荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義4-1

 

 本日はまず、現代人が直面している2つの問題を提起することから始めたい。

 1つは、『風の谷のナウシカ』(以下「ナウシカ」)のことから。少し前に、「東北学」で知られる赤坂憲雄氏の「ナウシカ」をテーマにした講演を聴きました。その赤坂さんの講演がとても印象的で心に残ったのです。

 宮崎駿さんの「ナウシカ」にはアニメ版とコミック版の2つがあって、アニメが有名ですが、赤坂氏はコミック版を重視して分析し、その現代性を強調している。そこには非常に多義的な問題があるのだけれど、そのなかで特に一つだけ指摘しておくと、あのコミックのなかで、中央アジアの宗教的世界、国家的世界が重視されていること。中央アジアの砂漠が砂に埋もれていくシーンもよく出てくるし、その中でかろうじてその原風景ともいえる、数百人単位で暮らしている風の谷が出てくる。中央アジアとはどういうものか。その宗教性の問題とか、それから国家の問題とかをどう考えるのか。それがわたしたちが直面しているアフガニスタンの問題とダブった形で私の中に浮上してきたわけです。

 たとえば、正確なところはおそらくわからないだろうけど、莫大な予算を投入し、最盛期20万人を超えるアメリカの最新兵器を備えた軍隊がやってきて破壊し、時間とお金をかけて作っていった一つの政権をまたたく間に崩壊させ、アメリカ本国に逃げ帰っていく。そしてまた、20年前に政権をとったタリバンが、その後そのまま復活したことをどう考えたらいいのか。宮崎駿の描いた中央アジアの砂漠の、あの場合は数百人、数千人の規模で続いていた人間の共同体とどう結びつけて考えたらいいのか。

 中央アジアの小さな国家のあいだで必ず出てくるのは宗教の問題です。アフガニスタンの場合は、イスラム教と言いながら部族的な世界観が語られるわけですよね。まあイスラム教自身は部族を否定しているわけじゃなくて、何らかの形で部族的な崇拝という行為が続けられているけれど、アフガニスタンではもっと深く、イスラム教が入る前のゾロアスター教とかマニ教、そういう古代文明を担った宗教のある国ですから、そういうところにもある種の文化的継承があって、ある種独特のイスラム文化が2000年の継承を含めながら、それの持つ強靭さに直面したということだと思う。

 多くの場合、そこには何らかの部族的宗教性が関わってくる。つまり、なんからの祖先崇拝的なもの、あるいは祖先崇拝から始まって太古の、宗教社会学者のいうアニミズムと関わってくる世界と、わたしたちの21世紀の世界が直面することをどう関連づけて考えたらよいのか。それを冒頭の話としたい。

 人間は魂を持つということを多くの人は了解していると思いますが、その事を考えていくと結局、この魂とはなにかという問題が浮き上がってくる。死んだ後も部族の流れとして、続けて己の所属した共同体を尊崇すべきものなのか。そのことを真正面から考えておかなければいけない。結局、魂とか霊魂といわれるものに対して、現代人がきちんとした対応をするうえでの十分な合意を得られていないのではないか。

 それは、数十年前以前にさかのぼっていいと思いますが、西洋のキリスト教世界が直面した問題でもあったわけです。第二次世界大戦がさまざまな国家間で始まったわけですが、戦闘の大きな舞台は日本周辺とヨーロッパ。
 そこでメチャクチャな文明破壊が行われた後、ヨーロッパ人たちは大きな反省をして、特にプロテスタントもカトリックも、自分たちの宗教のあり方について根本的な見直しをした。その中の一つに「アジアの宗教にきちんと向き合わなかったのではないか」という、プロテスタントは世界宗教連盟、カトリックは第二バチカン公会議という場でアジアの宗教性にどういう態度をとったらよいのかという問題に直面したということがある。そのときに一番大きな問題になったのは、アジアの諸宗教の大きな伝統として祖先崇拝的なもの、氏族的部族的なもの、伝統的な風俗習慣、そういったものにどう対応していったらいいのか。その問題を、バチカンやプロテスタントの神学を揺るがすような大きな問題として現代に至るまで抱え込んできたわけです。

