荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 3-3

 

 では、次に進みましょう。
 
 さて、霊魂の諸々の受容態(パトス・感受の複数)においても難問が存在する。すなわち、それらはすべて霊魂を持つものに共通のものか、それとも霊魂に固有の受容態なのか、という問題である。実際、この点は必ず理解されねばならないが、容易にはできないことである。しかし霊魂の受容態の大部分はどれも、肉体が無ければ受容したり、創出したりしないように思われる。たとえば怒ったり、勇気を出したり、欲望したり、また一般的に感受したりすることなど、である。だが、とりわけ直知すること(ノエイン)は、霊魂に固有なことであるように思われる。しかしこれはある種の形象(ファンタシアー)であるか、形象なしにはあり得ないものであれば、これもまた肉体なしにはあり得ないであろうから。
 
 ここの全体としてのイメージは、本当にあるもの、実際にあるものというのは、なにか具体的な素材と一体でないとこの世の中で存在し得ない。それを人間の霊魂というものに即していうと、身体を持って外からの刺激を受けるという状態をわたしたちはそなえている。これを受容態という。ギリシャ語でパトス、英語ではパッション(passion)として感情とか感覚とかの意です。あるいは、苦しみという意味もある。たとえばSt. Matthew Passion(マタイ受難曲)のパッションとか—-。

 ラテン語ではパッショ。苦難という意味もあるけど、肉体を通して苦しむというような受容態なんですね。身体と霊魂の働きとは密接不可分につながっている。だから霊魂の受容態はどれも肉体がなければ成り立たない。

 特に直知/知性というのは肉体によって変化しないと思われるわけですが、本当は肉体と無縁ではない。五感の中で最も聴覚と視覚が抽象的な形で外界からの刺激を受ける。たとえば音楽は目に見えず、空気の振動を聴くのだけれど、そこに人間固有の意味を構築することができる。ある面で極めて抽象度の高いものです。でもそれは外界から波動というものを受けるという意味で受容している、つまりパトスと関係している。
 知性も同じこと。知性も外からの刺激を受けて働いている。だから「直知することは霊魂固有なこと」となる。
 
 しかしこれはある種の形象(ファンタシアー)であるか、形象なしにはあり得ないものでれば、
 
「形象」は、前のテクストでは「表象」と訳していた。なぜそうなったか。人間がモノに触れたときに、あるいはものを見たときに、まずは表面を見る。表面に浮かび上がっている像を通してわたしたちはものを見る。だから表象、あるいは現象という訳もある。現象学とか表象学というのはここから出てくる。
 だけど、今日私が講義の最初の話の中で、そういう要素も受けながら、ファンタシアーとは独自の動きを持っている。感覚を受けて自分の頭の中で作るのだけれど、そういう意味で常に受け身なんですが、単なる受け身だけではなく、感覚を離れた後でも人間の頭の中に、心の中に、つまり魂の中に残るのですね。残ってしまうわけです。

 これは今日風に言えば「残像」「残像効果」などという。残像が残り、残像はある程度経つとなくなってしまうかもしれないけれど、さらにそれが記憶となって人間の中に蓄積される。そして人間が寝ているときに記憶の中から何らかの形で呼び覚まされて、寝ながら人間は呼び覚まされたものと対話する。それが夢だったりするのですが、怒ったり悲しんだりという感情も生気する。それをファンタシアーというわけです。
 ということは、ファンタシアーというのは単なる表象などのように瞬時になくなっていくようなものではなく、なにかある種の独立した存在感を持つもの。だからといって、人間の感覚抜きにファンタシアーが形成されるわけではない。こういう摩訶不思議な働きが人間の中にあるとアリストテレスは言っているのです。

 そういうわけで、注にこう記しています。

 この箇所で形象と訳されたファンタシアーは、アリストテレスにおいて二重の意味を持っていることに注意すべきであろう。ここでは、ファンタシアーは、もの(res)に付属するものを感知・知性認識するものであり、実有(ウーシアー)を語ることに何ほどか貢献するもの、として措定される。

