荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 3-1


 ファンタスマ、あるいはファンタシアをどう訳すか。それをこの2年間決着もつけられずにずっとやってきたのですが、つい最近「こうじゃないか」と思いつくことがあって、そのためにもういっぺんファンタシアやそれに当たるような言葉の訳を考えてみると、結構広がりのある話になってきました。
 たとえば仏教の中でも仏様を観相的に感じるときに修行をするわけですね。そのときに思い浮かべる仏の像はどうなのか。この像をギリシャ語で言ったらファンタスマ、つまり英語のfantasyになる。あるいは夢の中で思い浮かぶさまざまな像(イメージ)もある。これもファンタスマ、fantasyをもたらすものになるわけです。

 そういう問題を考えていくと、このファンタシア、ファンタスムをどう理解するかは大きな問題で、わたしがこれまで皆さんに提示した訳は、ちょっと間違った理解に立って注を書いている面もあり、誤解を生む可能性もありました。注を書いた時点ではファンタシアを「表象」としていた。2回目の講義では「形象」と訂正しましたが、テキストではまだそういう訳になっているので、そこは全面的に改めたいと考え、今日の講義の直前になりましたが、訂正した新訳をみなさんにメールで送った次第です。

 わたしは1980年に岡山大学に赴任して、かれこれ40年くらいずっと同じ講義をやってきました。それは「西洋政治史」という講義で、新訳のテクストの配布がぎりぎりになった理由でもあるのですが、学生が数年前にテープ起こししてくれた講義録をまとめて、ひとつの形にしようと思っていたのだけれど、この講義録の内容が一般的にはまったく使い物にならないとわかりまして、もう一回書き直そうという思いになった。これを日本人のための西洋政治史にしなければならないと。
 そういうことから言うと、日本の近現代史との関わりのなかで西洋政治史を考えなくてはならない。西洋政治史、日本政治史の重なりという観点で全部考え直そうと思ったわけです。これはとんでもなく大変な作業になるのですが、少しずつ用意を始めている。

 もちろん私は日本近代史の専門家ではないので、しかも明治維新以降となると150年もの広がりがあるので到底全体像を踏まえて講義することなど容易にはできない。それで現在、いろいろ素材となる資料も読も込んでいるところです。
 たとえば、岩波新書から10冊本の『シリーズ日本近現代史』というのが出ています。それを半分ぐらいまで読み進めましたけれど、これは結構刺激的なシリーズで、ぜひ皆さんも一度時間を作って読んでみてもらいたい。日本のインテリの世界でも明治以降の150年を考え直す、特に第二次大戦の「敗戦」の問題を考え直そうということが、わたし自身の一つの大きな潮流になっている。それを念頭に、わたしも150年の日本の近現代史を世界史の出来事と比較して考え直したいと思っているのです。

 さて、前置きはこのぐらいにして。

 アリストテレス『霊魂論』の第1巻のテクストを改めて見直してみると、これほど抽象度の高い難解な文章にどれほど明確なわかりやすい像を開示できたか、わたし自身疑問に思うところもあります。そのため、重複しますが、第1章のはじめに戻って「おそらく第一には、~」から少し整理して解説したいと思います。
 結局「霊魂とはなにか」ということをアリストテレスは本書で検討しようというわけですが、無手勝流にやるのではなく、一定の方法をもって迫っていこうという話の流れですね。その第一に、研究方法を決めようということで「おそらく第一には~」ということになって、以下、⑨まで続くような方法論上の議論をしています。それらについて説明していきます。

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1. おそらく第一には、霊魂は、諸々の類い(ゲノス)のもののなかで何の類いに属するのか、を判定することである。ここで私が言おうとしているのは、これという何か(トデ・ティ)、すなわち実有(ウーシアー)であるのか、それとも質(どのようであるか)であるのか、それとも量(どれほどであるか)、あるいはすでに区分されている他のカテゴリーの何なのか、を規定することが必要である。
 