 それは私自身やわたしたち団塊世代として抱えてきた問題とも関わってくる。団塊世代が学んだ、特に人文社会系はマルクス、ウェーバーという二つの学問体系が圧倒的な影響力をもった時代がわたしたちの青年期にあったわけです。そのときに共通していた認識は、マルクスの俗にいうアジア停滞論といわれるものだけれど、アジアの諸国家は王朝の連続であって、祖先崇拝を根幹とする王が奴隷的な臣民を支配していた、その担い手はアジア的宗教であったというものです。

 もう一つは、まったく違う形でマックス・ウェーバーは宗教社会学の膨大な本を書くのですが、それをひとことで言うと、ヒンドゥー教も仏教も道教もアジア的宗教であって、キリスト教との根本的に違いは何らかの祖先崇拝的なものを引きずる可能性のある宗教であるということ。もちろん細かな仏教研究というものがあって、それを打ち破ろうとはしていたという限定はつくのだけれど、にもかかわらず多くは土着のさまざまなアニミズムや祖先崇拝と結びついて、唯一絶対的な一神教を持つことができなかった。そこにヨーロッパと違うアジアの大きな限界があったという。そういう学説が支配した時代があったのですね。

 しかし、その影響力をわたしたち自身が充分総括しきれていないという意味では、これは日本のアカデミズムの問題でもあるのです。なぜかというとアカデミズムのなかで培われた日本の宗教社会学者が何人かいますが、そういう人たちが戦後日本人の信仰する宗教に対して、ある種のレッテルを貼っているわけです。それは非合理的、アニミズム的で、およそ内面的な信仰の対象になるものではない、と。そういう宗教社会学的な否定に対して、それを崩したいという動きもあります。しかし、それ自体が本当に戦後日本の直面した日本人の宗教性を理解したのか大きな疑問符がつくわけです。
 その意味で霊魂を巡る議論というのは、依然として大きな問題をわたしたちに投げかけている。このことを今日の講義の前置きとしておきたい。

 ***

 今日はおそらく本書2巻の第1章、2章で終わるんじゃないかなと思いますが、霊魂とは一体何であるか。それを、今から2300年前の一人の古代ギリシャ人が真正面から受け止めて考察している。人間としての知性の、おそらく最大の表出がこのアリストテレスの書いた霊魂の研究だろうとわたしは思います。
 第1巻第2章を読んで、その後のさまざまなギリシャ人による霊魂研究をこの場で紹介することは省きますが、当時の他のギリシャ人たちにとっても霊魂とは何かという真剣な議論があったことはある程度理解していただけると思います。

 あまり取り上げてきませんでしたが、デモクリトスも霊魂の存在を前提とした議論を立てております。霊魂というものの存在は認めるけれど、それを物的なもの、非常に微細な、原子よりも小さい、今日風に言えば量子、もっと小さいものとしてあるに違いないと。それらから組み立てられたものが霊魂ではないかという。空気の塵みたいな喩えですね。
 そういうものが口から入って人間にいろいろな活力を与える。それが霊魂ではないかと。そういう霊魂の唯物的な理解も追求された。ギリシャの世界でも霊魂というのは小さな微細な粒子の動きだという理解と、そういう物質的なものではない人間の感覚を超越した超感覚的な存在物だという、大きく分けて二つの見解の対立があった。

 で、アリストテレスはどうなのかということを検討するのですが、わかりやすい理解を得るために結論だけ先に言っておくと、彼の場合は両方なんです。つまり身体抜きに霊魂は存在しない。しかし同時に、すべての意味でほんとうに「ない」ものなのかというと、霊魂は「もの」を離れても存在することも可能なものだという理解を述べている。そんな結論めいたものをこの第1章、2章を通じて、どうして彼がそういう考え方をしたのか説明したいと思います。
 
