荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 3-2

6. さらに、多くの霊魂があるというのではなく、霊魂に多くの部分があるということがあれば、先に探求すべきは、霊魂の全体であるのか、それともその部分であるのかが、問題となるであろう。
 
 霊魂に多くの部分があるという場合は、どうしたらいいのか。霊魂の全体を検討すべきか、部分を検討すべきかという問題があるだろう。
 
7. さらにこれらの部分の中で、本性上相互にどのような差異があるのかを明らかにすること、
 
 今日、議論の最初のところで少し触れたイマジネーションに関わる問題。霊魂にはいろんな働きがある、いろんな働きを区別しながら検討していきましょうということ。そのなかで、霊魂は誰にもあるとすれば、そこに知性がありますよね。そして感性がある。それだけではなくて、ファンタシアー、ファンタスムというものがある。だからファンタスムというのも重要な霊魂の働きの部分として考えましょうということがアリストテレスの念頭にある。
 
8. また諸部分そのものと、その各々の働きとでは、どちらを優先的に探求すべきかを明らかにすることは、困難なことである。例えば、直知すること(ノエイン)と直知するもの(ヌーン)、また感覚知すること(アイスサネスタイ)と感覚知(アイスティコン)との関係のように。その他の部分についても同様である。
 
 私の前の翻訳では「直知すること(ノエイン)と直知」となっている。この新しい訳では、「直知」に「するもの」をつけて「直知するもの(ヌーン)」としています。直知する主体のことをいっている。それから「感覚知すること(アイスサネスタイ)と感覚知(アイスティコン)」という言葉にも注目していただきたい。
 
 霊魂とは何かを議論するときに、霊魂は死んで静止しているのではなく生きて活動しているんだということを念頭に置いておいてください。生きている霊魂は感覚する。熱いとか冷たい、固いとか柔らかいとかを感覚する。そうすると感覚する部分と、感覚を引き起こすもの。たとえば冷たいものと熱いものとの違いを考えましょうと。わたしたちがものを知るときに、知るという行為が何であるかということと、「知る」を引き起こす主体と、知る行為と、知られる行為。この3者の関係が霊魂を議論するときに欠かせません。その3つのことを腑分けして議論するのはものすごく重要なことなのです。

 わかりやすい例でいうと、仏教の学説に慣れている人は、ものと人間との関係でいうと、ものがあってわたしたちは感覚するのだけれど、仏教を突き詰めていくと「もの」はないのだ、となる。結局「もの」があるとするのは人間の知性の側の、悪くいえば思い込み、良くいえば存在をつくり出す力によって、わたしたちは「もの」が存在すると認識するのだと。

 それからカントの哲学。カントという人は人間の知性は確かにあるけれど、知性は感覚抜きに「もの」を知ることはできないと言っている。感覚は実際に触ったり見たり聴いたりしている。実際に見えないもの聴こえないもの触れないものをわたしたちは知ることができない。感覚というものがあって初めてわたしたちは知ることができる。
 そうすると感覚を引き起こすものが何かという問いが当然出てくる。感覚主体ですね。感覚を引き起こすもの、感覚作用、そして感覚を受ける人間という主体、この3つがどういう関係にあるか。そういうことをアリストテレスは考えたのです。

 ところが、よく考えてもらいたいけれど、近代的な哲学は感覚を受けるものがどうなっているかを思考から放逐してしまってる。それが存在しているかしていないかはどっちでもいいわけです。むしろ、感覚的なデータを受けたら、そこから人間の頭の中にデータが入って、どういう像として構築されているかという認識論こそが哲学の主要な命題であるということ。そのものが存在するかしないかはどっちでもいい。哲学にとって大事な事柄は、人間がいかにして認識するかということなんだと。カント以来、近代哲学はそういうことに終始しましょうということになってしまった。

 だから近代哲学以降は、哲学の主な作業は認識論になる。そのことを含めて長々とした注をつけました。
 
 <注>ここにアリストテレスの存在論、認識論の核心を読み取ることができる。人間の知性は自らの志向するもの(res)の存在に向けて光と音を発しながら、もの(res)の存在が発する光と音を受容し,すなわち、もの(res)と霊魂との出会い、相互作用を前提とし、さらにその受容を前提にしつつ、人間知性の一つの能力たる能動知性による、抽象による存在洞察と発見と、存在創出をおこなう。これが、知のエネルゲイア、またはエンテレケイア、完全実現態、知られ得るものと知るものとの一致、存在論と認識論の一致ということであろう。この点が、またオッカムとトマスを別つ最大の論点ともなり、近代の哲学、とくにカントとアリストテレスを別つ最大の論点になるであろう。
 
