荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 4-2

 

 芸術の世界で言うと、ミケランジェロの「ピエタ」の最後の像を見たときに、非常に造形的には不完全、しかし–––。

[ Mt ] それはミラノの?

 そう。造形的には不完全だけれどそこに彼はなにかあるものを表現した。そういうものに近いのかもしれない。そこには不完全だけれど極めて普遍的で個性的な世界がある。だから当然「ト・ティ・エーン・エイナイ」として問わざるを得ない。そういうものがウーシアではないか。

[ Fr ] たとえば類的存在という言葉はマルクス経済学の人は大好きだった。この画面に12人の方たちが写っているけれど、各々個別の方だし、個性豊かな人たちだと思うのですが、でも同じ人間だものねというのも感じる。そういうことを普通に感じることも……。

 そうです。パッと見て普通に人間だと感じる、さらに言えば日本人的、知的なものも含めて類的なものだと直感する。

[ Fr ] たまたま話題が先生を囲んだ『霊魂論』ということで、類が濃くなるというか、もちろん頭の中では「明日何しよう」とか考えているかもしれないけれど、遠目に見ても類的存在と感じるし、そういうことを自然に感じるということで理解すればいいのか。ウーシアという用語として、そういうものが含まれていると。

 まずはそうですね。万人に共通の要素が本当にあるのだとまず感じる。ただ、Mtさんの問いの続きをすれば、万人に共通のものがあると言っても、並の仕方ではなくて、人間的世界においては徹底的に個的なものとしてあるということ。そこがむずかしいけど肝心。つまりもっと極論を言うと、マルクスの類的存在というのは多くの場合「量」に還元されてしまう。だから彼の経済学は時間の単位を人間の労働力の基準として統一化しますよね、彼の学問の大きな限界は質的な違いを差し引いてみんな類的な存在に還元できるとしてしまったところにある。

 人間は類的存在であると同時に、なおかつ個的な存在であると言わなければならなかった。そうするとどういう問題が生じてくるかといえば、では個的な違いも重要だということであれば、それをどうすればいいのかという難問に直面してしまう。量的なものを扱う経済学だけでは済まされなくなってしまう。だからマルクスの学問はどうしても経済学の世界を学問として超えられない側面が残ってしまう。ここで申し上げたいのは、本当に存在するものは何かということを整理していくことが、わたしたちがものを考えるときに最も重要な出発点だということです。そこで道を誤ると大変なことになる。人間の通常の理性では解き難いものは解き難いものとしておかなければいけないだろう。

[ It ] もうちょっと類にこだわりたいのだけれど、私はこの類を直感的に見たときに相似性みたいなものでくくられる言葉かと思ったのです。たとえばフラクタルみたいな概念。一つ人に個性があったとしても、それを全体としてくくる相似性があるものを類と呼ぶ、そう私は理解していたけど、今までの議論を聞いているとだんだん分からなくなってきた(笑)。

 その「相似性」という言葉の意味、それは「似ているもの」でしょ。

[ It ] 共通する概念があるもの、ですね。

 では逆に言うと、共通していないところもあるということだよね。

[ It ] この12人が、共通していない部分と共通している部分があるのと同じように、両方を併合した相似性というか。

 それはわたしたちが今存在している世界ですよね。

[ It ] それを「類」と呼ぶのかと最初私は理解した。もともとが「ゲノス」だからねえ。

 ゲノスの意味は、「産む」という意味なんだよね。

[ It ] ゲノムですものね

 ゲノムというのは、たとえば人間が人間を産むこと。ゲネシスという。産むこと、生殖行為。だから人間から人間が産まれる。そうつながっていく共通的なものが、もともとのゲノス。それには相似性も含まれる。

[ Ng ] 荒木さん。この注釈(5)の論理展開がつかめないのだけれど。ここで荒木さんはウーシアーについて注を書いたわけですよね。そこで『形而上学』を踏まえてと言っている。すると『形而上学』に1〜4の説明が挙がっているのですね。