 つまり、感覚的な素材として吸収されるもの、それがファンタシアーと言われているのだけれど、
 
 他方で、思考する、直知することの一部として理解される。この場合は、これまで形象・表象という訳語がなされている。アリストテレスにおいては、人間の知性内部で形成される形象と、ものへの感覚知を通して形成されるものである表象がなぜ同じファンタシアーという言葉で、表現されうるのか。
 こういう問題があって訳語は定着していない。
 
 これはまたエイドスという語がもの(res)において成立する場合に、形相、あるいは種と訳されますが、他方、人間の知性において成立する場合、ラテン語ではspecies, 形象と訳される事態となっていることとも関連する。存在論と認識論の独特の関連性の問題がここに浮上していると言ってもいいであろう。
 
 たとえば、りんごの形相、人間の形相。馬の形相は馬の魂。ものにおいて成立する場合は形相とか種とかで訳される。
 
 他方、人間の知性によって成立する場合〜
 
 つまりものの中にある形相と、人間の知性の中にある形象の独特の関連性。

 従来、このファンタシアーは、イマゴからイマギナチオ、英訳ではイマジネイション(想像)とも訳されてきた。表象という訳語は、感覚知に即した訳語の感覚を持ち、想像という訳語は、知性認識の独自の作用を表現するものである。またアリストテレスにおいては、ファンタシアーの働きは、夢の中でも登場するとされる。それゆえ、欧米においても、ファンタシアーは多くの議論を呼び起こしてきた。このファンタシアー論は、『霊魂論』第3巻の主要なテーマである。ファンタシアーを巡る論争についえては、中畑正志『魂の変容』(2011年、岩波書店)参照。

 人間の想像力を思い起こしてもらいたいけれども、想像力には不思議な側面がある。まったくの無から有が出てくるわけではないし、人間の頭の中で自己完結してイマジネーションが形成されるわけではない。必ず人間の感覚知を踏まえた形でまずは形成されながら、同時に人間がこれまで蓄積されてきた記憶の蔵に残ったものを呼び出し、人間独自の知性の働きもそこに加わって働いているもの。これが想像力としてのファンタシアー。
 そういうファンタシアーである以上、肉体なしにファンタシアーを形成することはありえない。

  ところで、一方では、霊魂の諸々の働き、あるいは諸々の受容態の中には、何か霊魂に固有のものがあるとすれば、霊魂は分離されること(コーリゼスタイ)が可能ということになるであろう。しかし他方で、霊魂に固有なものが何一つないならば、霊魂は分離されないであろう。むしろ、あたかも、直線が、直としての場面で捉えられた場合に、多くの事柄、たとえば直線的なものが青銅の球体と一点で接するというような事柄が、多く生じるであろう。しかし直線であることが、(物体から—-訳者)分離されるならば、そのような仕方で接することはできないであろう。実際、霊魂は常に何らかの肉体を伴うものである以上、分離することはできないのである。 
 
 だから、霊魂が一個の独立した存在であるならば、幽体離脱だってありうるだろうとなる。論理的可能性としては幽体離脱もあるし、たとえば修行僧が自分の肉体から遊離して空中をさまようこともあるかもしれない。そういう想定で修行を試みる人も当然出てくる。

 ところがアリストテレスはそうではないと言っている。霊魂とは人間においても動物においても植物においても身体と一体だと。だから、ここが非常に大事なところだけれど、存在論的に見ると一体となっている以外にありえない。
 しかし、あとでまた出てくるけれど、ロゴスの働きから見ると分離して取り出すことができるとも述べているのです。そこのところが非常に混同されるし、無視されるところだけれど、まずは霊魂と肉体は一如のもの、心体一如の世界がわたしたちの霊魂だと。それを理解しておいてください。

