫?有櫛動物ではないか?)の切断された部分において観察することができるのである。
 
 ある種の動物を切断したときに切断された部分もしばらく動いている。その動きをよく観察すると、何かをやりたいということでは一致している。脚を切断しても前に行こうとするとか。切断された方も切断した方も。ということで運動の方向性はひとつなんだけれど、違うやり方で実現しようとしているという言い方をしている。だから霊魂というのは、身体全体で一つという場合の考え方もあるし、切断された部分の中にも霊魂が存在し、生きていて運動することもあるだろうと述べている。

 たとえば、植物だと接ぎ木なんかそうですね。木を切って、切り口を土に埋めておくと同じように根と葉が出てくる。そういう意味で、植物において完成志向態、生長していくという点において一つのものがあり、生きているのだと。そうなると植物の魂とか霊魂というのはどこにあるのかわからない。それぞれの部分に全部含まれている。人間でいったらあたかもかつて問題になったSTAP細胞みたいなものですよね。どの部分であっても、その部分の培養をして行ったら完全体が実現できるような遺伝子が含みこまれている。そういうことをアリストテレスは植物においてすでに言っている。昆虫(有櫛類? 有節類は植物?)の中でもそれを見ることができる。
 そうなると一体霊魂は全体として存在しているのか部分として存在しているのか、これが大きな問題になるだろうという話ですね。まあ現在のSTAP細胞の可能性を含めているっていえるかどうか(笑)もちろんわかりませんけれど。少なくとも植物はそういう可能性がある。

では、もうすこし。
 
 事実これらの切断された部分の各々は、感覚も持っており、また場所的な運動もすることができるし、また感覚を持っているならば、形象<ファンタシアー>も欲求<オレキシス>も持っている。そして感覚があるところ、苦痛も快楽も在り、それらが在る所には、必然的に欲望も存在するからである。
 しかしながら、直知<ヌース>と観(想)的諸力<テオーレーティケー・ディナミス>に関しては、まだ何も明らかになっていない。しかし、これらの知性能力は、霊魂の中でも別の種類のものであって、あたかも永遠なるもの<アイディオン>が、滅びゆくもの<フサルトン>から切り離されるように、この能力だけが切り離されうるものであるように思われる。(注5) しかしながら、霊魂の他の部分は、以上に述べたことから明らかなように、或る人々が言っているような、他から切り離されうるものである、というものではない。ただし、これらの部分も、言<ロゴス>の観点からは、別のものであることは明らかなことである。実際、感覚することと臆見することとは異なっているように、感覚的な能力は、臆見的能力と異なっているように思われる。しかしこの点は、上述した他の諸能力においても同様である。
 
 この文章は極めて理解が困難で難しい。しかし非常に重要な人間の霊魂の能力を語っています。要するに直知とか観想知というものと別の運動的な感覚ですよね。特に五感といわれるものは、身体と一体となっているわけですね。身体と切り離して感覚だけが動くということは絶対ありえない。ところがヌースや観想、これは前に話しましたがまったく別のものであって、あたかも永遠なるもの<アイディオン>が滅びゆくものから切り離されているように、この能力だけが切り離されるものであるように思われます。
 この「切り離す」、コリトーというギリシャ語、離在するという訳が多いのですが、非常に理解困難で、注の5を見てください。
 
 この箇所で言及される「切り離すχωριζω」「離在する」という語は理解困難な部分をもっている。あとで言及されるが、人間の知性ヌース、観的能力は、身体と一体で働きながら、言<ロゴス>的には区別される存在であり、この世においては、一体不分離で存在しながら、身体が衰滅したあとでも、存在するという。それはその働きが永遠なものに関与する機能を持つゆえに、その知性の存在そのものも永遠性を帯びる、と主張する。この点はさらに詳細な論及が必要であろうが、具体物からその形相を抽象し、いくつかの抽象から、その全体を統括し、さらなる抽象を繰り返し、真実の存在に至らんとする知的営為は、「永遠なるもの」と関わる知性活動と言えるのではないだろうか。
 
 これは今回新しく付け加えた注です。アリストテレスはその後、特に第3巻の重要な部分で人間の知性、ヌースの働きは離在すると語っている。コリストンという形容詞、離在するという言い方になっている。何故かと言うと、人間の知性というのは、日々刻々移り変わっていく感覚的なものを超えた能力を有するからだと。