 そうです。

[ Ng ] そこで「ウーシアーは、とりわけ、第一に、ヒポケイメノンと考えられている」とアリストテレスが言っているわけですね。

 そうそう。

 [ Ng ] ここでも「とりわけ第一に」と断っているように、普通は一般的にそう取られているけれども、アリストテレスはちょっと待てよ、という意味なんですね。

 そう。

[ Ng ] その次の「ヒポケイメノン自体は〜3つの意味を持っている」とあるんだけど、これもアリストテレスの要約なんですか。

 要約です。いま形而上学の正確な箇所は示せませんけれど、おそらく形而上学の第7巻じゃなかったかな。第7巻にかなり細かい整理があります。

[ Ng ] というと、この注5は全体が形而上学第7巻の要約であると理解していいのですか。そうすると、荒木さんが加えたというよりも……。

 そんな独創性はないんですよ、誰にも。ほとんどすべてのことがアリストテレスによって語られているとわたしは思いますね。

[ Ng ] で、本文に戻ってわからないところがあります。「さて、実有とは〜素材としてのそれであり」とありますね。素材として実有があるということがありうるのか。素材だけなら実有とは言えないのでは。

 ウーシアーという概念が広いので……。たとえば砂、ここに砂があるとは言える。

[ Ng ] なるほど、つまりアリストテレスがウーシアーのあるものはフューレーとして存在していると言っているのではなくて、一般にそういう言葉遣いをされているということですね。

 そうそう。

[ Ng ] アリストテレス的にはあくまでも「そして第3に」というところが言いたいのですね。

 それだけではないんですよ。多くの場合は形相と質料から成り立っているものが、わたしたちが普通ウーシアー、存在しているものということだろうと。ただ、普通はそう言われているけれど、本当に存在しているものはそういうものだけではないと言っている。

[ Ng ] どこで?

 どこでというか、ここでは1〜4を紹介しているけれど、形而上学の第7巻ね、ウーシアーという言葉を多義的に用いて、多様な意味を持つということを述べている。だからウーシアーという言葉は内容の豊かな言葉だけれど、あまりに多義的だから、便宜上ウーシアーという言葉をつけましょうと言っているのです。

[ Mt ] 質問があるのですが、ウーシアー、つまり実有というのは心理学でいうと構成概念、こういうものが存在したら説明がしやすいということで、構成概念に近いと思うのですが、構成概念は実際に実有、存在するものとして取り扱えるのか。それとも別のものか。構成概念ですから、素材としては一切関係ないですよね。

 ウーシアーは構成概念ではないですよ。

[ Mt ] え?

[ Ng ] 構成概念とまったく対立するものではないか。

 構成概念というのは、人間が頭の中で、いわばでっち上げた、一つのコンセプトですよね。ウーシアーはそういうものではないとアリストテレスは言ってる。

[ Mt ] 重要な話ですね。

 最も重要な話。構成概念というコンセプトの考え方自身が、きわめて近代哲学的な考え方で、この世の中は漠然としていて、無秩序なのを整理するために頭の中で整理しましょうというのが構成概念でしょう。ウーシアー、実有は構成概念ではない。むしろ逆の立場。構成概念ができる根拠にはなりますが。

[ Sb ] 質問です。『サピエンス全史』を書いたハラリは、国家だとか宗教だとか、そういうものを挙げて、それはほとんど実在しないものだという。フィクションだと。それらはウーシアーではないと。国家とか宗教とか、信念だとか制度ですね。そういったものは人間が頭の中で考え出したものだから、フィクションだと彼は言ってる。それはフュレーもエイドスもないのかな。ウーシアーもない。それでいいのですか。

 違うんです。だから皆さんの腑に落ちないのかなあと思える良い質問です。ここまでの説明はそれとして、このあと、霊魂論の第3巻に行かないといけないけれど、そこでアリストテレスは「ただし、人間のヌース、知性の中には、これまで存在しなかったものを創造する力がある」と語っている。そのことによって、新しいものを創造することができると。