 *** 

では、続きを。
 
 たしかに霊魂のすべての受容態は肉体を伴っているように見える。例えば憤激、穏和、恐怖、同情、勇気、さらに喜びや愛すること、憎むことがそうである。なぜならこれらの感情が生起すると同時に、身体は何らかの作用を受けているからである。このことを示しているのは、ある場合には、強力で明白な感受が生じている場合でも、全く気分が駆り立てられたり、恐れたりしないということが生じつつも、他方では、身体が興奮している時、また怒りに身体が陥るような状態にある時、ほんの小さな、かすかなものによっても霊魂が動かされるということである。
 
 ここは微妙なところで、いかに人間の霊魂がほんのちょっとした外的な刺激によってとんでもなく動揺したりしなかったりするか。そして、そのときに汗をかいたり涙を流したり、いろんな反応をする。だから霊魂と心体は一如だということが説得的に展開されている。
 
 さらにこの点は、以下の点でより一層明白になる。すなわち恐れを抱く人は、恐れることは何も生じていないのに、そのような恐れについての感受の状態が生じる、ということである。もし事態がこのようであれば、受容態(パトス)は、素材(質料)を含んだ通念(ロゴイ・エヌロイ)である。従って、定義は次のようになるであろう。例えば「怒る(恐る)ことは、この原因による、この目的にための、この身体の、あるいはその一部分ないしはその能力のある一定に運動である」。また以上の定義からすぐわかることは、霊魂について―その全体であれ、そのような受容態であれ―、観じることは、自然哲学者の仕事である、ということである。
 
 そして繰り返し、自然哲学者と対話技法家とは全然違いますと強調されるわけですね。

 ということで、ここで本当に霊魂と身体が一如のものとして動いているということがでてくる。ですから、アリストテレスの霊魂論が他の哲人たちのものと違うのは、非常にサイエンティフィックな分析になっていくという点ですね。だから、第2巻の主要なテーマは「身体と霊魂がどう相互作用するか」という話で、わざわざ身体分析が主要なテーマになっている。で、第3巻がさらにそれを踏まえた知性の働きの、独自分析が大きなテーマになっていく。そういう意味でここでの叙述が非常に重要な序文の役割をになっている。

 
 しかしながら、自然哲学者(フュシコス)と対話技法家(ディアレクティコス)とでは、それらについて、例えば怒りについて、違った仕方で定義するであろう。たしかに、一方においては、怒りを、復讐への欲求とか何かそのようなものとして定義するであろうし、他方の者においては、心臓の近くの血や熱いものの沸騰と定義するであろう。すなわち、一方の定義は素材(質料)を提示するものであるが、他方の定義は形相(エイドス)と言(通念ロゴス)を提示している。確かに言(通念ロゴス)は、事物のこれこれのことであり、これは、もし存在するならば、これこれの素材(質料)の中に必ず存在しなければならないからである。それはあたかも、家に関して、一方で、「風と雨と炎暑による破壊を防ぐための蔽い」と定義するようなものであり、他方で、石と煉瓦と木材である、というようなものである。またこれらとは別に、これこれの目的のために、そのような素材(質料)に内在する形相(エイドス)というようなものである。
 
 ここでアリストテレス哲学の最も重要な「形相と質料」について、極めてわかりやすい事例が出てきます。これは非常に大事な事柄で、おそらく現代哲学では形相と質料という問題はほとんど扱われなくなっている。そこに現代哲学の大きな問題があると思うけれど、たとえば形相というときには、形相と素材を分けますが、家の場合は要するに壁などで蔽いをするということ。蔽いというコンセプト。これが家の形相であり、蔽うための素材、煉瓦とか石とか木とかが質料になる。そしてさらに形相の中でも、なんのために蔽うのかというと人間が住むための蔽い、というところまでいくと、家の目的は形相の重要な基軸になってくるという、そういう話です。