 霊魂とはなにかと考えたときに、まず霊魂とはどういう類いのものなのかと問うわけですね。どういう類い、あるいは類(るい)、つまり、いったいこれは何だろうかと。
 そういうときに使われるのがこのゲノスという言葉ですが、ここで私が言おうとするのは、哲学的なテキストでよく出てくる「これこれのもの」とか「あれこれのもの」というときに、目の前にある具体的な個別的なもの、たとえば皿とか石とか本とか、そういうものを指して「これはいったいなんだ」と問いかけるわけです。ギリシャ語でウーシアー、つまり「いったいこれは何であるか」と。
 この「何」にあたるウーシアーにわたしは実有という訳語をあてています。本当に存在している「もの」が実有という意味なのです。そして、それはどのようなものなのか、どういう質のものなのかを問うている。同時に、どれほどの量のものなのか。そういう諸々の区分をしながら、霊魂というものを議論しようという問いの立て方をしています。

 おそらく最初の人にはわかりづらいと思いますが、「これは何か」という問いの最初には、「ウーシアーとは何か」というもっとも難解な言葉、わが国でも正しい翻訳が定まっていない言葉を使っている。ウーシアーを多くの場合は「本質」、あるいは「実体」と訳したり、最近では「本質存在」としたりで、非常にまちまちな訳語をあてている。

 アリストテレスがここで言いたいのは、「霊魂とは本当に存在するものなのか」ということです。これはMtさんのような心理学の人は、よく聞かれることだと思うけれど、心というものは本当にあるのか。すなわちmindというものがあるのかどうか、mindとは何か。それはよくわからない。しかし、その働きはある程度わかる。いろいろな刺激を与えるとどう反応するかというmindの機能はわかるけれど、mindがじっさいにあるのかないのかは本当のところよくわからない。それが近代心理学の前提だと思います。

 この問題には非常に根深いものがある。mind、つまり心、あるいは魂とはわからないものだという前提はどこから出てくるかというと、カントなんです。カントの哲学を読むと、人間にはmindというものが何かを言うことはできませんということになる。
 なぜかというと、触ろうとしてもそれは感覚的なものではないから、どうしても触ることができない。感覚的な、なにか知覚を与えてくれるようなもの、触ったり見たり聞いたり呼びかけたりができないもの、あるいは食べたり匂いを嗅いだりするという、一切の感覚的なものを持たないものは人間には認識不能である。だから、人間に認識不能なものは、その話題に触れたり語ったりしないことにしましょうとカントはいうわけです。

 もしあえて語るすれば、ヌーメノンというしかない。これは、ギリシャ語から来た造語で、仮想体とでも訳せる言葉です。つまり心とは、「あるだろう」「あるべきもの」として想定するしかないものだと彼は言っている。そのようなものは、人間の認識世界からは不可知なものとして捨てているわけです。
 そうすると不可知なものが存在するかどうかは問えなくなるわけです。ただあるだろう、あるべきものと想定してその働きを研究しょうとするしかないのが近代心理学の、おそらく哲学的な前提でしょう。
 アリストテレスの霊魂論は、むしろ真正面から「それ」があるのかないのかと問いかけてくる。このことをまず理解してもらいたいと思います。

 ですから、『霊魂論』を読むときの構えとして、カント以降の近代哲学が前提として持っている霊魂の存在性は問わないということではなく、まずそれを問うことから始める。あるのかないのか。霊魂論を全部読むと、究極的に「やっぱりある」とアリストテレスは言っているのですが、しかしその前に、それはどういうあり方をしているのかという複雑な議論を経る必要があると言うのです。まず、そこが最初の問題。

 それから第2の問題点としては、
 
2. さらに霊魂は能力<デュナミス。可能態>にあるものの一つか、それとも何か完全な働き<エンテレケイア。終局態、完全実現志向態>の一種なのかを規定しなければならない。それらの規定の相違は小さな問題ではないからである。
 