 たとえば、先に紹介した仏教のナーガセーナ長老とギリシャのメナンドロス王が対話した『ミリンダ王の問い』。そのなかで、王が乗ってきた馬車を持ち出して、馬車が本当に在るなら、どれが馬車なのか言ってみろと長老が問う。で、実際にこれだと示したのだけど、長老に見せることができたのは馬車の部分でしかないわけです。「それは車軸だ」「それは車輪だ」とか長老は言う。本当の馬車を見せてくれと言われても馬車そのものを見せることができない。そこで、馬車はこの世に存在しないという結論を出してしまう。

 つまり、馬車というのは人間がコンセプトを作って、自然には存在しない車輪とか軸を組み立てて構想を作ったわけです。人間が頭の中で構想したものに基づいて素材を用いて作った。ということは、構想自体が想像したものなんですよ。構想力を用いて素材を合体して作ったものが馬車である。厳密には違うけれど、国家にしても宗教にしても、人間が話をしながら頭の中で合意して構築していった、新しい存在物だという考え方なんです。この議論は目の前にある世界をどう見るかという話だけれど、さらにその上に人間の知性独自の働きがあると考えられる。あらゆるものを作り出す力が人間にはある。だから国家も宗教も存在しているとアリストテレスは考えている。そしてそのコンセプトに基づいて、たとえば馬車ならいろんな自然物を合体させて作る。国家は一つの制度を作る。制度を動かすために議事堂とかさまざまな物体的なものを作りますよね。だから国会的存在物というような形で国家は客観的にも存在する。

 さらに重要なことは国家とか宗教とか、一旦作っただけではなく動かさないとすぐ死んでしまう。つまり生きた人間の知的な活動体として作られている。そういうものとして存在している。だから誤解を恐れずに言えば、それは准生命体ですよね。動いていないと国家は死滅してしまう。

 日本の伝統文化の中で、大きくて無視できないのが神々の世界。特に神道の世界。それは今日のわたしたちにとって大きくいって2つの意味がある。その一つは天皇制に関わるような国家神道の変異性というものに大きな影響を受けていることです。

 国家神道的なものをどう考えるか。従来、国家神道的なものは普通は日常生活に影響を与えていない。多くの庶民といわれる人たちは、仏教とか神道とか、儒教とかと何らかの形で関わっている。わたしは岡山に来て痛感するのだけれど、黒住教とか金光教とかがすごく大きな生活上の影響を与えていると思っています。しかも戦前の場合は、大本教がありましたよね。大本教の出発点に関わるのが金光教なんですよ。いわゆる在家神道、民間神道といわれるものの意味が戦前は非常に大きかったし、戦後も関わりがあった。最も顕著なのが祭祀、お祭がそうでしょう。時と場合によってお祭が政治的な問題と関わってきて、信教の自由を巡る論争にもなっている。そういう観点から言っても、現代の社会において神道的世界は大きな意味を持っている。その原型が民間神道、天理教と金光教なんじゃないか。それがいろんな形で動き、社会や人々に影響を与えている。

 少し話の色合いが違うけれど、仏教ですら神仏習合になっているものだから、そういう世界がいっぱいあって、わたしの同僚の大学の理事をした人が、表面的には東大の理3を出て合理性そのものの行動をするんだけど、土日はお遍路巡りをやっている。わたしも自分の悩みを鎮めて精神のバランスをとるために、ぜひお遍路巡りをやってくださいといわれて困ったことがあった。つまり、これらはわたしの身のまわりの人々にとっても大きな宗教的意味があるわけです。もういちど問い返すことが避けがたくなっている。