 ではそれはなにかというと、具体的には「抽象する」ということです。抽象するとは、パッと具体的なものを見たときにその個別的側面を超えた普遍的な側面を見るという力です。私の顔を見たとき、荒木勝とわかるだけでなく人間であると直感できる。なぜできるかといえば、人間という抽象的な存在性を知ることができるから。具体的な肌の色とか、音声の働きだとか、そういうものを超えて荒木勝がこの世の中に具体的なものとしては何一つ存在しない「人間」であるということを直感できる。
 人間というのは、抽象的なものですよね。ではまったく抽象的かというと、具体的個別的な姿かたちを通して、われわれを人間として存在させているものがあるり、それを抽象物と呼ぶわけですが。抽象物はたんなる概念、人間が名をつけた抽象名詞、たんなるコミュニケーション的な言葉を超えた、「人間というカタチで存在する」抽象的な存在とアリストテレスは考えている。それこそまさに永遠なるものだと。そういうものを人間知性によって理解することができる。ということは翻っていうと、人間の身体という日々刻々移り変わっていく存在から離れた機能を持つわけだから、その離れた機能を持つ主体というのは永遠なるものでないといけないだろうと推測した。
 ここがアリストテレスの『霊魂論』を読む場合に最も重要な、肝になる部分です。

[ Fr ] よろしいですか。その「永遠なるもの」という手前で気になっているのは、この講義に出させていただいていて、この講義参加者の数名の方とは直接お会いしたことがありますが、過半の人とは直接お会いしたことがない。で、いまこういうコミュニケーションをしていますよね。しかし、ここで語られている触覚とかはZoom上ではすごく使いにくい。もし実際にみなさんと3時間ご一緒したら、五感でもっと触れ合えるはず。初めてあった方でもですね。Zoomではありえない嗅覚とか触覚も含めて。Zoomではただ映像を見ているだけ。音も聞いてますけど、直接空気で伝わってくる音と、電話と同じですけれど他に媒介される音との差はどうなのか。
 何が気になっているか。霊魂の、さっきの「永遠」という話のなかに、永遠というとつい時間の永遠という理解をしてしまうけれど、そういう永遠性だけでなく、まさに離在、この講義の参加者たちはお互いに離れてるから離在しているわけですよね。住む場所も違って、12人で会話している。これは、霊魂があるから会話ができているのかなあ(笑)と。それがこの間、10分も20分も気になっていて。先生や皆さんがどんな感じを持っているか。

 今の古田さんの言わんとする所は非常に重要だけれど、大きな問題を含んでいるので、順を追って少しずつ話しさせてください。
 

 
 自己再生能力の話からしましょう。今年、バラの茎をもらって、それを植えたら根が出て芽が出てきて大きくなってきた。だから植物細胞の中にはどの部分であっても植物的霊魂が入っていて、そこから自己育成して再生する能力がある。これが生命力だとアリストテレスはここで言いたいわけですよね

[ Ng ] それはよく分かるけど、昆虫の脚なんていくら大事にしても再生しないですよ。

 これ、どうしてアリストテレスがそんなことを書いたのか調べなおす必要があるね。なにか実際に見たんでしょう。

[ It ] タコとかミミズとかならあるじゃない。自己再生。いわゆる節足動物とか。

 その節足動物じゃないかな。あるいは「有櫛動物」。プラナリアだっけ? 自己再生能力があるか科学的に解明されていないのけど、人間におけるIPS細胞ね、自己再生能力を持つことにつながっていく。いずれにせよ生命の根元はそこにあるんだと言いたいのでしょう。

 しかもさっきの古田さんの話に立ち戻って、つなげていうと、この「永遠なるもの」という意味は、われわれの頭の中では永遠なるものとはなんだか抽象的で存在性の薄いものだという感覚があると思うけれど、彼の「永遠なるもの」というのは、それとはまったく逆に「永遠に存在しているもの」という強い感覚なんだよね。それがゆえに、特にヨーロッパ人にとって、この感覚は神の感覚に近い。