 つまり世界に存在するすべての存在物について、すべて形相と質料とに分けられる、とアリストテレスは言っている。そして分けたうえで、では人間における形相とはなにか、ということを話していきましょうと議論を進める。
 ここから先が、非常に重要。人間の魂は身体と分けられない、相即不離という意味では分け難いと言っている。ところが形相と質量という哲学的な人間知性の光によって見たときに、それは形相と質量に分けられるのではないかと述べているのです
 
 それでは、これらの者のうち、誰が自然哲学者なのか。言(共通観念・通念・ロゴス)を知らずに素材(質料)を語る者か、それとも言だけを語る者か、あるいはむしろ双方(素材と共通観念)からなるものを語る者であるのか。それでは(先の)あの二人の者のそれぞれはどのような人であるのか。それとも、素材から切り離されておらず、また切り離されたものとしてでない素材の受容態に関わる者は誰であるのか。しかし自然哲学者こそ、これこれの物体のこれこれの素材の働きと受容態のすべてを観じる人ではないだろうか。

 しかし以上のようなものでないものについては、他の人が関与するのではないだろうか。すなわち、それらの若干のものについては、場合によれば、技芸者、例えば大工か医者が関与するのではないだろうか。あるいは、(素材から)切り離されたものではないが、そのような物体の受容態としてではなく、抽象(抽創―抽出して、切り離して創造する−–)によって関与するものは数学者であり、切り離されたものとして関与するのは第一哲学者なのではないだろうか。

 しかしながら、我々は、ここで議論の出発点にたちもどるべきであろう。我々が議論したのは、霊魂の受容態は、生命体の自然本性的な素材から切り離されたものでなく、怒りや恐れのようなものは、少なくともそのようなものに属していること、線や面のように切り離されたものではない、ということであった。
 
 この辺の表現は実は原文そのものがかなり乱れていて、そのままでは私が訳したように訳せないところが結構あるので、正確を期すために他のいろんな訳も参照してもらいたいのだけれど、私の訳ではこういう解釈になります。どういうことかというと、ここで抽象ということが出てきます。英語でアブストラクト(abstract)ですけれど、この抽象という言葉の理解が非常に難しい。

 抽象というと、たとえばまず、抽象数学とか抽象絵画とかが思い浮かぶでしょう。要するにこの世の中に具体物としては存在していないもの。そのものの中からなにか普遍的な現象を引っ張り出してきて構築された、いわばフィクションとしての世界ですよね、抽象というのは。だから抽象絵画というのは、本当にそういうものはどこにも存在しないのだけれど、数学的な三角とか四角とかの組み合わせで世界を描ききってやろうとする。そのほうがわたしたちを取り巻く社会の最も重要で本質的な観察、表現になるのではないか。そう考える人がいて、抽象絵画というのは成り立っている。

 その前提にあるのは、ものすべては数学のように、どんなものでも数や図形に還元できるという学問もあるわけです。その重要性をアリストテレスは否定するわけではないけれども、魂というものを考えたときに、そういう数学的なやり方だけでは意味をなさない。なぜなら魂はこれまでも述べてきたように、肉体と一緒になって存在しているから。だから質料と形相を一緒のものとして考察しなければならない。

 だけれども、抽象というもの、抽象力というものを使って魂というものを考察することができるのではないかとも述べている。最後の数行は、なんとも難しいもって回った問題提起的文章で終わっているわけですね。ここでアリストテレスは、魂というのは離在的なもの、コーリストスというギリシャ語を出してくる。新版の注を見てください。