 ***

 ––––では、本題に戻ります。もう一度私の言葉でなぞりますと、
 
 さて、実有(ウーシアー)とは、諸々の在るもののうちの一つの類いであると我々は語っているが〜
 
 ここまでは、よいですね。確認してください。
 
 この実有の或るものは、素材(フュレー=質料)としてのそれであり、これはそれ自体としてはまだこれこれの或るものではない。
 
 フュレー、質料とも訳されますけれど、存在するものの中に素材があるのは当然ですよね。家で言えばレンガであったり木材であったり瓦であったり––––。そのような素材がある。人間であれば肉体ですね。
 
 しかしまた別のものは、範型(モルフェー)であり、形相(エイドス=形成相)であり、
 
 なんでそんな事をいうかといえば、瓦一つとってその素材だけ見せられても、瓦という機能を発揮させなければそれが何だかわからない。木材でも同じ。何かの「形」の中で示されないとならない。そういうものです。その他のものが何かと言うと、範型(モルフェー)という難しい訳をあてましたけど、これを普通は形相(エイドス)といいます。これを形相となぜ書いたか。形相は英語ではform(形)と訳されるけど、もともとの意味は形成するものなんですね。家が家として成り立つもの、理念みたいなものです。
 
 これらに基づいて、直ちにこれこれのものといわれる。
 
 たとえば荒木だったら、荒木という肉体と、いろんなことを喋っている魂、この両方が合体して荒木という人間が認識されるわけで、物質的にいえ人間は3か月経てば全部細胞が入れ変わるわけだから、3か月前のわたしと今のわたしはまったく違うわけです。でもそれを荒木として持続させているのは、同一の内容らしきものを持続して語っているから、みなさん荒木として認識してくれているわけです。それをわたしたちは形相と呼ぼうと。

 もう一つ別の観点からそのことが出てきます。
 
 また素材とは能・力(デュナミス)であるが、形相(エイドス)は完成志向態(エンテレケイアー)であり、1. またこのものは二重の在り方をしている。すなわち一方では(知の所持としての)知識(エピステーメー)であり、他方では、(知の働きとしての)観ずること(テオーレイン)そのものである。
 
 ここから、後半のほうを少しだけ説明します。たとえば人間を例に取ると、人間の力というのは具体的には肉体的なものを通して発揮される。たとえば運動能力とか。では知能はどうかというと、いま流行りの脳の力ですよね。脳という物質、物体的なものがものがないと発揮できない。だから素材としては脳とか身体とかが能・力としてある。

 ところが人間を例に取ると、魂を形相と見ている。魂と肉体が合体しないと人間が生きているとはいえない。では魂をどう考えたらいいかといえば、能・力ということの対比でいうと「完成志向態」です。これ、他に訳しようがないのだけれど、原語はエンテレケイアというギリシャ語なんです。それがたとえば講談社学術文庫の訳では「終局態」、それから岩波とか中畑さんの訳だと「現実態」となっている。これらも日本語として完成していない。岩波の全集を読むと終局態と現実態を一緒にして「終局現実態」。ほんとにこれは困りもの。両方とも何か違うんじゃないか。だから、完成を目指して働こうという状態ということで「完成志向態」という新しい訳を作りました。

 ちなみにエンテレケイアのエン(en)というのは英語でinのこと、テレイアとはテロス、つまり完成、目的などという意味。完成することを目的として動いていることをエンテレケイアと呼ぶのです。では魂は人間の中でどういう働きをするかといえば、これは知識を蓄えているところ、ギリシャ語でエピステーメーという言い方をするけれど、ただ単に知識を蓄えていくだけでなく、その知識を使ってものを見ることを行う。見て考える。つまり働く(動作する)こと。人間の魂には2つの能力というか働きがある。一つは知識を蓄える事。そして、その知識を働かせること。

 注釈を読ませてもらいます。
 
 この完成志向態と訳した原語は、エンテレケイア(entelexeia)、語意は、テロス(完成・目的)へと向かう、という意味である。しばしば完成態、現実態、完全実現態、と訳されてきた。そこから、作品として完成された状態にあるもの、という理解も生まれる(ハイデガー)。
 
