荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 5-1

 

 どこまで理解していただけたかはともかく、第2巻第1章のところは講義を終えたことにして、第2章に入りたいと思います。この冒頭部分の数行も、難しい問題が噴出していますが、話を進めたい。

 それでは、
 
 さて、朦朧としてはいるが、眼に一層よく見える事柄から出発すれば、明晰に、言<ロゴス>に基づいて一層良く認識できるものがもたらされるのであるから、改めて霊魂についても、このような仕方で吟味することに取り掛かるべきであろう。事実、大抵の定義が表現しているように、ものを定義する言<ロゴス(ものの存在を洞察する知性的言表)>は、然々の事柄の事実性を明らかにするだけではなく、その原因を含みこみ、それを明確に表すものでなければならない。
 
 最初の2〜3行を解説すると、朦朧としているというのははっきりしていないということ。このあとの明晰にということの反対語としてアリストテレスが語っている言葉ですね。曖昧模糊とかでもいい。でも「眼には一層良く見える事柄」というものもあるだろう。まずは人間の感覚、視覚において、その一層良く見える事柄から出発して人間は認識していくのだと。
 そして、さらに明晰に言<ロゴス>に基づいて一層良く認識できるものがもたらされるから、霊魂についてもこれらの仕方で吟味しようとするべきだと述べる。
 この言い方自体が、アリストテレスの思考方法として、人間の感覚的認識からはじめようと、そういう宣言をしているわけです。

 さらに続いて言っているのが、それは「なんである」とわたしたちが規定するより信用できるものとして「定義」という表現が出てくるのですが、ものを定義する言は、もろもろの言葉の事実性を明らかにするだけでなく、その原因を含みこみ、それを明確に表すものでなければならない。そういう言い方になっています。
 しかし現実には諸々の定義というものは、結論だけに終わっている。で、そこへ行く前に、
 
 たとえば、「(長方形の)正方形化」とは何か。この問いに対して、「(与えられた)長方形に(面積において)等しい正方形」というならば、このような定義は、結果だけを述べる言表である。これに対して、「正方形化」とは、与えられた長方形の二辺の中間を発見することという言表は、原因を述べている。
 
 定義とは何かということをイメージしようという。そうすると現にユークリッド幾何学のなかで、こういう定義の仕方があるのだけれど、ある図形、たとえば長方形を取り出して、その長方形が正方形でと同じであるというのはどういうことか。それを問題にする。
 正方形は結果として与えられるものがあったとすると、長方形と正方形とは面積において同じだと。そういう定義だとすれば、これも定義とすればそう言えないことはないけれど、それではどうやったら正方形を作ることができるのかという問いに答えていないだろう。
 どうやって正方形を作れるかといったら、長方形が与えられているとすれば、その辺を測り中間の長さがわかった段階で、正方形を作ることができると。だから与えられた長方形の2辺の中間の長さを発見することが正方形の定義だと、そういう例を出している。

 わたしたちがものを定義するとき、そのものを生み出す原点を含みこんだものでないと定義できないと言っている。それをさらに形而上学第5巻やいろんな所で述べているのだけど、原因を4つに分けて、われわれはそのものがいったい何であるかと考えたときに、4つの構成部分があるだろうとする。
 ひとつは何によって生み出されてきたのか。それからどういう素材を用いているのか、そしてどんな目的で作られているのか。特に人間の作った存在物は、人間はどんな場合でも目的なしにものを作ることはありえないので、まず大事なのはどういう目的でそれを作ったのか、そしてその目的が継続しなければいけない。継続するときにものの、自然物でいえば形、生命体でいえば生命、そういった「形相」をきちっと含みこんだものでないと、原因というものを考えることはできない。
 したがってものを分析・分解して、「〜からできている」「〜から構成されている」というのはものの定義ではない。
 とくに人間社会を大きく揺り動かしてきた国家の定義が混乱しているのも、原因というものをきちんとわかっていないからだとアリストテレスは断定している。