 そうなってくると、わたしたちが普通、思考の前提になるサイエンスといわれるような世界がある。つまりサイエンスというのは何らかのデータがないと組み立てられない、だからデータサイエンスと言われるのだろうけど、しかし霊魂については客観的データというものがない世界を相手にすることになる。当時のギリシャ人にとっても大変困ったことだったわけです。それで、彼らは彼ら独特の言葉を使って霊魂の働きについてアプローチしていこうとしたのです。ですから1章は、通常の探求方法では迫ることができないようなものに迫ろうとして、アリストテレスも分析のためにさまざまな用語を使ったわけです。そこで、その用語をまずは正しく理解することが最も重要な課題として浮かび上がってきます。

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 ということで、第一章を少しずつ読んでいきましょう。
 
 さて、確かに、霊魂について先人たちによって言い伝えられてきた見解は、以上で述べられたこととしよう。しかしここで改めて、最初から出発するような仕方で、霊魂とはなにか、また霊魂の最も共通の言<ロゴス(中核的内容)>は何であるかを定義することを試みよう。 

 繰り返しになりますが、ロゴスという語は「言葉」とか「説明規定」とかという言葉で表現するにはあまりにも深い内容があるので、漢語を引いて「言」といい、ここでは中核的内容という意味を付け加えています。
 
 さて、実有<ウーシアー>とは、諸々の在るもののうちの一つの類いであると我々は語っているが、この実有のあるものは、素材<ヒュレー(質料)>としてのそれであり、これはそれ自体としてはまだこれこれのあるものではない。しかしまた別のものは、範型<モルフェー>であり、形相<エイドス(形成相)>であり、これに基づいて、直ちにこれこれのものと言われるのである。そして第3にこれら(素材と形相)から成り立つものがある。また素材とは能・力<デュナミス>であるが、形相<エイドス>は完成志向態<エンテレケイアー>であり、またこのものは二重の在り方をしている。すなわち一方では(知の所持としての)知識<エピステーメー>であり、他方では、(知の働きとしての)観ずること<テオーレイン>そのものである。
 
 ここからいきなり最も重要な問題に入ってしまうのだけれど、アリストテレスという哲学者の世界を見るときに、なんらかのアプローチ、方法がないとわたしたちもその世界を見ることができない。そのときに、彼の最も重要な言葉として、ギリシャ人はもともと使っていたのだけれど、それを特別な哲学用語として鍛え上げたものが3つある。ひとつは実有<ウーシアー>、それから素材<フュレー>、そして形相<エイドス>。この3つの言葉をわたしたちはきちんと理解しておく必要があるのではないかと彼はいきなり言うわけです。これらの言葉はわたしたちが世界を知ろうとするときに、最も基本的な3つのアプローチになるものだと考えてください。

 ウーシアー、日本ではこのギリシャ語は多くの場合「実体」と訳されていますが、このウーシアーをどう訳すか、現在も世界的に定まった訳語がない。英語の多くはサブスタンス(Substance)で、ラテン語のサブスタンティア。これを誰かが、明治期の日本人か、あるいはもっと昔の中国人かわかりませんが、「実体」と訳したんですね。そうなると、わたしたちのイメージで言うと、「(実)体」は何かあるカタマリ、ボディ(body)とかですね、ある種そういう固体をイメージします。目の前に見える存在する身体みたいなものや物体的なもの。それには非常にスタティックな動かない個物という連想がついてしまうわけです。

 もともとウーシアーという言葉は、「在るもの」という単純明快な言葉なんです。さらに、在るものというと当時のギリシャ人たちは「本当にあるもの」だと思っていた。それがもともとのウーシアーの語感。
「本当にあるもの」というのは、物体的なものなのか、それとも空気みたいな見えないものなのか、あるいは他の何かなのか。世界を広く見てみると、個別的に勘定できるものばかりではないですよね。たとえば海の水。1個2個とは勘定できない。なにか柄杓だとか容器で掬ったときに1杯2杯と数えることができるもので、それ自体は本来全部つながっている。当時のギリシャ人たちはこの世界を数えられる個物と、数えられない流体(連続体)と2つあると考えた。
 
