荒木勝のアリストテレス『霊魂論』講義 2-2

 

 では、はじめての受講者もいるので、確認の意味でもう一度、第1巻の冒頭からテクストを読んでみましょう。

 われわれは、知ること(エイデーシス)を、美しいもの、尊崇に値するものと考えているが、その厳密さという点からも、また一層優れたもの、また驚嘆に値するものという点で、ある知は、他の知よりも一層美しく尊崇すべきものであると考えているが、この両方の性格(厳密さと尊崇すべき点)のゆえに、霊魂の探求を第一の位置に置くことを、当然のことと見なすのである。

 まず、「尊崇に値する」という言葉の重要性に前回言及したかと思いますが、尊崇は「ティミオン」という言葉の訳で、これはアリストテレスの文脈の中では神的、宗教的と言っていいほどの重要性を持つ対象にたびたび与えられる形容詞です。そういう意味でとても重要な言葉で、そもそも霊魂に対するアプローチの仕方が、単純な意味で近代的な、科学的なものだけではないということを意に留めておいてください。

 また霊魂を知ることは、すべての真理認識(真実把握)にとっても貢献するところ大であるが、とりわけ自然本性の探究にとっても、最大の貢献をなすであろうと思われる。なぜなら霊魂は、生きているものの根源のようなものであるから。

 この部分については、現代学術文庫のものと対比してもらいたい。そっちの訳を読むと、

「心を認識することは真理全体に対して大きく寄与するが、何よりも貢献するのは自然との関係のように思われる」とあります。

 心(本講義では霊魂)と自然との関係といっても、あまりピンときませんよね。なんで心、あるいは魂を研究することが自然との関係になるのでしょう。それは「生きものの根源」のようなだからとある。生物の原理だから心を認識すれば自然と関係するというのは分かる気もしますが、はたしてそれだけのことなのか。私の翻訳をもう一度見てほしい。

 じつは「自然」という言葉が示す意味が、わたしたちが近代用語として使っている自然とまったくといっていいほど違うのです。ここでいう自然は原語でフュシスですが、フュシスには定った訳がまだない。しかたがないので私は「自然本性」という造語をつくったのですが、ギリシャ語のフュシスはラテン表記ではphysis、英訳ではnatureですね。

 このフュシスは何かというと、『形而上学』の定義でいうと「自ら運動する起点を持つもの」なのです。だから典型的にいうと、生命体が最も自然的なものということになる。そしてそこに自然そのものが生成発展するものであることが含意されている。近代的な常識からいうと、ほとんど大部分は地球の植物とか鉱物とか、あるいは鉱物の堆積物である山であるとか、海とか、そういうものを自然であると理解している。で、生物体もなにか物質的なものが、何かのエネルギーを吸収して動いている一つの受動的な自然物であると。

 だから、そこには法則性があって、その法則性を探求してコントロールできるものをわたしたちは自然と考えている。ですから、近代人にとって自然というのは操作可能なものだとしている。人間以外の操作可能なすべてのものを自然だと理解しているけれども、アリストテレスの規定では、自然とは自ら運動する力を持ったものという定義になるのです。そうなると山とか川とか、これはいろいろな理解の仕方があるけれど、デミウルゴスというまあギリシャ人の一つの空想ですが、「創造主」がものをつくったときに設計図とエネルギーをそれ自体に投げ与えて動いているものということになる。自動的、つまりautomatic に動いているものという意味なんですね。それらは制作者のアイディアに基づいて自動的に動いている。だから自ら発展展開するということはない。自らの意志で発展展開するのは生命体としての自然だけ。

 もう一つの問題は、生命体の中でも最高度に自らものを作り上げる能力をもったものが人間であり、そして自ら作り上げる能力を持ったがゆえに、自然物を使って新しいものをつくることができる。だから、わたしたちを取り巻く家とかクルマとかも、他のあらゆるモノも広義には自然物ということもできる。

 アリストテレスにとっていちばん大事なことは、いったいそんな自然<フュシス>とは何なのかを探求することだった。それは自然を突き動かしている内在的な運動の原点は何かということを探求することでもある。それを「原理」と訳した途端に非常に法則的であるという感覚がでてきて、最初に起点が与えられてずっとそれが繰り返されると捉えられてしまうので、むしろ、原理を作り出す根源<アルケー>の方が肝心で、生きているものの根源にある自然<フュシス>を探求することが霊魂論の目的であると言っているのです。

 残念ながら近現代の生物学も生命の根源とは何かということを、これほど発達した生命科学があってもまだ何ひとつ論証できていない。せいぜい福岡伸一さんの定義のように、生命というのは「動的平衡」だと言ったあたりでとどまらずを得ない。しかし、動的平衡といった途端に、それは現象的な規定でしかないなくなる。なぜ動的平衡があるのだと、動的平衡というものを引き起こす根源はなにかということに、未だサイエンスの定義は到達してはいない。

 アリストテレスの哲学は、その起点とはなにかということをサイエンスとは違う形で可能な限り表現しようというもの。それがまさにメタフィジカ(形而上学)、わたしのいう「超自然学」なのです。フィジクス、すなわち通常 nature といわれるものを超えていって、はじめてフュシスという世界を描こうという哲学が成り立つだろうというのが彼の考え方にほかならい。