 ちなみに、わが国の近代から現代にかけての国家の定義を注釈にいくつか挙げておきましたが( 1.近代的な社会契約説 2. 有機体説 3. 法人説 4. 家族・氏族国家観 5. 社会学国家定義(人民、国土、主権、政府・行政体から成る構成体))、これ以降のニコマコス倫理学にしても、霊魂論にしても人間の生活にとって最も重要な要素となっている国家について、もし間違った定義があれば大きな混乱が生じるだろう。そういうことであえて取り上げています。

 人類史の中で、考えるに値する国家定義を挙げています。近代的な社会契約説、それから有機体説、法人説、家族・氏族国家観、社会学定義としての人民、国土、主権、政府・行政体から成る構成体、等の定義が国家に与えられています。
 どれも、このような定義では、国家を正しく定義することにならない。そうアリストテレスは見ている。

 アリストテレスの国家の定義は何かと言うと、政治学第1巻第1章の冒頭で出てくる言葉ですが、自然本性的な市民的政治的共同体<ポリティケー・コイノニーア>という有名な規定があって、人類はこの一行にいろんな意味で縛られている。非常に大きな誤解、誤読がこの一行にあてられているので、若干それを訂正しておきますと、国家をアリストテレスは自然本性的と表現する。

 そして国家は、どういう自然本性を持ったものかというと、「正」を志向するというパワー、つまり正義への志向性をもっている共同体である。そしてその共同体の担い手はポリィティケー・コイノニーア、つまり市民的な人間が集まった社会だと。こういう規定ですね。

 そこにはいろんな意味が込められていて、目的としては「正」を志向する。正義という目的を持つ。質料因として大事な事柄は、それを実現する人間からできているということ。そして起動因もまたその人間の中から「正」を実現しようとするリーダー、それが含みこまれていないとならない。そしてそれが一定程度持続性を持たねばならない。その持続性とは正、正義が貫徹しないと国家は定義できないこと。

 ところが社会契約説では、非常に重要なことは、個人が自己利益を持って契約するもの、それで生み出されたものが国家だと。そこに社会契約が入ってるけれど、正義というものが明確に語られていない。あくまでも自己利益の相互確認。それが本当に「正」なのかは問わないという問題がある。近代的社会契約論のもう一つの問題が個人に限定されているということ。ところが国家は個人が実際にでかけていって約束するというのはほとんどの歴史的現象からいってありえない。ある共同体の代表者、氏族や家族の代表者が集まって談合して一致して国家を作ろうとする。要するに社会契約する担い手は個人に限定する必要はない。社会契約説は歴史的な事実性を帯びていないと、その非歴史性が批判されてきた。

 もう一点の大きな問題は、仮に個人が社会契約を結んでいたとしても、その個人が必ず個人的な利益だけを志向するかという問題がある。それは個人を、人間をどう考えるかということに非常に深く関わることで、人間は個人の利益と同時に、共同的な利益も代弁するのだとも言える。そういう人間存在における個人利益志向と共同利益志向の両方をわたしたちは見ていかなければならない。これが社会契約論に対するアリストテレス的な観点からの批判です。

 それで、有機体説とはなにかというと、人間の作った共同体は、その担い手が平等な能力をもっているわけではない。非常に優れた統治能力のある人、あるいは身体でしか働かない人、つまり人間の持っている能力の優劣に基づいて構築されてきた生命体として国家を考えてきたわけですね。この生命体にはいろんな説があって、動物そのものに比する場合もあるし、フィクションとしての人間の共同体、しかしそれは能力において大きな差がある。そういう形で考えていく有機体説もある。

 いずれにしてもそこで大きな問題になるのは、人間が自由で平等な存在であるということが十分に主張されない可能性がある。そこで多くの場合、この有機体説に基づいて王権説が弁証させられたり、あるいは2、3の超優秀な人間が国家を指揮していくという寡頭政治的な国家体制が合理化されたり、いろいろな問題が出てきます。

 それから国家法人説。これは国家の行為というのはすべて法的に約束された規定の上で行われているというもの。法的に規定されているというのは、あたかも会社が商法上の会社規定によって、会社があたかも一個の人間であるかのごとく動いているのと同じように、法人として規定されたうえで動いている。ですから与えられたものがすべて法的に動くので、ある種の合理性を持ち、構成員の何らかの同意を得ているけれども、自由に動くというのではなく法人の規定の範囲内で動くという考えですね。