 人間の知性は自らの志向する「もの(res、thing)」、つまり相手ですね、注意するもの、認識しようとする相手の存在に向けてある種の光と音を発する。認識される主体も存在するということだけで発する光がある。そして音も出している。ものと霊魂が出会い、その相互作用を前提として、人間知性の一つの能力たる能動知性が働く。これは人間にしか与えられていない。それはいわば光のような人間知性であって、その人間知性がものに対して一つの「力」を発揮するわけですね。そのとき発揮する力が抽象という作用なのです。その抽象力によってその対象が持っている存在性を洞察する。洞察を通して「もの」を発見する。そして発見した「もの」を人間の頭脳のなかで再創造するわけですね。それを私は存在創出と呼んでいる。

 これが人間における認識のあり方であり、人間の知性というものの働き。エネルゲイア、またはエンテレケイア、すなわち働いているもの、働いている姿。完成を求めて働こうとしている姿、完全実現志向態。そのなかで知られうるもの、すなわち知りたい相手と知る者である自分が一致することになるだろうという、そういう世界。

 これが、わたしの新しい解釈です。存在論と認識論の一致ということをアリストテレスは言っているだろうということ。
 そして、この点がおそらくイングランドで形成されてきたウィリアム・オッカムの唯名論とトマス・アキナスを別つ最大の論点だと思います。そしてまた、それは近代の哲学、カントとアリストテレスを別つ最大の論点になるだろうとも。こんな大胆不敵なことを言ってよいのかどうか、異論もあるでしょうが、わたしとしてはいちど明確に言明しておきたいと考え、注に書いておきました。
 
 ***

 では、何か質問があれば。

[ Ng ] 今日の講義は 「1. おそらく第一には〜」というところからはじめまりましたが、おそらくこういう問いのたて方は、9つあるということですよね。で、その9つを追っかけてきたわけですけど、この9つはアリストテレスの今後の研究のプログラム、予告編として書かれているだけですから、たとえば最初のゲノス、なんのゲノスに属するかということは、ここで彼は何も言っていないし、ウーシアであるかどうかということにも全然触れていない。質料であるのかということにも触れていない。
 デュナミスであるかエンテレケイアであるのか……、全部ここでは宙ぶらりんにしてあるわけでしょ。もちろん荒木さんは先まで読んでいるから、それに対して一定の読み込みをして「ここはアリストテレスはこう言いたいのだ」と説明してくれる。でも、聞いている方はよくわからないです。
 アリストテレスのこの文章の段階ではただ問いかけているだけなのに、荒木さんは「これは結局こうなんだ」と言う。どうしてそうなっちゃうのか、そこにすごい飛躍がある。この9つの問いはこれから読んでいくとひとつ一つ解決されていくものなのか。目次を見る限りではとても整合性のあるような解答が続くとは思えないし、荒木さんが先回りして答えを教えてくれるのだろうか。そのへん、こちらも迷ってしまうのだけれど、どうなんでしょう。

 わたしも最初に読んだときは「これは何を言っているんだ?」となった。問いかけ自体、それぞれがどれだけの重みを持つのかわからない。おそらく『霊魂論』を読む人はみんな、なんでこんなに七面倒臭いことをゴタゴタいっているのかわけがわからないだろうと思います。
 だから、この問いかけがどれだけの意味を持つのかということを最初に感じてもらうために、一歩踏み込んだ話し方をしているわけです。そうでないと、この問い自身が意味がないということになると、続けて本書を読む意味がなくなってしまう。なので、アリストテレスのこの問いかけは、こういう広がりがあるんだと紹介しなければならない。そのために少し踏み込んで、たとえばエンテレケイアというのはどういう事を言っているのかとか、形相とゲノスはどう違うのかとか、少し説明しておかないと、なぜこんな問いを立てるのかと、そこで読みが止まってしまう。
 それから、知るものと知られるものと知る行為を3つに分けることとかね。そうでもしないと、これもなぜ分けなければならないのか、さっぱりわからないでしょう。