 なぜかというと、旧約聖書に出てくるけど、モーゼが神に会ったときに、モーゼが神にあなたの名前を聞かせてほしいと懇願するのだけれど、そのとき神が言った言葉は英語ではI am who I am. 我は有りてあるものだと。ヘブライ語ではイェヘイエ・アッシャル・イェヘイエ。非常に難しい動詞だけれど、ヘブライ語では現在分詞なんですよね。現在分詞なんだけれど、それは時制を超えた現在分詞だと説明されている。だから「私はかつて有ったし、今も有るし、将来も有る」そういう存在者なんだという非常に有名な文章があって、これ現代語では翻訳不能と言われている。そういう存在感覚がアリストテレスの中にも登場する。これが永遠なるもの、アイディオンという言葉だと思うけれど、それはもう一方で、人間同士が感覚・感得するものだという感覚があるんですね。それはさっきFrさんが言った、お互いが見合ったり触ったり、相互に聞いたり、それらを通して心の中からわたしたちは本当に存在するものを引き出す。だからここは抽象するという。
 この抽象という言葉も、これまでわれわれの語感の中では抽象芸術とか抽象物とかというふうに使ってきた。たとえば三角形は抽象物。あるいは抽象絵画は非常に幾何学的な文様で描かれますよね。つまり現実のこの世の中には何ひとつないけれども、普遍的なものとして知る。しかし、そういう普遍性とも違う。それを考えなくてはならない。それは具体的な存在物から知性<ヌース>を通して引き出してくるものだと。こういう感覚をアリストテレスは表現したいわけです。
 だからZoomを通してのコミュニケーションでは、到底到達することのできないものだということ。人間の持っている感覚、音声、視覚などなどは、確かに情報産業が発達してかなりの部分代替できるといわれているけれども、それは部分的なものでしかない。それをこれから触覚、聴覚、嗅覚、視覚、それぞれの具体的感覚の展開の分析を通して語っていく。そのアリストテレスの語り方が実にサイエンス的で見事な分析だと思うのです。

[ Ng ] 注5で疑問だけれど、これは切り離す、コリストンの注釈だけれど、それをわかりやすくするために「抽象」と置き換えてみたということ?

 そういうこと。抽象という言葉も本当はabstractね。アブストラクティオというラテン語から来ていると補足したほうがいいかもしれない。なぜならアブストラクト自体が切り離すという意味だから。切り離して取り出すという意味を含んでいるので、抽象論になるけど言語的な説明を加えたほうがいいかもしれない。

[ Ak ] テクストにある「或る人々が言っているような」の或る人、これはプラトンのことを指しているのですか? プラトンのイデア論を批判している?

 そうですね。実は当時のギリシャ世界でも霊魂ってなんなんだという大論争があった。霊魂は「もの」ではないのかと。「霊魂物質説」みたいなね。で、唯物論になっていくんだけど。それとは違って、霊魂は身体的なもの、物的なものではない、それは肉体から切り離すことができるのだという説。むしろ切り離したほうが純粋な霊魂の働きができるのだという。これを推し進めていったのがプラトンやプラトン派の人々。だから「肉体は霊魂の牢獄だ」という表現になっていく。

 でもアリストテレスはそうじゃない。むしろ霊魂は身体と結合することによってはじめて人間的な霊魂の働きが可能になる。そういう意味ではプラトン的要素、つまり肉体的なものと霊魂的なものがあるんだというところでは一致するんだけど、それが分離して働くもの、異質なものとアリストテレスは思っていない。肉体的なものと霊魂的なものが相互に密接に協力し合うような形で働くのだというのがアリストテレスたる所以です。
 この話は、また第3巻の創造的知性、あるいは能動的知性というところで十分に展開されていますので、そこで話をすることにしましょう。
 
 さらに、諸々の生命体の中でも、若干のものには、これらの能力がすべて備わっているが、これらの能力の若干の部分だけが備わっているものもあり、またたった一つの能力しか備わっていないものもある。(この点が生命体の差異を創り出すのである。)しかし、どのような原因によって、そのようになるのか、は後に考察しなければならない。感覚についても同じようなことが生じている。すなわち、全ての感覚を持つものもあれば、若干の感覚しか持たないものもあり、ただ一つの、必要不可欠のもの、すなわち触覚しかもたないものもある。

 さて、我々は、何かに基づいて我々がものを知っているという場合のように、何かにもとづいて生きており、また感覚しているが、それは2重の意味において語られるものである(すなわち、我々は、一方では知識<エピステーメー>に基づいて、他方では霊魂に基づいて、これら二つの内のどちらかに基づいて、知っている、と言っている)。  

 これと同様に、われわれが健康である場合、一方では健康そのもの(の知識)に基づいて語り、他方では、身体の一定の部分、もしくは身体全体に基づいて語るが、これらの内の一方の、知識と健康は、範型<モルフェー>であり、何らかの形相<エイドス>であり、また言<ロゴス>であり(注6)、いわばそれらを受け入れるものの活動態<エネルゲイアー>(注7)であり、一方、知識は、知識を獲得しうるものの現実態であり、他方、健康は、健康になりうるものの活動態である(なぜなら、ものを創出しうるものの活動態は、受容しうるもの、秩序づけられるものの内に生じるように思われるからである)。