次を読んでみましょう。

 さて、われわれが追求するのは、霊魂に自然本性(フュシス)とその実有(ウーシアー)を観て(テオリーサイ)認識することであり、次いで霊魂に付属しているものをも観て認識することである。その霊魂に付属するものの内、あるものは、霊魂に固有の感受性であり、他は、この霊魂に依っておりながら、すべての生命体に存在すると思われるものである。

 この一文の解読だけで、今日の講義は終わってしまうかもしれないほど(笑)、説明が難しいけれども、注2がありますね、実有というところの。まず、もう一度学術文庫の訳を見てください。

「私達が求めているのは、心の本性」って、これ、フュシスですよね。で、「すなわち」となっているでしょ。これは and ですね。「本性と本質を考察し認識すること、つぎに、心に付帯するものを考察し認識することである。付帯するもののうちで、あるものは心に固有の情態であり、また他のものは、心をとおして生物にも属するものと考えられている」

 この翻訳をわたしのものと比較してもらいたい。先程フュシス(自然本姓)の話をしました。そして「本質」とあるのをわたしは「実有」と訳した。これについて講談社学術文庫版の注は「ものの何であるか。これをことばで説明したものが定義である」と言っている。この定義は間違っています。

 もうひとつ、西洋古典叢書の方を見ると、「さてわれわれが目指すものは魂の本性」となっている。本性といっていて、そしてその本質を考察し認識することとあり、本質という訳は同じ。で、岩波の最新版のアリストテレス全集のその部分をみると「魂の自然本性すなわちその本質的あり方」となっていて、本性だけでなく本質的なあり方というのが出てくる。カッコして(ウーシアー)とある。どう違うのか。実はこの全集版の「あり方」とつけたのは、本質という定義だけではおそらく不安に思ったんですね。だから「あり方」と書いて(ウーシアー)とギリシャ語をつけた。

 どうしてそうしたのか。それは、じつはヨーロッパの世界でも、ウーシアーにどういう訳語を与えるかで大きな混乱があって悩み、不安定なんですね。

 私の注を見てもらいたい。

 essence, substance,の2つの英訳があり、仏語はsubstance,独訳はDas Sein,中世ラテン語訳は、substantiaである。従って、訳語が今に至るまで定まっていない。これはなぜかというと、プシュケー(霊魂)がある種の機能を指す語であるか、また一個の存在(物)であるのかに関わる重要な問題である。またsubstanceサブスタンスを実体と訳した場合、個的な体、すなわち個物という姿が連想されて、存在の働きという点が希釈されるおそれがあると思われる。それ故、私は、ウーシアーに実有という訳語を与えることを提案したい(ちなみに、水地宗明氏は、本有という訳語を使われている)。真実に存在しつつ、存在者として働きながら、それ自体、質料的な基体に限定されない存在性=働きを持つ、という含意を保持する訳語としたい。

 水地宗明さんという日本を代表する霊魂論の研究者は、本質という訳はまずいと思ったんですね。で「本当にあるもの」と言う意味で「本有」という言葉をつけています。で、私は実有としたい。なぜかというと、「真実に存在しつつ、存在者として働きながら、それ自体、質料的な基体に限定されない存在性=働きを持つ、という含意を保持する」ということで。

 つづきをざっと読むと、

 アリストテレスにおいては、それ(ウーシアー)は、ト・ティ・エーン・エイナイ(かつてあり続けたそのものは、一体、何であるか)という言葉で表現している。もの(res)が、時間とともに転変・変容しつつも、一貫して持続的な同一的働きを続け得る根源はなにか、という問いへの答えがウーシアーなのである。本質という訳語は、それ自体、存在とは切れた意味を持つのであり、ラテン語のesseに由来するessentiaという語感を喪失していることに注視しなければならない。 カテゴリー的に言えば、存在のカテゴリーに付帯する質、量のカテゴリーを想起させる本質という訳語は捨てなければならないであろう。また実体という訳も避けるべきであろう。「体」は個的にまとまった塊という語感があり、東洋哲学上は、朱子の体用論の語感を引きずっている。

 ウーシアーを「本有」と訳すのもいいですね。要は、本当にあるものということを想起させる言葉にすることがいちばん大事。なぜそれに私がこだわるかというと、今日の最初から申し上げているように、アリストテレスにとっては、魂というのは生命体、生きているものの根源の力なんだということ。根源の力なので、本当にあるものだと考えなくてはならない。本当にあるものだけれども、しかし転変としていく。変わっていくけれども具体的な姿をわれわれに見せることのない力だと。そういう意味で実有、もしくは本有という言葉にしなければならないのです。

 サンスクリットの話をしましたけれど、じっさいに『ウパニシャッド』の翻訳の世界でも困っているのです。現代の翻訳者は「実有」という言葉をつかっている。ブラフマンという本当にある存在者をいうとき、それは実有であるという訳を与えているのです。だから実有という言葉が必ずしも哲学用語として馴染まないわけではない。そしてまた東洋人においても響く言葉でもあるということで実有という言葉にしました。ですから今日のところは、魂というのは実有なんだと、ウーシアーなんだということをしっかりと頭に刻みつけておいていただきたい。