[ Ng ] しかし、それについての議論はほんとにあとで整合性を持ってなされるのですか。

 全部とはいえないけど、アリストテレスはかなりの程度本格的にやろうとしている。だから素晴らしい。

[ Ng ] たとえば第1の問い。「諸々のゲノスのなかでなんのゲノスに属するのか」と。それに対する答えは、いったい目次でいうと第何章のどこに出てくるのでしょうか。

 第2巻以降です。魂の定義からずっと入って行くわけだから。今日の第1巻第1章が終われば、次回から第2巻以降を読んだほうがいいので、さっそく第2巻の翻訳テクストを送ります。そうすると魂というものの定義にも大きく踏み込んでいるわけです。たとえば植物的な魂と動物的な魂に大きく分け、また動物的な魂を人間的なものと非人間的なものと二つに分ける。そういうふうに分類して、それぞれの魂についての説明に入っていく。

[ Ng ] じゃあ第2巻以降を読み進めるうちに、それは今読んでいる「予告編」の答えになってくると考えておけばいいんですね。

 アリストテレスという人は、自分の研究を語るとき、自分はどういう視点でそれを行なっているのかを同時に示すやり方をします。つまり、相当自覚的にやっていることを感じてもらいたいのです。どうして、どういう方法でやろうとしているのかを感じてもらうことを通して、後でも言うかもしれませんが、プラトンとアリストテレスがいかに違うかということもだんだんわかってくる。これまで、プラトンとアリストテレスを一緒くたにしてギリシャ合理主義だと間違えて教えられてきた。それがいかに間違っているのか感じてもらいたい。

[ Mt ] これまでの話でいうと、アリストテレスは認識(論)と存在(論)を融合するためには、霊魂がなければ融合できないと考えたのでしょうか。それともそれはまた別の話なのでしょうか。

 いや、そのとおりだと思います。このアリストテレスという人は認識論と存在論の融合を考えているんだなぁと、わたしも最近よく実感するのです。それは第3巻に繰り返し基本命題として出てきます。そのことによって人間は真理に到達するし、またお互いに理解し合うことができるのではないかと。
 とは言っても、相互の共通理解というわけじゃないんですよ。単にお互いにそれぞれに生じている同じ認識を共有するというだけじゃなく、彼は、人は存在が一致するという認識の段階に達するのだと述べている。これは、私たちの教えられてきた近代的常識と甚だしく違うように思いつつも、ただ人間と人間の相互認識という点からいうと、非常にすばらしい話ではないでしょうか。ただ単に頭の中でわかり合うというだけでなく、存在が一致するのだというのですから。そういう世界観が第3巻の人間知性に固有の働きとして出てくる。『霊魂論』のこれまでの翻訳を見ても、その点の理解が最もなされてこなかったような気がします。そんな解釈は、ほとんど出てこない。

 稲垣良典という、日本における最高のトマス・アキナス研究者が『抽象と直感』という本を書いています。非常に抽象度の高い難解極まる言葉で書かれていて、何回も読んでいるけれど、最初はまったく理解できなかった。本書を読んで、ここ2〜3年でようやくトマスが『神学大全』で語っている事柄がほとんどすべて『霊魂論』で語られていることだということがわかってきた。
 だから、この本の言っていることは信用できるなあと思って読んでいるのだけれど、要するに、お互いに人間が相互理解できるということは虚しいことではありませんよと書かれている。本当に存在をかけた「存在の一致」というものを確認できる。だから真理というものは相互理解の中で成り立つのだといっているわけですね。『霊魂論』のなかで、それをどういうふうに言っているのか、みなさん楽しみでしょう(笑)。楽しんでほしいと思いますが、今日の段階ではこのくらいにしておきましょう。

[ Mt ] もう一つだけお訊きします。前に先生はアフガニスタンの話をされましたけれど、アメリカがアフガニスタンを理解できない理由は、もしかしてそこにあるのではないかと思ってお話を聞いていました。アメリカ人ってどうしても頭で理解しようとする。多分認識論的な形で。でも、どうもイスラムの人ってそうではないように感じます。井筒俊彦先生の本を読んでいると、イスラム系の人たちは直感的で神秘主義的な人が多いようなので。アメリカ人とイスラムの人のそのあたりの食い違いを荒木先生がどう感じておられるのかと思って。

厳密なことを言い出したらきりがないけれども、アメリカの学問の大半はサイエンスでしょう。サイエンスは基本的にデータ思考なんですよね。データを集めてそれの論理的体系性で自分たちの理論を作っていく。そうすると本来の生命というものの捉え方がまったく出てこない。ましてや人間の生命は神と不可分ですから。ある面では、それはそれでいいとしてもですね。人間以外の生命は単なる人間の知性の操作対象でしかなくなってしまう。それは近代的知の大きな宿命です。