 このあたりの叙述と翻訳は難解で難儀である。特に、「切り離された、切り離しうるコーリストス<xoristos>」「抽象・抽象して引き出す、創造する・抽造すること・アファイレシス<apfairesis>」の理解は難解である。抽象という言葉は今日では、抽象絵画という言葉に象徴されるように、具体性と比較されて、一般的、数学的、幾何学的なものと理解され、具体的な個的存在物と対極にあるものと理解されてきた。しかし、アリストテレスにおいては、抽象(アファイレシス)は、具体物から真なる存在・形相をひきだすことを意味しており、またそうした抽象という作業を通じて、新しく創出された存在性を引きだすという意味を包含している。真実の存在根拠たる形相(エイドス)を引き出す知的作業を担う智者こそが、アリストテレスにおいては、第一の哲学者ということになるのであろう。このような理解を継承しているのがトマス・アクィナスであり、その意味において、存在するものは個的具体物であるという命題がスコラ哲学の土台であったとする理解は大きな誤解であろう。

 このあたりの叙述は難しくて、たぶん京大の翻訳も学術文庫のものもよくわからないと思います。私なりの解釈を込めて訳したのですが、コーリストスという語の訳、これを多くの人たちが取り違えている。「引き出す」という意味はもともと大きいのだけれど、「引き出した上で創造する」という意味を込めて「抽象」というのがいいとわたしは思います。

 「存在するものは個別具体物である」これはオッカムですが、要するに人間の霊魂というのは、肉体と相即不離なんだけれど、ただ人間の抽象力を以って人間を見れば、そこから魂固有の存在の働きを引っ張り出すことができる。そういうことを言いたいのだと思う。だから魂は離在的なもの、すなわちコーリストスなものだというのが霊魂論の第3巻の主要なテーマとして登場することになる。ここは、そのための最初の問題提起的な文章であるといえるでしょう。

 ***

[ Ng ] ここで「第一哲学者」という言葉が初めて出てきたけれど、この第一哲学者というのは自然哲学者ではないのですか?

 ないのです。

[ Ng ] これは形而上学者なわけ?

 そう。

[ Ng ] ここでなんの説明もなく突然、形而上学が出てきてしまって、読者は迷惑するよね(笑)。

 つまり物事は論理、ディアレクティーケーだけではだめだと。自然哲学はものが中心なのだけど、ものの分析だけをやっていてもだめ。さらに数学者たち、数学者をどこにいれるのかは難しいけれど、アリストテレスは他と別にしている。数学というのは、素材を含まない学問だと。

[ Ng ] ちょっと抽象的だと。

 ちょっとではなく、ほとんど抽象そのものだと。だからいわゆる今日風に言うと物理学の世界ではない。これ、非常に重要なことで、数学の世界は質料を伴わない図形と数の世界。しかも頭の中だけで構築する。相対性理論もそう。理論としてはあるのだけれど、それが真理であるかどうかは実験してみなければわからなかった。だから物理学と共同して実験をやって、その実験によって確かめられてその真理性が明らかになる。
 数学とは存在論的な意味で甚だ真理性について欠落がある学問なんだと言っている。数理的な論理性というものは合理的世界としては論証できる。ところが、それがどれだけ存在に適ったものであるかは一切言えなくて、少なくとも自然的な世界の中では、物理学的な論証がないと証明されない真理。それが第一のこと。だから数学というのはある種、形而上学的な世界に近い。

 だからこそ『形而上学』のなかでも13巻、14巻では、「数学と形而上学はどう違うか」ということを、彼はわざわざ書いている。そこはわたしもまだ十分に読み切れていないけれど、数学は少なくとも存在論的な意味で欠落した世界だということを頭に入れておいてほしい。
 で、第一哲学者とはそれとはまた別。第一哲学者とは何かと言うと、まさに存在とは何かを考える学者。これが彼のいう真の哲学の世界。そして、重要なことだけれど、霊魂論を議論するということは、この第一哲学者の仕事なんだと言ってる。一種の予告としてね。

[ NG ] それは自然哲学では力が及ばないということ?

