荒木 勝のアリストテレス『霊魂論』講義 2-3

<2-2 からの続き>

[ Ng ] 形象というと、なんだかフォアシテルング(Vorstellung)に近い?

 そうですね。フォアシテルングに近いね、例えるわけだから。ドイツ語でVorstellungという訳もありうるでしょう。しかし、それを日本語にした「表象」というと、なんとなくまとまりがない。もうちょっとまとまった形でないと形象とはいえない。イメージはできるけれど。だから、ばらばらになった感覚ではなく、一定の意味を持った姿にまとまった形になるのがファンタシアではないかと私は思っている。
 それに比べると「現象」というのは、感覚とファンタシアの中間領域になるかもしれない。そこのところはこれから厳密に読み進めていくなかでより精確な理解をしていきたいけれど、今日のところはアリストテレスの霊魂の働きの最も重要な作用としてのファンタシア形成という、最初に出てきた言葉の説明ということで。

 ***

 では、次の注(6)を読んでほしい。

 ここにアリストテレスの存在論、認識論の核心を読み取ることができる。人間の知性は自らの志向する「もの(res)」の存在に向けて光と音を発しながら、ものの存在が発する光と音を受容し、すなわち、ものと霊魂との出会い、相互作用を前提とし、さらにその受容を前提にしつつ、人間知性の一つの能力たる能動知性による、抽象による存在洞察と発見、存在創出をおこなう。これが、知のエネルゲイア、完全実現態、知られ得るものと知るものとの一致、ということであろう。

 これは、「直知されうる部分を直知する部分に対して優先的に探求すべきであろうか」というところにつけた注です。この場合、直知を「知覚」と捉えてもよいでしょう。要するに人間の知性とは何かというと、端的に言えば外界と魂の働きの相互作用だけれど、魂の働き自体もある種の知性の光を発している。そして、驚いたのですが、これからだんだん言及が出てくるんだけれど、アリストテレスが知性の光というのは目の問題であるのだけど、知性は耳からも聞かれうるものとしている点。耳から聞くときに空気の振動によって人間は知性的理解をするのだということがあるので、彼はある種の振動性というものを知性の受容に対して非常に重視しているというのです。

 ここに、ある種の音というものに対する示唆がある。それはただ単に自然界から出る音だけではなく、人間自身の中に含んでいる音というものもあると彼は考えているということ。後で耳の動作理解の中に出てくるけれど、自分の体内の耳の中に取り込んだ外界の空気の振動を三半規管と共鳴させることによって、音の意味を知るという文章がある。つまりその場合も、人間が何らかの音を出し、共鳴をするから理解するのだろうと私は解釈して、こういう文章になったわけです。
 つまり人間がものを理解するということは人間自身が出している光と音と、それから「もの」が出している光と音とが重なったときに、人間ははじめてものを理解することができる。で、その理解を前提にしながら、それに加工する力というのが人間には与えられていて、その加工する力によって新しくものを創造することができる。こういう理解がおそらくアリストテレスの認識論の根幹にあっただろうということに、たまたまこの翻訳をするときにインスピレーションを感じたので、まあ、こう書いてみたわけです。

 これはおそらく霊魂論講義の最後の方に総括としていわなければならないことだけど、いま、あえて触れておきます。また、おそらくどこかで、佐伯啓思氏なり他の人が支持するところの西田哲学に対する根源的な批判につながっていくだろうとも思いますので、ここのところをよく覚えておいていただきたい。

 
[ Mt ] いま、ものとものから発するもの、人間から発するものによって、人間には加工する力があるとおっしゃられたのですが、メルロ・ポンティが「出来事に対して意味を生成する力」と言っていたのとよく似ていると思いました。これは無関係なことでしょうか。

 いや、まったく同じ。意味を生成するとはまさに存在創出と同じことなんです。逆に松下さんの質問に対して聞きたいのだけれど、存在創出の前提としての存在受容、つまり人間とものが触れ合ったときにまず大事なことは、人間はそれを受容するということ。出会いとはまず受容であると、メルロ・ポンティたち現象学者は明確に定式化しているのか確認したい。