 そして霊魂とは、我々が生き、感覚し、知を働かせる第一の原因となるものであり。従って、それはある種の言<ロゴス>であり、形相<ロゴス>であって、決して素材<フュレー>ではなく、基体<ヒポケイメノン>ではないであろう。
 というのは、すでに我々が言及したように、実有<ウーシアー>は三重の意味において語られており、その内の一つは形相<エイドス>であり、もう一つは素材<フュレー>であり、他の一つはこれらの二つの合成体であり、これらのうち、素材は可能態<デュナミス>であり、形相は完成志向態<エンテレケイアー>であり(注8)、両者から合成されたものが、霊魂を有するものである以上、身体は霊魂の完成志向態ではなく、霊魂こそがある種の身体の完成志向態なのである。
 それゆえ霊魂は、身体なしには存在しないが、しかしある種の身体ではないと考える人は、正しく判断しているのである。

 確かに霊魂は身体ではないが、身体にとっての何かであり、それゆえに身体の中に備わっているのであるが、しかし特定の在り方の身体の中に存在しているのである(注9)。しかしそれは、先人たちが考えたようにではない。というのは、先人たちは、身体の中に霊魂を嵌め込んだだけであって、何の中に、どの様に存在しているかについて、如何なる追加的な規定を与えなかったからである。任意のものが任意のものを受容するというようには見えないからである。

 この点は、言<ロゴス>の観点から見てもそうである。実際それぞれのものの完成志向態は、それぞれの可能態の内にあって、その固有の素材の内に自然本性的に生じるようになっているからである。(注10)
 こうして霊魂は、以上に述べたように、そのようなものであり得る能力を持つものの、ある種の完成志向態であり、言(ロゴス・根元)であるということは明らかなことである。
 
 非常に入り組んだ難しい表現ですけど、重要なことを言っている。わからないところはどんどん質問してもらいたいけど、私が一言で要約すると、人間の霊魂は身体と相即不離に存在している、これは明らかなこと。身体を離れて霊魂はない。霊魂を離れて身体はない。ではなにかといえば、身体を通して自分が自己完成を遂げようとする形で存在する。だから完成志向態なんです。しかもこれは「完全実現態」という訳がいっぱいあるのだけれど、なんかスタティックに留まっているものではなくて、人間が人間である以上は人間の知性を完成させようとする志向をつねに内にはらんだ形で、肉体を使ってそれを実現させようとするものなんです。こういう言い方が彼の霊魂論なんですね。だから身体と霊魂は一体不二なんだけれど、むしろ一体不二という形を通して自己完成を遂げていく原動力になるもの。これが人間の霊魂である。結論的に言えばそういうことだけど。

[ Ng ] 霊魂に基づいて知っている、というのはどういう意味ですか。2段落目の下。

 これは難しいところなのでわたしの説明も明確にして置かなければいけないけど、わたしたちがものを知るというときに、2通りの言い方ができる。それは、1)具体的な知識と、それを知ったときの知識内容、2)その知識内容を受け入れるもの。受容体と言ったほうがいいかもしれない。

 感覚というものを考えてみると、感覚する主体と、感覚を受ける主体(受容体)があるように、物を知るときには知る主体、まあこれは知識ということになるけれど、知る知識と、その知識を受け入れる受容体がある。こういう区別をアリストテレスはするんだよね。たとえばある人の姿を見て、たとえば母なら母だとか、父なら父だと知る。そういう働きが、知性を発する働きといっていいでしょう。そして知性の発する働きがあって、それを魂全体の中で受け入れる作用がある。感覚する主体と、感覚を受ける受容体。その全体を通して、わたしたちは「ものを感覚する」という、アリストテレス独特の考え方ですね。
 まあ個々の説明は次回。これは重要な知性論・感覚論の問題なので、こんど整理して改めて説明したいと思います。

[ Ak ] その下の方の段落で「そして霊魂とは、我々が生き、感覚し、知を働かせる第一の原因となるものであり。従って、それはある種の言<ロゴス>であり、形相<ロゴス>であって、決して素材<フュレー>ではなく、基体<ヒポケイメノン>ではないであろう」とあります。ここは非常にわかりにくい。形相<ロゴス>といった後の形相は<エイドス>となっていたり、用語の整理が私にはうまくできなくて。