 ——そういうこと。だから第2巻があり、第3巻に至って、人間の霊魂というのは自然哲学を超える学問だと述べている。それがアリストテレスとしての序論なんだ。
 だけど何度も繰り返すように、メタフィジカのね。メタ+フィジカであって、彼のいう自然的な存在を踏まえたうえでの学問。そして、踏まえたうえで、それを超えていこうとする人間の知性の働きが形而上学を支える知性だということ。そのことの意味がおそらくまだ十分に理解されていないのだろうと思う。

 で、第1巻の第2章以下は当時のギリシャ人たちが直面したさまざまな霊魂論の学説紹介をしながら、アリストテレスは自分なりの体系的な知識を簡略的に書いてそれらを批判している。いわば論文でいえば研究史整理ですね。で、その研究史整理を読んでもわたしたちは古代ギリシャ哲学の専門家になるわけではないので、ここはカットします。で、いきなり第2巻の、アリストテレスの霊魂論そのものの本体に入っていきたい。
 第2章は参考程度読んでおいてください。ざっと見るだけでも、びっくりするような説が紹介されていて、それはそれでなかなか面白いですよ。

[ Fr ] 第一哲学者というのは、たとえば過去の人類の歴史の中でいうと、実際に誰か該当するような人はいますか。象徴的にいえる人、たとえば聖徳太子なんかはそれに近いかな、とか。もちろん本物の聖徳太子にわたしたちは会ったことも見たこともないのでわからないけれど。誰を当てはめれば、その第一哲学者をイメージできるでしょう。「マンガ形而上学」があったとしたら、誰か主人公のモデルにできる人はいるでしょうか(笑)。

 たとえば、以前アリ研(アリストテレスと現代研究会)で『政治学』を読んできましたが、政治学と第一哲学ではどこが違うのか。わたしのイメージでいうと、政治学の対象は、主としては肉体を持ち苦しみうごめきながら、なんとかこの世の中で正義を実現しようと奮闘努力している人たちです。だけど、そういう人たちのなかでも、往々にして人間を見る目が異なり、偏りができてくるわけです。なぜかというと、IQの高い人・低い人とか、あるいは肌の色の黒い人・白い人とかね。または、美しい人・醜い人とか。世の中には、そんな差別的な見方がいっぱいある。

 そうすると、頭のいい人・悪い人を考えたら、統治するときには頭のいい人を使いたいと考えるから、そういう人が立身出世しますよね。それに必ず貧富の差も出てくるし、人種差別なども出てくる。
 それをなんとか平等にやろうとする優れた政治家が出てくるとしましょう。でも、なぜ人には違いがありながら平等であり、人間が本当に神々しい尊崇に値する存在なのかということをわかるためには、やっぱりここでいうところの「霊魂」の立場に立たなければならない。
 つまり人間というものは、歴史的にも地理的にもいろんな違いがあり、差があるけれども、人間というものはすべて平等であるという視点を持っているのがこの『霊魂論』の世界なんだと思う。そういう意味で、完全に自由平等、人間同士が博愛できるような存在なんだとわかって、政治をやることはほとんど絶望的に難しい。しかし、絶望に近い事柄だとわかったうえで政治を実践する覚悟がある人が、アリストテレスの言う第一哲学をやろうとする人ではないかと思う。

 そうすると、聖徳太子は、わたしが知る限りではですが、人間は平等で、上も下もありませんといっているわけだから、第一哲学を志している人ではないかなと思います。
 そこには上の下も、中国も日本もないと。「陽出る処の天子、陽没する処の天子に物申す」。そして町の人たちには病院を作り、施策を実践しようとする。彼は、日本が生んだ、万国共通の立場に立ち、日本国内でも平等な社会を作ろうとまともに取り組んだほとんど唯一の人ではないか。