 これもいろんな訳がありまして、講談社の学術文庫版の訳を見てみると、ウーシアーに本質という訳を与えていますよね。いまのところでいうと「可能態」と「終局態」になってます。可能体はデュナミス、終局態はエンテレケイア。この訳は「完全実現態」とか「完全現実活動態」とか、いろんな翻訳があります。
 もともとの言葉でどういうことかというと、「エン」というのは in 、「中に」ということで、「テレ」はテロスというギリシャ語からきた言葉で、目的とか完成。「完成されたものの中にいる」というのがエンテレケイアという言葉の意味です。「もの」といってもある種完成した形で存在しているもの、たとえば芸術作品。優れた芸術家が自分のアイデアに基づいて作品を作ったとしますよね。その作品が完成してわたしたちの目の前にある。これをアリストテレスの哲学用語で言えば「エンテレケイア(にある)」というのです。要するに完成体、終局態だと。

 ところが、それを否定しないけれど、私は霊魂とか生命体を検討するときには、完成体というような、なにか「すでに」できあがった作品というようなものとして霊魂を見ていいのだろうかという疑念に、とらわれるわけです。それはむしろ完成を志向している、完成「しつつある」ものではないか。
 つまり動きのあるもの、生命あるものだと。ちょうどある花を見るとわかるように、花はタネから成長し、完成して花を咲かせる。そういう運動しながら存在しているものと見たほうがいい。そういう意味でエンテレケイアを、完全を実現する意志を持っている、完成を志向しているという、そういう訳のほうがアリストテレスのエンテレケイアを表現する日本語として相応しいのではないだろうかと思うのです。

 それをさらに推し進めていくと、この世のありとあらゆるもの、存在そのものを見てみると、みな動いている。もっというと、生命あるものはただ漠然と動いているのではなく、自分の持っている何らかの能力(デュナミス)を開花させようとして動いているのではないか。これは、アリストテレスが霊魂とは何かを問うときに非常に重要な問いかけになります。

 このことは生命とは何かという問いかけに重要な関わりがあるのだけれど、もしそういう問いかけが可能だとすると、いったい、サイエンスという人間の一つの知性によって、霊魂を捉えることができるだろうかという根本問題に直面することになります。なぜかというと、サイエンスとはなにか具体的な素材の反応をキャッチしたさいのデータの集積ですよね。逆にいうと、数値などのデータによる確証(エビデンス)抜きにサイエンスは構築できない。要するにサイエンスの知識とはデータによってつくられる「作品」なんです。

 しかし、生命というのはいまも言ったように、どんどん時間の経過に伴い移り変わっていくもの。移り変わっていく存在そのものだとすると、そういう存在の「現象」はそれが何時何分何秒のときのあり様として、瞬間を切り取ったさいの姿、いわば静止したデータを取るのがサイエンスなわけです。だから、すべてのサイエンスは、特定の場所と特定の時間で与えられたデータを収集して体系付けることはできるけれど、その反応の過程や変化などの「動き」そのものを含めた「全体」を捉えることはできない。そうすると、サイエンスが霊魂のエンテレケイアを規定した途端に、わたしたちが全的に把握しようとして駆使する知性の手のひらから、何か大切なものがこぼれ落ちていってしまう。

 生物学者の福岡伸一氏などはそのことを指摘しているわけですね。結局、生命は「動的平衡」というある種のもののあり方を指し示す言葉でしか表現できないものではないかと。この場合は生命ですが、魂というものも、そんな生命に似た何かなのか、あるいは、そうでないものなのかという問いかけをわたしたちはしようとしているです。ですから、この規定も非常に重要な問いかけの一つなのです。    
 
3. また霊魂は部分に分たれたものか、それとも部分に分たれないものか
 
 これもまた難しい問題です。第2巻に入るとアリストテレスは面白いことを言っていて、もし霊魂というものが生命力そのものだとすると、たとえば植物も生きているから生命ですが、その生命の根源は部分にあるのか全体なのかと考えたときに、たとえば植木で挿し木をすると、挿し木をした部分からまた全体が出てきます。私も最近友人からもらった紫陽花の挿し木をして、5本やったうち2本しか生長しなかったのだけど(笑)、でも、どこに挿し木の本体があるのかわからなくなった。それは植物だけでなく、ある特定の動物がアリストテレスの生物学的な研究の中に出てきて、体のある部分を切ったところからまた尾が生えてくる動物がある、という例などを書いています。