 それは現代の私たちが直面している「デジタル」という大きな問題と関連してきます。簡単にいえば、デジタルとは1個2個と数えられるもの・ことを指している。いま友人の物理学者といろいろ検討している最中なのですが、このデジタルには「離散する」という意味があると彼は言う。離れ散って存在するともの・ことであると。
 たとえばコップのように1個2個と具体的に数えられること、それが「離散」しているという意味。1個2個と数えられるからこそ、彼が言うのだけれど、人間の生理基準として、これを1個としよう、2個としようと数字化できるのだと。そうすると当時のギリシャ人たちにとっては、世界というのは個物的に存在するものと、流体的・連続的に存在するものと2種類しかない。2種類だけれど、連続する流動体としてあるもの、それを存在しないとはいえない。だとするとウーシアーを単純にデジタル的にbodyとか実体とかと訳してはいけない。だとすると、流体でも固体でもないものがあるかもしれない。それこそが本当に有るものではないか。そう彼らは考えたのだろうと推察できます。

 で、そういうものがわたしたちの前にフッと現れたというときに、それは単にフィクション(幻影)なのか、本当に存在するものなのか。それを問うこと。本当に在るものなら、その「根拠」があるだろうと。それこそウーシアーと呼ぼうと。そう考えたわけですね。
 
 それをアリストテレスは「ト・ティ・エーン・エイナイ」と造語したわけです。この言葉を含め、ギリシャ人たちが本当に在るもの<ウーシアー>と考えることについて彼は4つくらいに分類したらいいのだろうと考えた。
 
 実有<ウーシアー>(しばしば英語ではサブスタンス, 日本語では実体と訳される)とは、

1.「ト・ティ・エーン・エイナイ(存在したもの―正確には、存在しつつあったもの―は何であるか)」。日本では、本質と訳されることが多いが、本有=エッセンティア(従来、本質と訳される)、英語ではthe essence、ドイツ語では das, Was es war zu sein。
ラテン語では quod quid erat esse、または quidditas、あるいは essentia、もしくは natura rei と訳される。
2.「ト・カトール―」=普遍的なもの。英語では the univerasal、ドイツ語では Das Allgemeine、ラテン語では universale 。
3.「ト・ゲノス」=類。英語では the genus、ドイツ語ではDie Gattung、ラテン語では genus、もしくは primum genusと訳される。 
4.「ヒポケイメノン」=基体。英語では the substratum, ドイツ語では das Substrat、ラテン語では subiectum と訳される。 
 
 まず1. は「ト・ティ・エーン・エイナイ」そのもの。存在する質をもったものは何であるか。たとえば、生物学者の福岡伸一さんは生物の定義を「動的平衡」という言葉で示したように、わたしたち生きているものは一日たりとも同じものではない。常に動いている。この荒木という人物だって、皆さんが見ているものは3か月前と細胞は全部入れ替わっている。しかし、ここにいる荒木は別の荒木ではなく、同じ人間として一つのアイデンティティを保ってしゃべっている。では、このアイデンティティをもってしゃべっている荒木とは何者かということがギリシャ人たちが直面した問題なんですね。

 つまり、この「存在しつつ在るもの」、そしてまた現在も目の前の存在しているこのものを支えるのは一体何か。これが「ト・ティ・エーン・エイナイ」の意味。これをまず確定しておこう。この「何か」を英語で essenceといっているわけですね。ドイツ語は流石にドイツ人の厳密的精神を表していて、このギリシャ語をそのままダス・バス・エスヴァー・ツヴァインと訳しているわけです。ラテン語もまた直訳的です。クオット・クイット・エス・エッセ、つまり存在したものは一体何であるか。それを約めてクイディータスという造語まで作ってしまった。ラテン語ではエッセンティア。

 こういうふうにヨーロッパ人の哲学用語は、日常用語から始まって新たに造語したものも結構あるんです。だから、ウーシアーを実体という個物的存在を印象づけさせる訳にするのはやっぱり問題がある。そういうことで私は「実有」という、本当に在るもの、本当に在りつつ有るものという言葉で表現しなければいけないと思ったのです。