 たとえば芸術作品、これは人間の精神のエンテレケイアだという言い方ができる。なぜかというと芸術的な理解を具体的に外に形にして表現したひとつの完成体が芸術作品ですからね。そういう形で使われることがある。
 
 アリストテレスの存在認識を、優れて個体存在優位として理解されることになるのであろう。
 
 どういうことかというと、人間はものを見て何かを感じ、それに反応して、壊すにせよ新しいものを作るにせよ、何かをするわけです。そして一つのものを作り出す。その行為は、行為だけで終わるのではなく一つのものを新しく作ってしまう。作ってしまったものを完成現実態にあるという。そういうふうに、特にハイデガー的には理解される。
 
 これが、アリストテレスの存在認識を、優れて個体存在優位として理解されることになるのであろう。そもそも完成、あるいは完全志向態(エンテレケイアー)の関連語のエネルゲイアーを現実態と訳すとき、
 
 このエネルゲイアもen+argonという造語から来た言葉で、活動状態にあることを示しています。
 
 現実に存在した姿・制作物として理解する可能性が生じるが、原義は働き、活動に中にある姿を表現しているのであり、活動態と訳すのが適切であろう。
 
 つまり、わたしたちがこの世の中で見るすべてのものは静止していない。止まっているわけではない。重要なのは、生命体すべてに確かにいえるのは動いているということなのです。そんな動いているということを表現する言葉としてのエネルゲイア。そして、それらは無目的に動くわけではなく、なにか方向性を持って生命体として動いている。生命体はすべて、花を咲かせ実をつけるとか、身体的に完成して子どもを作って死ぬとか、つまり何らかの目的を持って存在しているわけです。だから、完全なものを志向しようとする状態で動いていることは、人間を含め生命体の本質的なあり方だろうと言える。

 だから「動的平衡」という言い方も、ある面でエンテレケイアということを、福岡氏なりの言い方で訳し変えたものではないか。生命体はすべて動的な平衡状態に達しようとするものなのだと。
 そうすると生命というものをサイエンスで完全に捉えることはできない。なぜかというと、生命は動いているわけだから。瞬時瞬時にある実験をさせるとか、何かを差し込むとか、光を当てるとかで出てきたデータを構築して、瞬時におけるある像を描くことはできても、その瞬時の像を生み出す力自体をサイエンスには表現できない。そのことを後にアリストテレスは重要な問題として提起してくる。わたしたちがものを、特に生命体を理解しようとするときには必ず「完成志向態」というものを掲げておかないと理解できない。それが第一に言いたいことなのです。

 第二の問題は、では人間の魂はどういう働きをするのかといえば、それは知性に関わることだということ。知性に関わるのだけれど、関わり方が2つある。一つは知性を蓄えることで、これは記憶、そして記憶の束としての知識、これをエピステーメーとギリシャ語で呼びます。英語ではknowledge、あるいはscienceというふうにいうこともあるのでだけど、要するに記憶の蓄積物ですよね。エピステーメーという言葉自体、注(2)ですけど、
 

 この文章の解釈は困難である。
 
 普通に読むと何を言っているかわからないから、わざわざこう書いた。
 
 ここで論じている形相は、人間の霊魂、とりわけその核心たる知性であるとすると、この知性の働きは、記憶にとどまっている知識と、現に働いている知としての観(想)である、という解釈が成り立つ。または、知識の原語はエピステーメーであり、観ずるという言葉の原語は、テオーリアーであることを考えると、エピステーメーが、主として、「傍に立つこと、対峙すること、上に置くこと、指揮者とすること」という語義があり、自己の自己意識化が中心課題であることに対して、テオーリアーが、「神託を聞くために使者を派遣して、神の意志を聞くこと」という原義を持つことから、他者との対話を原義とする、という解釈も生じる。
 