 そうすると生命というのは一体どこにあるのか。部分にあるのか全体にあるのか。そういう話です。これまた難しい問題で、現代生物学も幹細胞からすべての臓器ができるという話なのか、幹細胞どころではなく、普通の細胞でもよく科学的に追求していけば再生力を持つことが発見できるかもしれない。ちょっと勇み足をして、それも一時STAP細胞みたいな怪しげな話になってしまいましたが。私の友人のウイルス学の先生に聞くと、「あれだって可能か不可能かまだ立証されていません」というくらい、生命というのは部分で切れるか切れないかという厄介な問題がある。現代生物学でもそういう問題が取り沙汰されているわけだけれど、アリストテレスにおいても「生命(もしくは霊魂)は部分を持つのか持たないのか」という問題がある。

 だから、生命は心臓に宿るのか、身体全体に宿るのか、あるいは脳にそれは宿るのかという大きな問題に長く人類は直面しているわけですけれども、ある面でこれは現代科学にとって未解決の大きな問題でもありますよね。人間とは何かを問うときに脳死を以って人間の死として見れるのか見れないのかなどの大論争もある。  確か仏教学の梅原猛、彼は脳死反対です。脳死になっても子どもが生まれてくるケースがある。そうすると脳が死んでも身体が死ななければ霊魂はあるのではないか。そういう問題があって、身体と霊魂を切り離すことはできない。ましてや脳と身体と生命を切り離すことはできないと。こういう問題が降り掛かってくる。霊魂にとって、部分にあたるものがあるのかないのかという問題を考えなければならないのです。
 
4. さらにすべての霊魂は同一の種類(ホモエイデース)か否か
 
 人間同士において霊魂は皆同じものなのか。いや、全部違う。では、全部違っているとしたら、共通部分があるのかないのか……。そういう議論があるけれど、これも西洋2千年の間、神学論争があって、「知性一元論」と「知性多元論」と激しく論争が続けられきたわけです。 
 
5. もし同一の種類でないならば、それは種(エイドス)において異なるのか、類(ゲノス)において異なるのか、規定しなければならない。なぜ今この点に触れるかといえば、霊魂に言及し、探求している人々が、もっぱら人間の霊魂だけを考察しているように見えるからである。
 
 これまた非常にややこしい問題です。たとえば学術文庫の訳では「種において異なるのか類において異なるのか考察すべきである」となっています。では、類と種はどう違うのか。

 繰り返しますが、類というのはギリシャ語ではゲノスという言葉で、種はエイドスという。じゃあゲノスとエイドスはどう違うのかというと、これがなかなかに難しい。おそらく私の推測ですが、ゲノスは生殖をするゲネーシスという言葉からきた言葉で、「人間が人間を産む」というような生殖的な同一性を非常に色濃く反映した言葉です。
 それからエイドスというのは何かというと、アリストテレスの重要な哲学用語の「形相」と同じ言葉で、要するにそのものを最も支えている根拠になるようなものとしかいえない。だから、どちらかというと抽象度の高い意味での区別。人間でいえば、知性とかそういう種類に即した規定ではないか。ゲネスはもう少し身体的な、生殖的な意味で同じようなものを指す。まあ今日風には、遺伝子のタイプが同じというようようなもの。そういう言葉です。

 同じ遺伝子でも種が違うことがある。ここは Mt さんに聞きたいけれど、一卵性双生児は遺伝子が同じと言ってよいですか。

[ Mt ] 心理学では一卵性双生児は同じとされています。だから、本来であればまったく同じものになるはずなんです。ただし一卵性双生児の研究は非常に古くからありまして、産まれてから違った場所で長く離れて育った場合は、離れているにもかかわらず、まったく同じ人格が出る人と、違って出て人がありまして、その研究はずいぶん進んでいます。ですから、同じ場合はおそらく遺伝子が大きく影響しているのでしょうけれど、同じ人間でも、育った環境で変わる部分もあります。