 そういう近代的知性の宿命を大部分の人がもし受けるとすれば、アフガニスタンで何人死のうが関係ないことになる。バイデンが演説でアメリカの軍隊で2千数百人死んだと言っているけれど、アフガニスタン人がおよそ10万人も死んでいるとは言わないですね。生命を同じ人間の重さでもって量らない。

 さらに大きなことは、アメリカはこの20年間でアフガニスタンの自然を破壊しまくっている。わたしの知っている限りのアフガニスタンの人たちは、カンダハールとか、カブールにしてもそうだけれど、だいたい山の斜面に地下水道を作って緑地を作っていった。とくにカンダハールのあたりは果物の大産地だったけれど、19世紀からなんども侵略があって、イギリスが壊し、ソ連が壊し、今回アメリカが壊しまくったのです。だからほとんど豊かな農地がなくなってしまったわけです。そこに対して中村哲医師が現地へでかけていって灌漑用水を引いていったわけでしょう。アメリカ人には、そういう感性が欠けている。そういう感性がない人たちをどうして信用できるか。そういう反省が必要でしょう。そこには生命とは何かとか、霊魂とは何かということについての認識に重大な欠落があるのではないか。

 それは、日本もある部分継承していると思います。だからこそ近代知そのものを問い返して、万物の生命と自然そのものの生命体をどうきちんと哲学的に理解するかという問題を避けて通れない。
 だから、アリストテレスの哲学は人間中心主義ではないという点が重要です。ところが、わたしが勉強した限りですが、オックスフォードやケンブリッジの多くのアリストテレス学者たちは全体として人間中心主義なのです。そして、数理学中心主義なんですよ。ロゴスというものを数理的な理性に凝縮して理解しようとしている。それではディアレクティックな、問答学的なレベルでは言い得ても、重要な問題を取り残してしまうのではないか。テクストの5ページに、
 
 すべて問答法的(ディアレクティコース)に語られはするが、虚しく語られる
 
 そう書いてある。人間が理性を持ってディベートして語れるようなことは、霊魂については、部分的に当てはまるとしても、他の重要な部分を取りこぼしていますよと、アリストテレスは言っているのです。

 だから、プラトンを中心とする、問答論による理論的合理的な議論では霊魂を把握することはできないと明確に言っているわけです。にもかかわらずアリストテレス哲学が合理的で弁証法的で、排中律とか矛盾律とか、そういうところにとらわれている偏ったアリストテレス理解が普及しているわけです。じつに世界のアリストテレス理解は誤解にまみれているという話です。

 まず重要な研究対象は自然哲学である、とアリストテレスはいっている。自然哲学とはフュシス、フュスコスの探究。フュシスはギリシャ語で自然ですよね、その探求者をフィスコスという。この場合、フュシス(自然)とはまさに霊魂を持った、生命を持った世界であるというのが最も重要な定義なんです。だから霊魂はフュスコス、自然哲学者の重要なテーマだということになる。それはディアレクティークな学問では到底歯が立たないと彼は述べているのです。どうしてこういう文章の意味が伝承していかないんでしょうねえ。

[ Mt ] 心理学の世界では、悲しい話ですけどエビデンスがないとものが言えない。霊魂論を語るにはエビデンスが出てこない。数理では霊魂の存在を示すエビデンスは絶対に出てきません。でも今日の話を聞いて、私の恩師の河合隼雄先生が鋭く言われたことを思い出しました。先生は単なる現代の自然科学的な考え方だけではだめだということを言い続けられた。共感の思いをますます強くしました。ただ学者の世界でそれはなかなか難しい。

その元は河合隼雄さんの先生のC.G.ユングから来ていますね。確かに、ユングはそういう自然科学寄りの霊魂論ではない。明らかに霊魂実態説ですよ。わたしの言葉でいうと霊魂実有説です。しかし、霊魂実有説になったらなったで、途端に神秘的というか神秘主義的な学問体系になる可能性が非常に高まる。それもまた違う。では、神秘主義的な霊魂論とアリストテレスのそれとはどう違うのかということも、極めて大きな課題になってくるわけです。