 それから家族的国家観とはまさに有機体的国家観の一つの具体例として、家族が一つの有機体として、頭は父親であり、子どもたちが手足であり、指先は奴隷たちであるというような国家を一つの家族として定義しようというもの。

 さらに近現代的な国家論として、人民・国土・主権・行政体、そういうものから成り立っている国家。これは要するに分解しただけで、これを本当に動かしていくエネルギー、志向性の担い手が明確ではない。そして、どういう原理でこの4つの部分がまとまって動くかということも明確ではない。それが社会学的国家論の大きな性格です。そういう形でものの定義を行ってきた。そうではない。本当の原因というものを含みこんだ総合的な規定でないと、国家や他のものの定義をすることはできませんという発言を彼はしているのです。

 ここで皆さんの質問なり感想なりを。

[ Mt ] 定義というのはアリストテレスの考えるところ、いくつかある因、これを全部含まないといけない、そうでないとだめだと?

 だめというよりも不十分だと。本当に生きた定義とするならば。わたしたちがものを見るときに、これは私独特の言い方だけれど、人間は言葉によってそれを定義しますよね。そして、言葉によって定義するときに、ロゴスという光によってものを裁断するわけです。だから定義には時間的な観念がほとんどなくなっている。ものを見たときに「これはこうだ」と言ってしまう。そのときロゴスによって日々イキイキとして動いている現象を裁断して取り出すわけですね。その取り出し方として、その4つの原因というものが含みこまれるような形の定義、これを求めなさいと。
 ただし、人間がやることですから、うまく含みこまれるような定義というのは土台無理なんですよね。アリストテレスによっても。なので、定義一つひとつがある種の仮説性を帯びる。でも、ある程度安定的な定義がないと、わたしたちは集団的な合意すらできないわけで、だから定義というものが求められると。ただしその定義の中には、それを生み出す力、因が何であるかということが含みこまれているものでないと、定義の名に値しない。

 この因、原因ということ、定義ということ自身が、アンティオンというギリシャ語、あるいはラテン語でコースというのですが、このアンティオンをどう訳すかですら、これでいいかどうかという議論があるわけです。これを辛うじて、漢字の「原(もと)を因(な)す」という訳を与えたのだと思いますけれど、まあ当たらずとも遠からずの翻訳として使ってきています。
 だから「原因とはなにか」とか「定義とはなにか」というときには、よほど頭の片隅にこれは仮説的なものなのだと、そして同時に、その中にも上位のものがあって、それらの定義の中に必ずその現象を引き起こしていく最大の原因が含みこまれていないと定義として役に立たないという話なんです。

[ Mt ] その場合、ロゴスというのは能力か、それとも行動なのか。どういうふうにロゴスというものを捉えたらいいのか。

 ロゴスは4ページ注(6)をみてほしい。
 
 繰り返すことになるが、言(ロゴス)とは、そのラディカル・センスにおいて、「真実を志向する、バランスの取れた、コミュニケーション的知性」ということになる。言語、説明、理性、ことわり、根拠、祈り、比例、等を意味するロゴス理解はアリストテレス理解の最も重要な基礎概念である。古代ギリシャ人においては、ある種の言霊信仰のような理解も存在したのであろう。ラテン語では、ラティオ(ratio)、ヴェルブム(verbum)と訳される。従ってバランスの取れた感性もまたロゴスと呼ばれる。従ってアリストテレスにおいては、理性と感性は、相互浸透的な側面を有するものでもあった。
 
 ロゴスというのは、日本語訳では多くの場合「理性」ですよね。あるいは時に「知性」と訳される。おそらくアリストテレスのロゴス概念は非常に豊かなもので、根本的な意味は、「真実を志向する、バランスの取れた、コミュニケーション的知性」という長ったらしい説明をしないとロゴスという言葉のもっている豊かさを表現できないという思いがあってこんな説明になった。
 実際に英語の辞書を開くと、言語、説明、理性、ことわり、根拠、祈り、比例、等を意味するロゴス理解があるんですね。こういう訳語がいくつも出てくる。
「古代ギリシャ人においては、ある種の言霊信仰のような理解も存在したのであろう」とも。中国でも、言葉によって人を殺すとか、そういうものもありますけれどね。