 おそらくアリストテレスはその問題を念頭に置いて言っていると思う。つまり、まず身体的機能について瓜二つなのか異なっているのか、と問う。でもそれが同じだとしても、エイドス(形相)という側面、つまり人格という面で同じであるかどうかという、もう一つの問いが成り立つだろうと。そういう問題ではないかと思います。

 そうやって見るとこの問はけっこう重い問いではないでしょうか。つまり人間におけるエイドスは、身体的な共通性に還元できない相違点を見なければいけないのではないか。そんな問題提起がなされている。

 最後に、ギリシャ人の中でも人間の魂とは何かと考えた人が多くいますが、アリストテレスが言っているのは、魂は人間だけが持っているものではないということ。他の動物も持っている。さらに、少なくとも生命を持っているものはすべて霊魂というものを持っていると主張している。
 しかも、その重要な規定の一つは霊魂は神的なものだと彼は言っている。東洋的には悉有仏性(しつうぶっしょう)の仏性を霊魂に置き換えていえば、「すべて存在するもの、生きているものは霊魂を持つ。それゆえにそれは尊いものだ」と。そして、霊魂あるものは、人間なら人間を産み、ライオンはライオンを産み、植物は同じ植物を生む。その繰り返し自体が最も神聖な神的営みだと主張しているんですね。このことをアリストテレスは『政治学』で述べています。

 その意味で、アリストテレスの世界は生命=神的存在という捉え方です。多神的世界といえば多神的であることは確かだけれど、それを一神教的なものでもあるというふうに、たとえば彼の崇拝者、研究者でもあったトマス・アキナスなどは受け取っているのです。
 ですから、ここではっきり言えるのは、アリストテレスは、人間だけが特権的な最高の存在で、その他の生命体は人間によってコントロールされるべき存在であるという、そういう人間中心的な世界観の持ち主では決してなかったということです。

 そんなギリシャ人の哲学に対して、聖トマスは最高の尊敬を払っているわけです。それと同じことの繰り返しになるけれど、新約聖書のパウロの伝道。パウロがアテナイのアゴラ(広場)で自分のキリスト教を布教しようとしたときの有名な文章があるのですが、そこでは、そのとき「パウロの魂は動揺した」と表現されている。しかし、今の聖書の共同訳はそういう言い方になっていないんですよ。「パウロは憤慨した」と書いている。ギリシャ語で読むと、本来は憤慨したというより「パウロのスピリットは非常に多くの刺激を与えられ活性化した」と書かれているんです。
 まあ、だからイエスとその弟子たちの時代は、まだギリシャの哲学者あるいはギリシャ的な信仰に対して敬意が存在していたと。これは余談ですが、いずれにしても、霊魂とは何かということを、そんなことも念頭に置いて検討していきましょうという話です。

 ということで、
 
 しかしながら、霊魂に関する言(ロゴス・共通的根源観念)が生命体に関する言(ロゴス)と同じように一つであるのか、あるいは、ちょうど馬や犬、人間、神のそれのように、各々に即して異なっているのか、他方で生命体は普遍的(ト・カトールー)なものとしては、何も存在しないのか、
 
 この「言」と訳した言葉、他の多くの訳は「説明規定」などと無味乾燥な言葉になっています。原語はロゴスですが、ここでわたしは、これも硬くはあるけど「共通的根源観念」、人間がもともと持っている共通の観念という意味に解しておきました。じつは『霊魂論』全体を読み通しただけではロゴスを規定するには不十分です。ここではとりあえず、共通の根源的観念であると同時に、バランスの取れた感覚の上に、という言葉を付け加えて理解しておいていただきたい。