[ Mt ] メルロ・ポンティ自身ではないのですが、カウンセラーの父といわれるカール・ロジャースというカウンセラーがいるんです。彼が現象学的カウンセリングということを言い出したのですが、彼はメルロ・ポンティの影響をものすごく受けている。来られたクライアントを全面的に受け止めろ、受容せよといっているのです。先生がいま言われた受容という問題は、カウンセラーの精神のあり方としても意味があるのではないかと私は思います。

 だから、受容がいかに人間の知性のベースであるかということがもう一つの重要な側面であり、そのうえで人間は創造していくのだということです。

[ Is ] その場合の受容とは「パトス」と関係していますか。

 まさにそうです。いままで受容態として出てきましたよね。前のページのところに、「霊魂の諸々の受容態(パトス・感受の複数)」とあります。パスコーという動詞がある。要するにreceiveするわけですね。英語でもperceptionという言葉がある。passive、すなわち受ける、すべて受けとって、そして創造していく。
 だから感性もまた、よい意味の受容ですよね。感性も二通りあって、肉体的、つまり五感的感性。そして知性的な感性。両方をアリストテレスは分けている。それが相即不離、繋がりながら人間にさまざまなサインを与える。ただサインを与えたとしても、完全な受容というよりも、ひとつの出会いなんですよ、それは。私が申し上げたいのは、出会って受容するということ。

 人間が光を発するということ、人間の「眼力(メヂカラ)」の話とも通じると思いますが、たとえば猫の目には反射体が生物学的にそなわっている。夜でも光を反射して眼が光るように見える。だから、人間の眼は猫より退化していたとしても、受け取った光を反射するという力はある。眼は光を反射する、そして万物も太陽の光を反射する。それが相互に重なりあってできあがったのがまずは人間の感覚。感覚体で感覚として受容し集めたものが、第一義的にはおそらく表象といってよいものでしょう。つまりファイノメーノン。その現象として表象してきたものをある程度集めたのがファンタシア、形象というものだろうと考えます。
 

[ Fr ] 人の人格を表現、評価する言葉に「風韻」という言葉がありますよね。その方の人柄に深さ、爽やかさを感じたときにそういう表現になるような言葉。この種のことも同じような理解でいいのでしょうか。この光とか音とか––。

 つまり、人間の身体というのは、そういう光や音を発しているということですね。

[ Fr ] それでお互いにコミュニケーションしているということですね。

 そうですね。

[ Fr ] このZoomなんかだと、お互いコミュニケーションがイマイチなのは、そういう振動の伝わり方が……。

 ない。

[ Fr ] 直接お会いして話していたら、たとえば横に座っているだけでなんとなく隣の人の反応が振動で伝わるとかね。そういう種類のことをここは表現していると理解してよいんでしょうか。

 私はそう解釈しています。だから文学的に言えば、「この人は存在感がある」というような局面では、風韻があるという言い方もあるでしょうし、その人の魂が発している振動と光を、私たちのうちの感受できる人が感受するということでしょう。
 
[ Fr ] 「わかるひとにはわかる」とかね。
 
 いろいろな言葉があって、「似たものが似たものを感受する」とも言いますね。

[ Fr ] まあそうでしょうね、「類は友を呼ぶと」とか。
 
[ Is ] 「愛」でもありますね。
 
[ Fr ] ああ、そういう不得意分野を持ち込まないでくださいよ(笑)。
 
 なんですって?
 
[ Is ] 愛です。たしか、トマス・アキナスもそのようなことを言っていたと思います。
 

『ニコマコス倫理学』でも、お互い恋人同士が見つめ合うことが最高の喜びだと、まあそういうことですね。やっぱり、光と光の出会い、音と音の出会い、あるいは熱量と熱量の出会い。こういうものが魂の付帯的な力としてわれわれは発出しているので、そういうことを分析していきましょうということです。
 
[ Ak ] この光と音、これを他の言葉でいうと波動とかエネルギーとか……。
 
 正確な言葉は忘れたけれど、ギリシャ語では人間の声と音は違うものなんですよ。音というのはわかりやすくいうと機械的な空気の振動なんだけれど、人間の声はフォネー、フォネスだったかな? これはハルモニアを醸し出すものだと。ハルモニア、すなわち調和する振動があって、人間はそこから意味を引き出すことができるのだと。
 