 なんとも牛歩の歩みなんだけれど、じつはこの歳になって2〜3年前からサンスクリットを勉強している。そうするとサンスクリットもこういう問題に直面していていることがわかる。サンスクリットの「在る」は二種類あって、それの翻訳に現代のサンスクリット学者は実有という言葉を充てている。「ああ、そうだ。インド的精神、サンスクリット的精神でいうとbodyとか個物という事柄で本当に在るものということを表現できないのだな」と。そう思って一生懸命インド的なるものを勉強しているのだけど、正にギリシャが直面したのはそういう問題だった。これが第一の骨格的なコンセプトです。

 そして2. として、「ウーシアーとは普遍的なものだ」ということ。なぜ普遍的なのか。それは人間とは何かというときに、荒木というものは人間である。また古田や伊藤は人間であるというときに、個別的なものは滅んでいくけれど人間的なるものはずっと残っていくということ。子どもや孫が生まれる。荒木はいつかは死ぬけれど、本当に存在するもの、死んでもなくならないものが残っていくわけです。それは普遍的なものだと。そういうことで本当に在るものは普遍的なものだと、そうギリシャ人たちは考えた。

 3.はゲノスの問題。これは類と訳すけれど、これも普遍的なものに非常に近い。人種といわれるもの、人間、ホモ・サピエンスという類、人類、これは個別的なものを超えた形で存続している。人間とはガッテングス・レーヴェンという類的存在だという言葉を何度もマルクスは使っていますけれど、人間の本質というのは一個人ではなく永遠につながっていくような類的な、産んで産んで産み続けてきたようなものとしてある。それが本当に存在するものだと。そういうかたちの類というものがウーシアーではないかと。

 もう一つはヒポケイメノン。これは「基体」という日本語訳を与えられています。「主体」とも訳される。つまり、実際に荒木というものは生きているけど、目に見えない形で生きているわけではない。触ったり話しかけたりできる。そうすると荒木というものをこの世の中に継続して存在たらしめているもの、存在を可能にしているものは何らかの素材的なものだろう。だから、そこでフューレー(素材)と一体となって、実体を伴ったわたしたちの目に見えるものになっている。そういう形で基体=素材という形の理解が出てくる。
 
 しかしこのヒポケイメノン自体は主体=主語という語義をもちつつ、以下の3つの意味を持っている。①質料<ヒューレー>、英語では matter ②範型<モルフェー>、英語ではshape ③この①と②の結合物として「個体」、英語では compound of these、ドイツ語ではdas aus diesen Zusammengesetzte, das Konkreteと訳される。

 従って、ウーシアーは、上述のように、4の基体=ヒポケイメノン=substratum,  Substratと同じ意義をもつ言葉とされ、また、形相と質料の合体した個体、と解釈されることになった。おそらくここから、ウーシアーが substanceと訳され、個体的実体と解釈されていったのではないだろうか。しかし、ウーシアーの原義(ラディカル・センス)は、以上の4つの意味を包摂するものであり、存在するもの・ことであり、働きとしての存在を表すエッセ(esse)そのものであろう。それゆえ、それは、「存在しつつあったものは、一体全体何であるか」として問わざるを得ないものであったのであろう。アリストテレスにおいては、それは生命体においては生命であり、人間においてはヌースであり、ロゴスであり、神的存在そのものであった。
 
 さらに、この③のところですが、ヒポケイメノンというのもアリストテレスはいろんな意味で使っていて、3種類に分けましょうと言っている。一つは質料、素材です。英語では matter 。でも、肉とか火とか、単なる材としてだけではなく、素材が素材として存立するために何らかの形がないと「もの」は存在できない。形、すなわちshape、figure、formといっていい。そういう形も「もの」の存在を支えているものとして、基体のひとつに勘定しておく。そして最後に、この質料と形が合体したもの、これが個物(das Konkrete)ですよね。そういう意味でヒポケイメノンには3つのものがある。

 続けて私の方で読ませてもらうと、
 
 従って、ウーシアーは、上述のように、4の基体=ヒポケイメノン(substratum,  Substrat)と同じ意義をもつ言葉とされ、また、形相と質料の合体した個体、と解釈されることになった。おそらくここから、ウーシアーが、substanceと訳され、個体的実体と解釈されていったのではないだろうか。
 