 『霊魂論』第1巻第1章が終わればすぐに第2巻に入りますが、第2巻の中で、アリストテレスはびっくりすることを言っています。「感覚はロゴスだ」と言っているんですね。ということは人間の感性というものは、人間のロゴス、わたしたちは理性とか知性とか言っているけれども、感覚も人間の知性と無縁のものではなく、知性と触れ合っているのだという理解が出てくる。どうやって触れ合うかというと、たとえば音楽にしても言葉にしても、それから「目」の力ですね、見ることを通じた認識、理解にしても、光の波長、音の波長と同期したバランスの上に立った感覚が感性であり、ロゴスであるという理解が出てくる。

 だからロゴスは、バランスの取れた感覚の上に立つ共通根源的観念であると理解したい。そういうロゴスによる霊魂に関する観念が、生命体に対するロゴスと同じ一つのものであるのか、あるいはちょうど犬や馬、人間などのようにそれぞれに即して異なっているのか。人間がさまざまな生命あるものに対してさまざまな感覚をもち、思いをもつ。それらはすべて違うものなのか。それとも生命体として普遍的に同じものなのか。あるいは、彼はそれは「普遍的なものとしては何も存在しないのか」という言い方をしている。ここは非常に重要です。

  いっぽうでは、わたしたち人間は、生命と言っているけど、そんなものはない、人間の錯覚にしか過ぎない、ある種の自動機械みたいなものだという説もあるのですね。生命とは、ある時スイッチを入れられたら自動的に動く運動体であって、そこに存在物としてのものはないという人もいます。

 それから、人間が生きているというけれど、では人間というものはどこにあるのか。これまた人類の歴史の中で東洋においても西洋においても、人間とは何かというときに問われる問いです。つまり「人間」を見せてご覧なさいと言われても誰も人間というもの自体を見せることはできないだろう。だから、それは単なる観念にしか過ぎませんと。観念というのはシンボルですね。人間とは、個々の人間たちが共通のシンボルとして作った単なる抽象的な構築物に過ぎませんという言い方もできるわけです。だから、何も存在しないと。そういう議論がある。

 東洋においても「霊魂というものは存在しない」とする考え方が、少なくともインドにおける仏教観の中にはある。これは前に皆さんにも紹介した『ミリンダ王の問い』という本の、ナーガセーナという長老の示す言葉として出てくる。霊魂などはありません。あると思うのは錯覚です。あるというなら見せてごらんなさい。車ですら、目に見える車ですらじっさいはないのですから、霊魂があるわけがない。あると思うようにわれわれの知性が作り上げた一つのイリュージョンなんだというのが、少なくともインド仏教のなかにある一つの考え方です。
 もちろんインド仏教にはそれだけではなくて、大乗仏教の中にもいろんな説が出てくるわけですね。代表的な例でいうと「真如」という唯識論の中に出てくる言葉があります。真如(普遍的な真理)は存在するものだと。そういう説ももちろんあるけれど、インドの中で大きな力を占めるのは、普遍的なものはない、だから霊魂も存在しないという見方。

 それから、
 
あるいは「より後のもの(ヒステロン)」なのか、という点も忘れないように注意を払うべきである。また同様に、他の、生命体に共通の何らかのものが述語として規定されるのかどうか、という問題にも注意を払わなければならない。
 
 この「より後のもの」とはヒステロンというギリシャ語で、これについては新訳の注釈を見てほしいのですが、たとえば『形而上学』第5巻に、プロテロン/より先のもの、ヒステロン/より後のものというように出てくる非常に哲学的な用語として当時のギリシャ人、少なくともアリストテレス学派の中では共通用語としてよく用いられた言葉です。それは、比較するにはなにかの拠点、根拠がなくてはならないけれど、それがたとえば起源・根源を持っているものだとすれば、ある物事の後に出たものか、その先(前)に出たものかで、その前後関係を考える必要があるということです。

 ここではそれがどういうものかというと、「より後のもの」というのは、いちばん本質的な、大切な、存在しているものが生まれて、その上にいろいろなものが付け加えられてできた「飾り」みたいなもの。もっとわかりやすくいうと、物質的なもの。肉体的なもの、物質的なものを「より後のもの」と言っていいと思います。では、霊魂はどうなのか。そういう点に注意して区別していきましょうという話です。<つづく>