「ラテン語では、ラティオ(ratio)、ヴェルブム(verbum)と訳される」。だから聖書の中でヨハネの福音書に「はじめにロゴスありき」とありますよね。それはヴェルブムという訳なんですね。だから言葉と、人間の理性、知性というものは渾然一体としているもので、言語は単なる音声の羅列とか、あるいは伝統的に継承された構造的体系とされているけれど、わたしに言わせればそれはスタティックで、仮にそうだとしても、それを常に内部から作り変えていく働きがロゴスにはある。だからコミュニケーション的知性という。ロゴスは単なる「言語」というわけでもないのです。従ってバランスの取れた感性もまたロゴスと呼ばれる。霊魂論の中で、音のハーモニーによって伝わってくる波動はロゴスだと言っている。そのときには感性すなわちロゴスになる。

「従ってアリストテレスにおいては、理性と感性は、相互浸透的な側面を有するものでもあった」。だからカントの哲学、近代哲学は大体そうですが、感性と理性を別物と考えているけれど、アリストテレスの世界では感性と理性はつながっている面があるんです。そういう意味でロゴスはじつに豊かな言葉なんですね。

 だからロゴスは時々「知性の光」という言い方にもなって、人間が物を見るときに発する知性の光が相互にぶつかり合って一つの領界を確立するとか、一つのものを見るときにも、ものから発する光と、人間が発する知性の光がぶつかりあって、一つのものの像が形成される。そういう理解にもなる。
 これは近代的な理解と異なっていて、カントによると、ものの理解は人間の知性の構成物ですよね。そうではないんです。人間の知性の構成物ではなくて、人間の知性の光と「もの」から発する光が合体したところの像、これがアリストテレスのものの理解なんですね。

 そうするとその場合、どうやって人間が知性の光を発するかと言うと、当然ものに対する好き嫌いとか、感性的な動員力が伴ってくるわけです。「見たい」という欲求と結びついてくる知性というのは、人間にとって非常に根源的な働きですよね。だから人間の場合、欲求と理性が結びついて出てくるわけです。
 この人間のロゴス理解、あるいは知性理解が、西洋でも東洋でも哲学上のもっとも重要でもっとも困難な問題なんですよ。だからカントは『純粋理性批判』で、そこが混乱していると思って、純粋な理性の能力の範囲を決めておこうしてと本を書いた。

[ Ak ] 質問が2点あるのですが、本文5行目の「事実性」、これは「いっそうよく見える事柄」というふうに理解していいですか。

 事実性というのは、そのものの存在ですよ。

[ Ak ] それは目に見える?

 目に見えるし、感得される。感じられる。

[ Ak ] あと、注釈(1)のところで、荒木先生は国家の話を追加されたのですが、家とか車、前回の講義のときに『ミリンダ王の問い』の話をされましたが、それと同じ話ですよね。タイヤがすなわち車ではない、柱が家ではない。それのもっと高度なものが国家だと?

 これは It さんに聞いたほうがいいけど、車の定義とはなんなのか。結構難しいんじゃないですか。

[ It ] いや、車は簡単だと思いますよ。走る曲がる止まるの3つの要素があるもの。

[ Ak ] 人間もそうではないか?(笑)

[ It ] 車の基本機能はそれですよね。そこに快適なキャビンがどうのこうのとか、デザインは後のことで……。

 走る曲がる止まるなら、馬車だって同じじゃないかな。

[ It ] 馬という原動力がついていればね。

 ならば、「何らかの原動機がついた、走る曲がる止まるという基本機能を有するもの」となるね。

[ It ] もちろん自動車というのは自分で動くものですから。原動力、燃料がなければ動かない。

 そうなってくると、走る曲がる止まるというのは、働きの中核を示しているので定義が成り立ちますよね。そうすると、タイヤひとつであろうとそういう機能を持っていれば、それを車と呼んでいいのか。