 後の文章を読んでももらうとわかると思うけど、霊魂と身体は一体不可分で、霊魂と身体を一体として我々は人間というだろうと。そうすると、身体との関係でいうと、霊魂は身体の形相に当たるもの。形相というのは、質料と一体となって人間という存在を表現しているから、身体の動きそのものを通してあることがら、つまり生きるという働きを行っていく。その働きを行っていくときのある種の司令塔が霊魂なわけ。その司令塔のことを、ここでは「形相」といっている。
 で、司令塔の司令の中身がロゴスなわけですよ。人間はかならずロゴスという知的な命令によって身体を動かしているから。だからある種のロゴスだと。知性活動だからね。ということは実際われわれが知性活動を行って身体を動かしているから、結局霊魂というのは人間の生きる最初の原因であるという。つまり、魂が死んでしまったら、人間の身体が生きていたとしても、それを生きているとは言わないということ。だから、肉体だけ生かすような技術があるけれど……。

[ Ak ] 脳死みたいな状態?

 それは、アリストテレスの定義によれば、わかりやすくいうと人間として存在しないということ。まあ、脳死が死なのかというのは……。

[ Ak ] まあ、そこは、いろんな議論が。

 わかりやすい例としてね。それに近い事柄が、この2〜3行で言いたいこと。あと、永井さんが指摘してくれたところは、もうちょっと複雑なところがある。霊魂がわれわれを生かす第一の原因なんだけれど、原因として作用するときの人間が知性を発揮するときですら、どうやって人間が知性を発揮するかというと、ある知性に基づいて働くと考えている。だからある種の知性に基づいて働くという意味で、知識に基づいて、つまりエピステーメーに基づいて、わたしたち人間は知性活動をする。これが最初の火付け役なんですよ。最初の火付け役が知識なんだけれど、火がついて動かすものが霊魂。だから二重構造になっているわけ。人間がものを動かすときには、二重構造になっていて、知識の世界でまず火が付き、火がついた知識に基づいて霊魂を動かして、その霊魂が身体を動かす。そういう構造なんだな。

[ Ak ] 一回読んだだけでは到底わからない、これ。

 でも、だいたいは分かる?

[ Ak ] いまの先生の説明を聞いてなんとなくですが。

 知性→霊魂→身体なんだよ。そういうふうに単純に言ったほうがわかりやすいかもしれない。だから知性というのを独立して考えていくと、知性が、エピステーメーが最初の火付け役。火をつけられたエピステーメーが働き始めるときには霊魂という知性の受容体を動かしている。そして知性的な受容体を動かしていることによって身体を動かしていく。

[ Ng ] そうかな。霊魂のほうが根源的なんじゃないか? たとえば触覚しかない植物なんかは知性はないけど霊魂はある。

 そうだよ。だから根元は霊魂なんだけれど、人間においてはあくまでもエピステーメー。エピステーメーが霊魂を動かすというのが人間独特の動かし方だといっている。これは非常に重要なことをいっているのだけれど、ここの後半のところ、
 
「これと同様に、われわれが健康である場合、一方では健康そのもの(の知識)に基づいて語り、他方では、身体の一定の部分、もしくは身体全体に基づいて語るが、これらの内の一方の、知識と健康は、範型<モルフェー>であり、何らかの形相<エイドス>であり、また言<ロゴス>であり(注6)、いわばそれらを受け入れるものの活動態<エネルゲイアー>(注7)であり、一方、知識は、知識を獲得しうるものの現実態」とある。この知識を獲得しうるものというのが霊魂なんです。
 
 だからなかなか感覚的にはわからないけれど、知識を獲得しうるものの現実態が知識だから、知識が火付け役の「火」なんですよ。その火によって燃えたものが霊魂であって、霊魂が燃えることによって身体を燃やす。こういう構造を表現したかったのではないか。

 注の8。
 
「形相は完成志向態<エンテレケイアー>であり、」とありますね。つまり人間というのは、質料と形相でいったら、質料(素材)は身体で、形相は霊魂、その合体が人間。それを彼が存在論的にどのように語っているかというと——。
 
「実有<ウーシアー>は三重の意味において語られており」とありますね。われわれが存在しているものは何かというと3重の網がある。形相であり、素材であり、その合成体だと。素材はデュナミスであり、形相は完全志向態。完全なるものを実現しようとするパワーですね。形相であり、人間においては霊魂である。
 で、人間の霊魂のなかでも、その大きな火付け役が知識であろうと。そういう話ですね。(つづく)

《2022年2月12日》


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