[ Ak ] 英語で言えば、sound と voice の違いのようなものですか。
 
そうそう、どこかの注に書いたと思うけれど。soundは普遍的な振動で、voiceは調和的な振動なんです。つまりそこには意味が込められているから理解可能なんですね。そういう働きが魂にはありますよということ。

 ***
  

では、もうちょっと先にいきましょう。
 
 さて、霊魂の諸々の受容態(パトス・感受の複数)においても難問が存在する。すなわちそれらはすべて霊魂を持つものに共通のものか、それとも、それぞれの霊魂に固有の受容態なのか、という問題である。実際、この点は必ず理解されねばならないが、容易にはできないことである。しかし霊魂の受容態の大部分はどれも、肉体がなければ受容したり、創出したりしないように思われる。たとえば怒ったり、勇気を出したり、欲望したり、また一般的に感受したりすることなど、である。だが、とりわけ直知すること(ノエイン)は、霊魂に固有なことであるように思われる。しかし、これはある種の形象(ファンタシア)であるか、表象なしにはあり得ないものであれば、これもまた肉体なしにはあり得ないであろうから。
 
 最初のところはわかりにくいかと思います。先ほどの話の続きでいうと霊魂というのは「なにかを受ける」という能力がある。そこにも大きな問題があって、それはすべての霊魂に共通のものなのか、それともそれぞれの霊魂に固有の受容態があるのか、という問題です。人間ならすべての人間が感じるものなのか、あるいはまた、人間によって、感じる場合もあれば感じない場合もあるというようなものなのか。それはなかなか難しいと言っている。

 しかし、霊魂の受容態の大部分はどれも肉体がなければ受容したり創出したりしないように思われます。そこからアリストテレスの霊魂論の非常に重要な特徴が出てきます。霊魂とは知性だとすればですが、知性の働きさえちゃんと検討すればいいのだと、まあ、普通であればこうなってしまうのだけれど、アリストテレスの霊魂論はまさに肉体と相即不離に結びついて働くと考えているんです。
 だから怒ったり勇気を出したり欲望したり、肉体と一体になって感受したりする。このへんもなかなか難しいところ。

 では、知性というのは本当に肉体抜きにはありえないのか、肉体はなくとも魂はあるのかという問題がありますよね。特にプラトンなんかは、「肉体が心を迷わせる」のであって、心を迷わせないようにするために肉体から脱する必要がある。そういう話になっていくわけです。だから究極的には、インドでもヨーガという作法が編み出されて、人間の知性そのものを完全に開発するように、できるだけ肉体的欲求を鎮めて発動できるようなトレーニングをしましょうという、そういう修行もあります。それで仏教にもヨガ派というのがでてくる。

 だけどアリストテレスは「人間の知性は肉体抜きにはありえない」という。とりわけ直知すること、すなわちノエインすることは霊魂に固有のことであって、これはある種の形象なしにはありえないものであれば、これもまた肉体なしにはありえないだろうからです。
 そういう意味で、知性の、ヌースの働き自身も、人間の身体の働き抜きには成立しない。そういうことを言っている。注があります。
 
 ここで直知と形象との関連が問題となる。『ニコマコス倫理学』第6巻第11章の箇所では、究極の個に関わる感覚知と、これを行わしめる直知とが語られている。また形象とは個別の感覚知に基づいて、知性内部で形成されるものである。
 
 アリストテレスはここで何を言っているのか。ただ単なる感覚の連なりでできた現象、それだけではファンタシア(形象)は成立しないということ。なんらかの知性の中でファンタシアが形成されなければいけない。「究極の個に関わる感覚知」とありますね。人間の感覚知というものは、なんらかのファンタシアが形成されなければ知ったということにならないとすれば、それは単なる感覚だけではわからない。知性が働くことによって、ここでいう形象ができるのだということ。そんなことがニコマコス倫理学第6巻第11章に出てきましたね。思い出してみてください。
 だから、日本はそれほどではないけれども、現在ヨーロッパを席巻している現象学、これはいったいどういうものなのか。それが究極的に人間の魂とどう関わるのか。どこかでじっくり時間をとって話したいと思います。それが「もの」の存在とどう関わるのかという究極的な問題につながっていくだろうと考えているからです。
 