[ It ] タイヤに限らずとも、キャタピラでもいいし、ホバークラフトみたいに空中に浮いていてもいい。ドローンだって基本的には同じですよね。

 そういう意味で、働きの中心のところが表現されればとりあえず十分な規定ということになる。でもいちばん大事なのは、その機能の中核が表現されているかということ。国家を例に取ると、国家の働きの中核はなにかということ。それは国土でも、権力でもない。それは「国民に正義の状態を確保すること」というのが、アリストテレスの国家規定になるわけ。それ以外は付属物だと。
 そうなるともっと大きな問題が出てくる。では正義とは一体何だと。それは個人的利益の総合なのかという重要かつ複雑な問題になってくる。そういう意味で原因というものを考えていきましょうということ。

[ Ng ] この注1の文の構造がよくわかんないんだけど、最初に定義には原因を含んでいる必要があるとあって、起動因、質料因、目的因、形相因と4つに分けた。で、後半では、国家の定義に話が及んでいって、アリストテレスの国家の定義が端的に、自然本性的な市民的政治的共同体と教えてくれたわけだけど、これと、上に挙げた4つの原因とはどういうふうに対応するのか。自然本性的なというのは形相因なのか目的因なのか。市民的というのが質料因なのか。せっかく4つに分けたのに、アリストテレスの国家論の説明にこの4つの原因が指摘されていないから、この注全体がよく理解できない。

 ここで説明が抜けているのは、国家においては、この4つの原因というのがどう当てはまっていくのかということ。これは重要な指摘なので追加することにします。
 たとえば国家という点を取ると、土地とか存在物としての人民とか、それから行政体とか、そういうものは質料因。目的因とはなにかというと正義。形相因は、この正義を実現しようとする法体系、大きくいえば正義と言ってもいいのだけれど、より立体的・構造的意味でいうと法体系。それから起動因は、正義を実現しようとする人、つまりリーダー、指導者。これが国家に即していうところの4原因、ということになります。だからこそ国家を作った指導者、日本で言えば聖徳太子みたいなものが、最高の起動因的存在者ということになります。 

[ Ng ] ではその4つの要素が、この短い文章の中に漏れることなく含まれていると理解していいわけですか?

 そう。

[ Mt ] そのことに関していうと、亡命政府というのがありますよね。それは本来、国家であるのかないのか。

 アリストテレス的に言えば、潜在的国家ですよね。

[ MT ] 国家ではないけれど、国家になりうるものと?

 そういうこと。だから亡命国家を作って、彼らが戻ってきたときに質量因と合体して国家リーダーたちになっていく。国家の政府になっていく。だからそれは非常に重要な行為です。だから韓国でも、近現代史に「万歳事件」というのが出てきますよね。1919年に起こった、三・一事件とも呼ばれる––––。韓国併合の後に韓国人が蜂起して上海に亡命政府を作るんです。それに対して日本は今ではなんの意味もないと言ってますけどね。だけどわたしに言わせてみれば、それは潜在的な国家建設の要因ですよね。その時点で国家が存立したとは言えないけれど、それはすでに潜在的な国家ですよ。

[ MT ] もう一つ。目的因というのがありますが、おそらく日本と中国は国家としての目的因が違うはずですよね。だとすると、どちらの国家を正しいと考えるべきなのか。それは正しい正しくないの問題ではなく、目的因が違うのだから両立すべきと考えるのかどうか。

 国家としての目的因が違うというのは、どういう意味で?

[ Mt ] 日本と中国は、国家の目的因が違うように思えて仕方がない。たとえば中国を非難する意味ではないけれど、船をどんどん作って南シナ海に進出するようなことをしていますけれど、日本はそういうことはしないですよね。

 ああ、はいはい。

[ Mt ] 私は、多分中国は、アヘン戦争みたいな悲惨なことになりたくないので、国家防衛を第一義においてるのだろうと。日本の場合はそこまで考えてはいない。アメリカと中国も違いますよね。政治学者ではないのでよくわからないけれど、アメリカの場合個人の自由を非常に重視する。中国の場合は政府が大事。政権が大事で、それが崩れたら中国の独立は保てないと考えている。いま世界がぶつかり合っている問題。ではその「正」はどこにあるのか。