 例としては、アリストテレスが直に接したアレキサンドロス(アレキサンダー大王)がいます。彼がどういう人物だったのか早く死んでしまったのでよくわからないのですが、アレキサンドロスはアリストテレスの教えを受けてペルシャに行くのだけれど、ギリシャ人の差別観、ペルシャ人はギリシャ人よりも劣っているという、ペルシャ侮蔑の人間観に抗してペルシャ人とギリシャ人を平等な人間として扱おうとした。両者を結婚させることもした。そういう意味ではヨーロッパ的な偏見を超えていたかもしれない。
 だけど残念ながら、彼にしても、またペリクレスにしても誰にしても、当時のギリシャ社会が持っていた奴隷制の大きな矛盾を真正面に考察して、どうにかしようとしたとは思えない。そのことが、いま21世紀の世界で、改めてわたしたちに問われていることだと思う。

 あの当時、アレキサンドロスがなぜペルシャに攻め入ったのか実のところはよくわからないけれど、少なくともペルシャがギリシャに攻め込んできましたからね。それを押し返して自分の帝国を作ったのだろうけど、でもアレキサンドロスが考え、実行したことは、アジア人とギリシャ人を平等にしようとする政策だったことは明らかです。
 そのためにはいろんな問題もあったでしょう。ペルシャ人はアレキサンドロスを神のように崇拝したけど、それに比べてギリシャ人たちは自分の仲間の代表者として彼をファーストネームで呼び合う関係に留めようとした。そこでギリシャ軍隊の中で大きな亀裂が生じてきて、論争になるわけです。それが、彼の没後大きな争いのもとになっていく。人類にとっては霊魂論というか、第一哲学としての霊魂や人間理解に到達することはものすごく難しいことなんですね。

 それは、キリスト教の世界でも、アリストテレスの奴隷制に対する考えをきちっと理解した、あるいは『霊魂論』を理解した人はほとんどいないといってよい。唯一例外なのがトマス・アクィナス。トマスは『霊魂論』をしっかりと読んだために、アジアの人たちに対する侮蔑的な表現は『神学大全』の中に出てこない。キリストを知らない人たちでも、神的な意味での人間存在であることに彼は触れている。「ベールをかぶったキリスト者」という表現が出てくるんです。
 それがいつしか20世紀になってキリスト教神学の中でもう一回見出されて、トマスに還れという話になり、ヨーロッパにおいても、アジアの宗教とキリスト教を対等なものとして対話しようとする運動になっていくわけです。

[ Wk ] 感覚によって直知する、それが記憶になって思考が始まるということですが、記憶には経験という要素が非常に重要ではないか。それから先ほどのファンタシアーですかね、前の講義のときに「感覚」「形象」「イメージ」「思考」という流れがあると聞いたように思いますが、私はイメージの次に「物語」が入ると思うんですよ。思考というのは、直接感じること、それからイメージを頭の中に紡ぎ出すこと、それをストーリーにする、つまり物語化することによって初めて思考が始まるのではないかと思っています。

 それは、先だって弁護士の仕事は相手を説得する、裁判所を説得することだとおっしゃったけれども、それは非常に表面的な見方ではないかと私自身は思っています。弁護士の仕事としていちばん途惑うのは、他人の間でいろいろ起きたことについて、あたかも自分のことのように語る必要があることなんですね。
 しかし、それは非常に大変な仕事なんです。勝手なことを作り出してはいけないし。どういう作業をするかというと、現場に行くとか資料を見るとか文献を読むとか、まず自分の中にイメージを作り出すんです。この、アカの他人である人たちに何があったのだろうと。それに時間軸が入ってきますから、作り出したイメージをコトバ化する、言語化するには物語にする必要がある。物語化すると、因果の連鎖が言葉の中に生まれてくるんですね。語ることができるようになる。つまり「桃太郎」です。出来事の順序が出てくる。そこに時間的要素が組み込まれていく。そうなって初めて考えることができるようになるんです。相手が言っていることはどういうことなのか、自分が言おうとしていることはどういうことなのか。あるいはどこが欠けているのか。どこを補強する必要があるか。弁護士の仕事はそういう作業の積み重ねです。
 決定的に重要なのは現場に行って直接見ること。あるいは関連する人と直接会うこと。それがすべての出発点であるということ。その点、今日の話を聞きながら、あれこれ勉強させていただきました。