 これは「知識を行使する」という特別なギリシャ語を使っていて、エピステーメーとテオーリアーではかなり違う意味を含んでいます。エピステーメーのもともとの意味は「側に立つこと」。あるものの側に立つ、上に立つとか指揮者として活動するとか、そういう意味です。ものを自分の方に知識化して用いるというニュアンスがある。だから自分に知識を取り入れる、自己意識化するというのがエピステーメーの中心的な考え方だろうと思います。

 テオーリアーとは何かと言うと、ギリシャ語のテオーリアーは「神託を聞くために使者を派遣して神の意志を聞く」というのがもともとの意味。そこから英語のtheory、理論化するって意味になるとほとんど宗教性は失われてしまうけれど、もともとのギリシャ語は神託を聞くための使者派遣という意味。そして、神託が何を語っているのかを聞くという意味では神様ないしは神託とともにある、つまり神託が何を語ろうとするのかを考える、そういう意味でラテン語ではコンテンプラーチア、ないしはスペキュラティオ、コンシデラーレの3つの言葉で翻訳されるけれど、これについては12ページの次の注を見てください。
 
 この部分について、「理論的な理性」「観想に関わる思惟」「観照的な知性」「理論的に考察する能力としての理性」などと訳されてきた。英語では、Hicksはspeculative intellect、C.D.C.Reeveはtheoretical understanding、D.W.Hamlynはcontemplative intellect、H.Lawson-Tancredはcontemplative mind、フランス語では、E.Barbotinはintellect speculatif、ドイツ語では、W.Theilerはbetrachtende Geist、ラテン語ではspeculativus intellctusとなっている。ここで重要な点は、ラテン語訳のスペキュラティヴ(speculativus)の語義である。現代的な語義は、思弁的、純理的、瞑想的、観想的となっているが、もともとはspeculum、鏡、似姿において観る、という語義をラディカル・センスに持つ語であり、神を直接、直知によって観ることができない人間は、万物に内在する神的存在を、鏡に映るその姿、似姿を観るような仕方で神を観る、という意味を持っている。コンテンプラティオ(contemplatio)も、神を、その宮、神殿の内の似姿を通して観る、という意味を持つ語であろう。ギリシャ語のテオーリアー自体、元は、テオーロス=神託を伺う使節を派遣することを意味していた。従って、テオーリコス・ヌースは、原義は神的なものを(神託を通して)観る直知、ということになるであろう。従って、ここを近代的な体系知の働きたる科学的な理論、ないし理論的考察と解することは、古代人アリストテレスの真意を誤読することになるであろう。その意味において今後は、アリストテレスのテオーリアーは観ずることと訳し、テオーリアーは生き生きした神的存在を膨大な経験知から抽象する知的営みである、という点から、単に「観ずる」と訳すことにしたい。なお観という漢字が、鳥占いによって神意を観るという語意をもつことは『字通』に言及されている。 
 
 なんでこんなことを私がわざわざ書くのかというと、アリストテレスは今から2300年前の古代人です。日々の彼らの知的な営みというのは、もちろん民会での言語的なものや、裁判的な討論のようなものもあるし、塾での、今日で言えばサイエンティフィックな議論もあるのだろうけど、必ずどこかで神託を伺う、神意を探るという知的な行為と非常に深く結びついていたからです。

 このことは現代社会においてもわたしたちと無縁だといえるだろうか。そういう話なんですね。Mtさんが直感されているように現代心理学でもそういう側面を無視して現代心理学は成り立たない。特に現代社会はそういう神的知性抜きに動いていることはほとんどありえない。これは先進国でも開発途上国でも同じで、そのことについてのある種の理解がいるのだろうと思います。

 ***

[ Ng ] 注(1)の説明でわからないところがあるのだけれど、エンテレケイアにいろんな訳語が充てられてきて、そのなかに現実態というのがありますよね。その3〜4行下に、「エネルゲイアを現実態と訳すとき」というのがあって、そうすると現実態というのはある人にはエンテレケイアの訳語、別の人にはエネルゲイアの訳語となっているのですか。