 どこかで議論しなくてはいけないけれど、ギリシャ哲学の受け止め方として、ある面非常に合理主義的な、そして数理学的な理性を使った哲学の伝統だという人と、もう一つは非常に神秘的な哲学の伝統だという人の両方がある。プラトンにしても、プラトン主義という形を通して非常に神秘的な理解も出てきます。それを徹底したのが中沢新一氏とか、井筒俊彦氏とかのギリシャ哲学受容ですよね。
 わたしのこれからの課題は、ある意味で、ユングとか、彼らの神秘主義的な霊魂論理解とどう対話してどう距離を取るかあると思っています。それも、これから本書を読み進めていく上の大きな課題です。

 だからさっきちょっと触れたように、人間が知性をもちいたり、感覚したりするときの主体とその作用と相手(対象)、他者の存在、それらがどういう関係にあるかということをちゃんと認識しようというのが、アリストテレスの霊魂理解のための布石だというのがわたしの見方なのです。

 ***

 それでは、もうちょっと先に進みましょう。今日わたしたちが読んでいるのはいわば方法論的なレベルの序文的なものですので、Ng さんがいうように、中身がないといえば中身がない。でも、これほど序論的方法論的な意味できちんと自分の学問を構築しようとする人もいないので、もう少し我慢して聞いてもらいたい。
 
 ところで、「何であるか」を認識することは、実有(ウーシアー)に付帯している諸々のものの原因を観るのに有益であるように思われる(それはちょうど数学において直と曲はなんであるか、あるいは線や面が何であるかを知ることは、三角形の内角の和がどれだけの直角に等しいかを観察するのに有益であるようなものである)。しかしまた逆に、実有に付帯する諸々のものに対する認識は、「何であるか」を知ることに大いに貢献する。というのは、我々が実有に付帯する諸々のものについて、そのすべてであれ、その大部分であれ、その形象(ファンタシアー)に即して説明することができるならば、その時には、また最も明確に実有について語ることができるであろうから。なぜなら、全ての論証の根源は、「何であるか」という点にあるからであり、したがって諸々の定義の中で、それに即して実有に付帯しているものを知ることに貢献しないばかりか、それらについて容易に推量もできないような定義はすべて、問答法的(ディアレクティコース)に語られはするが、虚しく語られるというものであることは、明かなことである。
 
 これはさっき言ったようなことですね。本当に存在するものは何かということきちんと真正面に据えて議論しないと、霊魂論は虚しさに陥りますよと明確に言っている。で、私の新しい注では、
 
 ここにアリストテレスの、プラトンとデモクリトス、またソフィストにたいする距離をみるべきであろう。

と書きました。要するにヨーロッパの哲学の流れでいうと、大きな意味で3つある。1つはプラトン的な、俗にいうイデア論の世界。もう1つはデモクリトスのいうような唯物論で、存在するものはすべて物、あるいは物の運動でしかない。それの中道をアリストテレスは歩んできた。この3つがあることをまず理解してほしい。

 今のところを説明すると、要するに霊魂というものは、本当に生命そのものの根源であるとすると、それがこの世に存在する限りは、たとえば植物でいえば幹とか、動物でいえば肉体、身体と一緒になっていないとこの世の中では存在し、存続することができない。逆にいうと、身体的なもの、肉体的なものはどういうふうに働いているかということを調べ尽くすことによって、ウーシアーである魂の何であるかということもわかってくる。そういうことを言っている。

 先程はサイエンスを貶めたようなことを言ったけれど、アリストテレスのアプローチの仕方は非常にサイエンティフィックでもあるのです。肉体がどうなっているのか、それを細かく見ていきましょうと提案する。たとえば聴覚とはどういう働きか、視覚とはどういう働きで、触覚とはどういう働き方をするのか。仏教でいう五感(五識)ですよね。五感の働きについて詳細な検討を積み上げていく。その中でいろんな矛盾があって解けない問題が出てきたら、その根源はどこか別にあるに違いないという推理が成り立つわけです。そこで魂というものの働きを考えましょうというアプローチをしているのです。まず、五感による観察が大事。だから、彼の学問は自然学がベースになっているのです。

 決して哲学者が自分のイデアを世界として構築したイデア論ではないし、神から流出したものとして世界を説明する宗教論でもない。あくまでも目の前で展開する具体的な個物、個々の自然的存在を分析しようと誘っている。そうするなかで、魂というものを明らかにしていきましょうということなんです。 (つづく)

《2021年9月4日》


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