 わたしがいま考えていることだけを申し上げると、アメリカは本当に自由ということだけを追求する国家なのかとまず考える必要がある。自由だけなら国家としては成り立たない。自由を志向する人たちが一つの秩序を存立させなければいけませんよね。自由人同士が生きていけるような秩序とは何かというのがアメリカの正義だと思う。
 中国だって、人民がいないと政府ができないのだから、政府の価値だけで生きているわけではなく、人民の幸せ、最近なら共同富裕みたいな……。だけどわたしたちの実感としては、やりすぎで困ると。ここで重要なのが、中華民族という言葉。習近平たちがずっと言っている。いま我々中国の国家の目的はなにかというと中華民族の復興だという。中華民族とはなにかという、中華とはなにかという根本命題に入っていく。その理解が相互にきちっとされれば、わたしたちはそこで協議して世界的な秩序のありかたを探ることができるんじゃないか。
 アメリカも中国も、どちらも一方が全体主義、もう一方が個人主義と分けられないということですよ。どちらも個人的であり全体的である。全体的秩序がないとやっていけない。その歩み寄りをどう図るか。私は人間がロゴス的存在だとすればそれは可能なんじゃないかなと思っています。中国でも、国連に加盟するし国連の価値は否定できないはずです。アメリカ合衆国もそう。そこでどの程度妥協できるのか。合意できるのか。それこそ徹底的に議論すべきです。

[ Fr ] ちょっと頭が混乱気味なので確認したいのだけれど、アリストテレス的にいうと国家の目的因と形相因の差をもういちど教えてください。

 国家の目的因は国家を作る目的。それはここでいう正義です。で、形相因というのはそのものが持続するための価値。

[ Fr ] 制度ではなく価値。そういうものを価値として感じる思想のようなものですか。

 そうですね。思想体系と言ってもよいかもしれない。よく「国のかたち」というでしょう。それに相当するものが国家の形相ですよ。それは不正確な言葉かもしれませんが、憲法的なものですよね。アメリカ合衆国の憲法とか、イングランドの憲法にあたるものがそれですよ。

[ Fr ] アメリカの場合は、憲法がそれを体現していると。でも、先程のMtさんとの議論の続きでいうと、中国は憲法にそれが形相因としてあるというよりは、中華思想とか中華民族とは何かというところに形相因を持っている。そういう理解でいいのでしょうか。

 それだけではなくて、ある種の体系性を持ったものが中国の形相なので、もちろん中華民族というのも大きな形相因の一つではあるけれど、それをどう実現するかという持続的な思想体系がある。現在のところ、それは中華人民共和国憲法でしょうけれど、その中に共産党が国家を指導するという非常に重要な形相因が入っています。
 だから中国がやることは国内においては共産党の指導がすべて形相因の中に入り込んでいる。それとは違うと批判をされても、まあ国内においてはなんの意味もないと。しかし、それは本当に人類が培ってきた正義の概念に妥当するかという問題は残っているとわたしは思う。本当に一党が一国を指導できるということを憲法上に書き込んでいいのか。
 中国の場合はおそらく2000年にわたって外国から辱めを受けた時期があった。その時期を克服するために中国共産党は非常に功績があった。それで、この国を中国共産党に任せたほうがいいと国民が了解したのだから中国の現在の形相因にしましょうと、そういう話になっているんじゃないかな。しかしそれは非常に大きな矛盾をはらんでいるだろうというのがわたしの見解です。

[ Fr ] その形相因でいうと、中国共産党はマルクス・レーニン主義と口では言ってみてもさほど深くは考えていなくて、それより中華思想とか中華民族がいかにあるべきかということを上位概念においているように見える。共産党そのものの思想体系は何という議論になるかもしれないが、形相因というのがだんだん宇宙の彼方に消えていってしまうような、ロゴスとして言表できない、そういう部分を今の中国に感じます。

 そうはいっても人間とはすべて自主独立のロゴスを持っている存在なので、どこかでその矛盾を自覚して整理していくという時期がかならず来るとわたしは思う。そのとき中国の中で非常に深刻な矛盾が摘出されてくるんじゃないかな。(5-2へつづく)

《2022年2月12日》


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