[ Mt ] 「これもまた肉体なしにはありえないであろうから」とありますが、そうなると、死んだらおしまいということですか。
 
 その「おしまい」とはどういう意味ですか。
 
[ Mt ] 死んだら肉体はなくなるのですから、無に還る。魂もなくなり、いわば仏教的な形の「無」になるのかと。このことをどう考えたらよいのでしょう。
 
 そのことこそが、アリストテレスのアリストテレスたる所以なんですよ。人間の魂―知性とはさっきいった光だから、鏡はなくなるけれど光はなくならない。
 
[ Mt ] 深い話ですね。
 
 その光は個個別別の光なんです。それは今日の最初に出てきたアリストテレスのティミオスという魂の尊厳性に関わってくる。ただし、光だけども、動物一般にも光がないかというと、動物にも光がないわけではない。しかし、それは鏡のようなものであって、個々の鏡が失われれば光も失われるのだけれど、動物における鏡には永続化したいという欲求が伴うと彼は言っている。だから生命体というものはすべて永続を求めて運動するといっている。だから、雌雄、夫と妻が一体となって子をなすのだと。
 そのように永続するものを生命体は志向する。それこそまさに生命の輝きに満ちた活動なので、ティミオスという最も尊厳に満ちた行為であるということになるのです。
 

 ***

 すでに乱暴なまとめに入ってますが、最初のAkさんの問題提起(夫婦別姓についての最高裁の判断)に引きつけていうと、まあ私の理解ですが、人間すべて、個々において光というものがある。その光は最高の知性で、かつ自由意志を持った欲求の担い手です。だから、夫婦が自発的な意志で結びつくことが最高の幸せなのです。自発的な意志に基づいて結びついて、そして、その結合から子をなす。このことには生命体そのものの根源に関わる欲求があり、尊厳性がある。その全体を自発的な形で同意をしてほしいというのがアリストテレスの立場ではないかなと私は思う。
 

[ Ak ] 家族の姓(氏姓)のことでいうと、家族を作ることも子をなすことと同じ意味合いですよね。そうであれば、家族を作るにあたってどちらかの姓を選択しなければならないとなったときに、お互いが対等な立場で姓を選ぶというプロセスを経なければいけない。そのプロセスを是としないという(最高裁の)判断は問題ではないのでしょうか。
 
アリストテレスのものの考え方からいうと、それはそれぞれ固有の自然法の世界です。それぞれの文化・風俗・習慣のなかで形成されてきた合意の正当性に関する慣行の中で判断しないといけない。特に今回は法の問題でしょう。法とはまさに、アリストテレスの用語で言えば「合意」ですよ。正合意論の産物として考えなさいということ。だから中国は中国なりに妻の姓でやっているわけだし、いろんな文化の度合いが違うから、それぞれのあり方を選択しなさいとなる。国家として大部分の人たちが合意できる法を選べばいいのであって、そういう話ではないでしょうか。
 
[ Ak ] わかりました。もう少し僕なりに考えてみます。ただ、「夫婦別姓を選べる選択肢があるべき」と言い切れない理由が法学的にはあるのでしょうか。
 
それはそれぞれの諸国民の特質に委ねられるということです。国民的な意味での自発的選択として、何が正合意なのかで法は決まるのだから。でも、その前提は、それぞれ個別に持った知性の自由な光の主体者の選択だということですね、いまの話で言えば。

  Mtさんの話に戻ることになりますが、魂が肉体と相即不離に結びつきながら、それとは別に離在するということにもつながる。魂には肉体を離れた働きがある。それが創造的知性という、アリストテレスの言葉の示すものだと思います。
 だから、その意味では、ヒンドゥー教に近いのかもしれない。つまり、アートマン。永遠不滅の知性が人間には残るという––。そういう観点をアリストテレスは継承している。おそらくそれは、わたしの直観だけれど、人間がある種の文明状態に達したとき、歴史的には紀元前5千年ぐらいに、サンスクリット、インドゲルマン民族が集まりますよね。そこでできたインドゲルマン語族のなかの大きな文化的判断というのがあって、それで人間の魂だとか知性だとかいう言葉を作ってきたのだと思うのです。そういうものの一つの現われがヒンドゥー的な、またサンスクリット的な側面だろうし、おそらくはギリシャに伝わったヌースの世界ではないのかなと。あるいは、セム語族のヘブライでも同じですね。
 