 わたしは弁護士を、説得するということに限定した仕事だという意味で言ったのではまったくなくて、むしろ人を説得するためには、いまあなたは、現場を見てイメージ化すると言われたけれども、それは一つの像を作るわけですよね。しかもその像が、非常に重要だと言われたけれど、それは停止した一つの「絵」ではないんですよね。瞬間的な絵ではなくて、物語という言葉で、それは時間軸の中で思考することだということも言われました。今日はその件については言及しませんでしたが、おっしゃるように人間の知性の最も重要なことは、時間軸で語るということなんです。しかも時間軸で語り、原因と結果というものを構築するのが物語でしょう。原因と結果を時間軸で語るものが物語。その全体がファンタシアーなんです。
 今日は議論できなかったけれども、ファンタシアーは原因と結果を時間軸で語ることであるのを、またどこかで語りたい。
 大事なのは、これもまた神秘的な話なんだけども、人間の知性の表現である言葉というもの、その生きた言葉というのは実は時間を表現しているのだということ。もっというなら、言葉は通常の時間を超えた「時」を表現していると言わなければならないのです。

 たとえば「わたしたちは生きている」という言葉ですら、文法的に現在形を語っているだけではなく、生きているというそのことを伝えるものです。人間という集団のなかで。「生きている」ということは「生きてきた」という過去も示しているし、お互いに「生きてきた」と言い合うことはこれからも生きていきましょうと未来のことさえも語っているわけです。つまり人間が話す言葉というものは、現在という瞬間を越えようとしている。
 そういう瞬間的な時間を越えようとする人間の言葉は、サイエンスの言葉ではないということなんです。サイエンスの言葉はある時ある場所で出てきた瞬間的な結果を語っているだけで、それ以上のものではない。しかし人間の言葉は、語っている人の過去と現在と未来を表示している。そういう言葉をサイエンスでは表現できない。

 それを近い形で表現するのは文学の役割だと思う。文学の世界と日常の話し言葉はまた違う側面があるでしょうが、いずれにしろ、そういう言葉の持つある種のサイエンスを超えた力が、アリストテレスが非常に興味を持って分析しようとしている事柄だと言いたい。
 最近良く出てくる「物語性のある言葉」ということを、どうして現代でことさら言わなくてはいけないのか。それはやっぱり「時間」を語りたい、そして「原因と結果」を語りたいからでしょう。それが人間の本性なんですよね。現在の言語状況はそんな言葉が失われがち。だからこそ、物語性のある言葉は共感を呼ぶことになる。

 そのことで私が非常に驚くのは、神の定義がまさにそれなんです。それ、というのは、「私はあり、今あり、将来もあるだろうもの」というのが旧約聖書の伝える神の基本的な定義だからです。自分は時間を超越している存在だと神は伝えている。それに近いですよね、本来の人間の言語自体が。だからこそ人間の言語はロゴス(言)だというのです。

 だから、このロゴスという言葉を「言葉」と訳してもいいのだけれど、それは単なる書かれた言葉ではない。「生きた言葉」というのがロゴスの意味。「はじめにロゴスありき」というのは、おそらく正確に訳せば「はじめに生きたロゴスがあり」という方が近いのではないか。重要なのは「生きている」ということですよね。
 そういう世界が霊魂の理解にとっては最も重要。だから第3巻のなかにはそういう「時間感覚をなぜ持てるのか」とか、「言葉とは時間感覚とどういう深い関わりがあるのか」などということが出てくる。ある面で、第3巻の主要なテーマは言語論になっていく。時間感覚があるから言葉は生成、蓄積されてくる。どこかにね。
 脳科学では海馬という、そういう脳の場所も大事なんだろうけれど、そういう働き自体が人間の知性の中にはあって、時間感覚を持ちうる、持続化する能力がある。そういう世界が霊魂論の世界なんです。(講義録3終わり。2021年9月4日)


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