 そう。これ、中畑さんの訳『魂について』。ここではエンテレケイアを現実態と訳している。どこが違うかというと、ものがすべて運動しているという意味では、運動して自分の力を発揮している状態になるわけね。人間もそうだし生物体もそう。そのことだけを取りあげるとエネルゲイアと訳してもいいのだけれど、とりわけ、それは無目的に動くわけではない。特に生物の場合は。花なら花を咲かせて種を作る、そこまで完成を目指して動いている。動物でも子どもから成体になって生殖し、また子どもをなす。人間もそういう動物的なことを行いつつ、さらに知的な完成を目指して動くはずですよね。そうでない人もいるかもしれないけれど。でも、自分なりの完成を目指して何らかの目的を持って動いてるわけですよ。私の訳で注意してほしいのは完成を志向して動いているということを表現したいがために完成志向態という「志向」という言葉をわざわざ入れたところ。完成した作品としてそこにあるだけではないのですよということで。

{ Ng ] では、エネルゲイアを現実体と訳した人はエンテレケイアをなんと訳すのだろうか。

 わからない。おそらくその違いが明確に自覚されていないのかもしれない。

[ Ng ] だって、普通エンテレケイアとエネルゲイアは対概念でしょう。

 対概念であると同時に重なり合っている部分もある。もっというと、能力というのがスタティックな静態的な状態、たとえば人間が筋力を持つ、能力を持つとき、これはデュナミスの状態にあると言う。そのデュナミスが働いている状態をわたしたちが見る場合、それはエネルゲイアにある状態だと見ているわけです。一番の対概念としてはデュナミス対エネルゲイアの関係。そしてエネルゲイアの中で、より一層目的を持って活動している状態のことをエンテレケイアと呼ぶわけです。

[ Ng ] なるほど。デュナミスというのは潜勢態?

 潜勢態。能力態でもある。

[ Ak ] テキストに戻って、範型(モルフェー)と形相(エイドス)の違いを端的に教えていただきたいのですが。

 これはほとんど同じだと思ってください。ほとんど同じなんだけれど、形相のほうがアリストテレスの用語としてはより正確になっている。たとえばレンガがあっても家にはならない。家というアイディア、コンセプトがあって家が家として成立する。家が嵐にあって屋根の一枚が飛んだとしてもフォルムというもの、形があるという状態ではまだ家と呼べるわけです。
 不動産がどこまで現状として価値があるかないかというときに、やっぱり家としての姿かたちがあるかどうかが大きな存在になるわけでしょう。もしそれがわからないほど壊れてしまえば、それは家ではなく「もの」、レンガとか木材とか、なにかの「もの」のカタマリにしか過ぎない。家としての存在価値がまったくない。家が家として存続するためには、形相が大事なんだということ。

[ Ak ] だから形相は「これこれのもの」と言えると––––。

 そういうことだね。

[ Ak ] で、1.のフュレーの方はそれだけでは「これこれのもの」とは言えない。そうすると、3.の素材と形相から成り立つものは「これこれのもの」と言えるのか言えないのか。

 言える。それこそがまさに「この家」「荒木」「秋山」と言う形で存続している。

[ Ak ] わかりました。その次の「またこのものは二重のありかたをしている」、このものとはエンテレケイアを指しているのでしょうか

 エンテレケイア。もっと厳密に言うと人間の魂とはどういうものかというと、オギャアと産まれたばかりでは人間の頭は白紙状態。それを長い時間をかけていろいろな経験を積み重ねていくわけで、そうするといくつかの知識を構築していって、それをひとつの「蔵」のなかに貯め込む。溜め込んだうえでなおかつそれを使いなから知識を拡げようとする活動をしますよね。エンテレケイアはそういう二重状態にあるということ。いかに記憶が大事かということです。(つづく)

《2021年10月30日》


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