[ Ak ] いまじつは『ヒンドゥー教10講』(赤松明彦著、岩波新書)という本を読んでいて……。
 
 私も読みました。 

[ Ak ] 先生は講義のはじめにミリンダ王の話をされましたが、この本にもミリンダ王の話が冒頭に出てきます。先生の講義とこの本の内容がリンクしているように感じられて非常に驚きました。
 
 まあ、確かにミリンダ王の話をしたのでね。ただ、せっかくですから、赤松さんが十分紹介していないところをちょっとだけ、番外的に紹介しておきましょう。

 ミリンダ王はナーガセーナなという長老と問答する。そのときに今日の講義と関わるけれど、そもそも人間には霊魂、あるいは判断主体というものが存在するのかどうかということをいろいろ話するんですよ。そのときに非常に有名な、ナーガセーナが持ち出した譬え話があります。

 王様、あなたは私との対話のために、ここにやってきたけれど、何でやってきたのか、と彼は聞く。まあ、プラトン的対話ですね。で、「車でやってきた」とミリンダ王は答える。「そうですか」と長老。では「車でやってきたというのなら、私に車というものを見せてください」というわけです。で、王様は、「車はここにありますよ」。長老は「どこにあるんですか」と。そういう話がずっと続く。
 仕方ないから王様は一つひとつ車軸とか車輪とか、そういうものを指差すわけです。するとナーガセーナは「それは車輪であって車ではない」とか、いろんなものをいっぱい挙げるのだけど、結局、王様はナーガセーナに車というものを説明することに失敗する。
 「ではいったい車とはなにか」というと、ナーガセーナは「いや車というのはそもそも人間が名付けた名前なんです」と答える。ナーマルーパでしたかね。色即是空の「色」ですね。それは人間が名付けた名前にしか過ぎない、つまり実体的に「車」など存在していないと。その例と同様に、人間の判断主体である人格も、ナーガセーナという人格も主体としてはありませんよというわけです。あなたと私の中で成り立つ約束事にしか過ぎないんだと。そういわれて、最後はミリンダ王も納得する。

 こういう話を聞くと、この世の中に真に存在するものは何であるかということを、いかに真剣に、当時のバラモン階層や知識階層は問答していたのがわかりますね。
 
 きょうの議論の総括としていいますが、では、アリストテレスだったらどう考えたか。アリストテレスは、たしかにそれ(車)は車輪であり窓でありその他の部品の集まりではあるけれど、そういうものを受容して組み立てるという形で、一つの新しい存在物を作ったのだということでしょう。それをわたしたちは一つの存在物として共有するのだと。
 一軒の家もそうですね。(部品を)ばらばらにしたら家などない。だけど、それが家というコンセプトでこの世の中に存在している限りで、わたしたちはそれを家として存在しているといっているです。そういう形相、家というコンセプトである形相と質料があって、家というものが存在している。人間においても肉体と精神というものが合体して存在しているのだと、そういうふうにアリストテレスは言うだろうと思います。

 つまり、わたしたちが「存在する」というときには、いろいろな意味における存在があるのだということ。質料的な存在だけではなくて、形相的な存在もあるし、形相と質料が合体した存在もある。その意味で、存在という言葉に対しても多様な理解を打ち立てないことには、わたしたちが真の相互理解に達することなどできない、と。

 ***

 今回の講義はここまでにしますが、こういう調子でかなりスローペースです。とくに第1巻第1章は、とにかくやたらとややこしい言葉が連続して、これでもかというばかりに出てきますので、ここだけは我慢していただいて、ある程度共通理解が得られれば、おそらく第2巻に進んでもいいだろうと思います。2巻では、今日ちょっとだけ触れましたが、見ること聴くこと触ることなど、要するに五感のそれぞれが人間の知性形成にものすごく重要な役割を果たしているということを事細かに分析しています。そして第3巻に入ってファンタシアの世界。ファンタシアからヌースの世界へ展開していく。そこまで話を進めれば『霊魂論』の大まかな全体像は理解できるはずです。

 そして、そのことを通してもういちど、日本の精神的な危機、佐伯啓思氏がいみじくも言ったように日本人の自立的な精神の根幹を揺るがすようなこの時代に対して、わたしたちなりに立ち止まって、根本から考え直すための土台を作っていければと思っています。
 
  《しばらく雑談の後、第2回講義終わり。2021年6月26日》

 


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