 だからウーシアーが実体と訳される必然性もあることはある。人間が目に見えるような形で、「これが本当に存在していますよ」と示すときにはだいたい個体的なものとしてわかりやすく紹介されることが多いので、個体的実体として示される。
 しかし、これは実は大きな哲学的歪みを生じさせていて、アリストテレスとか、それを正しく継承したと言われるトマス・アクィナスですら、「実体は個物である」とスコラ哲学者が言っていると語っている。専門の哲学者たちも誤解する大きな問題が今でもあるのです。
 
 ウーシアーの原義(ラディカル・センス)は、以上の4つの意味を包摂するものであり、存在するもの・ことであり、働きとしての存在を表すエッセ(esse)そのものであろう。
 
 ラテン語のエッセンティアという言葉が本質という訳語を充てられていますので、エッセというのはエッセンティアを動かしているもの、それを発揮している状態。だからエッセは「ある」「ありつつあること」です。
 
 それゆえ、それは、「存在しつつあったものは、一体全体何であるか」として問わざるを得ないものであったのであろう。アリストテレスにおいてそれは、生命体においては生命であり、人間においてはヌースであり、ロゴスであり、神的存在そのものであった。
 
 人間においては、生命の中でも特に中核的な生命の担い手がヌースでありロゴスであり、それは神的存在そのものであるのです。

 ***

[ Mt ] 細かな質問ですが、ウーシアーは類として存在すると?

 類としても、ですね。

[ Mt ] では、この世の中にたった一つのものは類ではない。そういうたった一つのものは存在しないとアリストテレスは考えたのでしょうか。

 すみません、もう一度。

[ Mt ] ウーシアーには4つの性質があって、そのなかに「類」という言葉が入っている。類とはいくつかが集まった、それらに共通のものとして存在する。そうすると、この世にはたった一つしかないもの、そういうものは存在しないとアリストテレスは考えたのか。細かなことですが。

 いやいや、これは非常に大きな問題です。たしか『風の谷のナウシカ』に出てくる有名な言葉がある。それは王蟲(オーム)が語る言葉です。ナウシカが腐海の中に沈下してアスベルという少年と戯れるとこがありますが、そのときに王蟲がわーっと出てきてナウシカと対話する。その時は言葉の意味がよくわからなかったのですが、王蟲が「われは個にして全である」といったのです。

 個にして全という言葉は人間の理性を超えている。個別的なものがどうして全なのか。松下さんの問いは難しい問題で、アリストテレスなら、それは神的なものだと言うでしょう。中世以来の大論争があって、人間は知性を失いながら存続することもある。それは創造的ヌースだという文章が『霊魂論』3巻の中にある。それこそ普遍的なものだろう。普遍的なものには個性がないだろうという理解が生み出されて、人間知性は突き詰めていくと万人共有の知性になるという理解が登場してきた。それはイスラム哲学の理性普遍説、つまり人間知性普遍説です。

 それに対してアリストテレスやトマスは、そうではないと言っている。人間知性は徹底的に個別的でありながら同時に普遍的であると。これを皆さんに具体的な例証で語ることは難しい。例証で語られうる例としていま述べた『風の谷のナウシカ』の王蟲の言葉を提示しておきたい。わたしは、王蟲によって何か神的な存在を宮崎駿なりに表現したかったのだろうと考えます。だから、神的存在は徹底的に個性的でありながら徹底的に普遍的でありうるとも言えるのです。

[ Mt ] 荒木先生の話から、私が河合隼雄先生のある講義を聴講したとき言われたことを思い出しました。「ゴッホの絵は狂人の絵ではない。それは何故かと言うと、極めて個性的でありながら万人に訴えるものがある。単なる狂人の絵は個性的かもしれないけれど万人に訴えるものではない」と言われたことが、いまでも記憶に残っています。個別であり、かつ普遍的であるというのは芸術において真なるものである、とそう思って聞いておりました。

 わたしもそう思います。(つづく)

《2021年10月30日》


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