 そのことを西洋世界でもちゃんとわかっていた人がトマス・アキナスです。彼はウーシアーにエッセ(esse)という訳語を与えている。esse はどういう意味かというと、存在している「もの」であり、「こと」なんですね。働きとしての存在。それを、人間の知性によってある局面をスパッと切り出して定式したものがエッセンティア。存在性、存在的性質。それが外に、特に質量を伴って存在していることをエクス、エクスセンティアという。これを実存と訳した。実存と、本質であるエッセンティア、そしてesse(存在)との言葉の違いを明確に把握しておく必要があリます。そうでないと、アリストテレスとかトマスの書いたものを曲解することになる。

 つまり、魂の研究とはこの esse、ウーシアーをめぐる研究だとアリストテレスはしつこいほど語っている。だからこそ霊魂は存在しているものであって、それに付属しているものと、それに付属していないけれども有機的関係を持って存在しているものが生命体に存在しているのだという理解が、これまでのところで得られたことになるのです。

 ***

 以下、ちょっとややこしくなりますけれど、そういうウーシアーという摩訶不思議な概念に学問的にどうやって切り込んでいけばいいのか。その研究方法についてアリストテレスは問題にしようとしました。もう一度読んで見ましょう。

 しかしながら、霊魂に関して、一定の信頼できる確証を得ることは、あらゆるもののあらゆる点において、もっとも困難な問題の一つである。なぜなら、この問題は、他の多くの事柄に共通の探究問題であり、すなわち、その実有、言い換えれば、それが何であるか、についての探究であるからである。あるいはおそらく人は、そのものの実有を知りたいとわれわれが思うもののすべてに即した一つの探究方法が存在しているのではないか、と思うかもしれない――たとえば付帯的なものに固有のものについては、論証という方法があるように――、したがって、このような探求方法を求めねばならないと思うかもしれない

 しかし「何であるか」について共通の、一定の方法が存在しないならば、それを仔細に検討することはさらに一層困難なことになるであろう。というのは、その各々の場合について、それぞれの探究方法が何であるかを把握することが必要になるからである。しかしその探求方法が、論証なのか分割なのか、はたまた他の方法なのかが明らかになったとしても、探求が始まる起点に関して多くの難問と逸脱が生じるであろう。というのは、各々の事柄には、それぞれに異なる起点があるからである。それは、たとえば諸々の線と諸々の面とでは、起点が異なっているようなものである。

 アリストテレスは非常にしつこい人で(笑)、自分の研究課題を見定めたら、それにふさわしい探求方法を見つけようとする。探求方法もいろいろあるだろうと。生物学なら生物学の探求方法を考え、法律学なら法文をどう理解するかということで論理学を考え、いろんな対象に応じていろんな方法を考え出す。では、霊魂というものをどういう探求方法で研究したらよいか。これは困難だからこそ、起点、つまり研究しようとする対象自体の、理解の仕方そのものが問題だと。

 ちょうど法律学も同じですね。ある人が犯罪を犯したとして、どういう犯罪を犯したか膨大な実証をする。ところがその人に法的責任がどれだけ生じるかというときに、その人が理性的人間であるかどうかという究極の問題がある。そんな問題が法律学だけでわかるか。そういうことで現在のところ心理判定などを精神医学に投げて、その人の責任能力の有無を調べ認知しますよね。しかし、それで本当に責任能力があるかどうか判定できるものですかね?

 

[ Ma ] 非常に難しいです。どの裁判事例をみても、う〜んっと首をかしげるものが多いですね。本当にその方自身が事件に対して責任性を有しているかどうかはわからない。

 つまり、それこそが起点ですよね。起点のサイエンス的解明というのは非常に難しく、アリストテレスの言い方からすれば起点のサイエンス的解明はできない。それとは別個の知的な探求方法がないとできないのです。それが「霊魂とはなにか」という大きな問題につながるのです。

 論証<アポイデーシス>と言っているけれど、これももちろん大きな解明の方法だけれども、論証学では霊魂は解明されないといっているのと同じ。

 では、どうしたらよいのか。次をもう一度読んでみましょう。

 おそらく第一には、霊魂は、諸々の類い(ゲノス)のもののなかで何の類いに属するのか。ここで私が言おうとしているのは、これという何か、すなわち実有(ウーシアー)であるのか、それとも質(どのようであるか)であるのか、それとも量(どれほどであるか)、あるいは、すでに区分されている他のカテゴリーの何なのかを規定することが必要である。

 さらに、霊魂は能力(可能態)にあるものの一つか、それとも何か完全な働き(完全実現志向態)の一種なのかを規定しなければならない。それらの規定の相違は小さな問題ではないからである。また霊魂は部分に分たれたものか、それとも部分に分たれないものか、さらにすべての霊魂は同一の種類<ホモエイデース>か否か、もし同一の種類でないならば、それは種<エイドス>において異なるのか、類<ゲネス>において異なるのか、規定しなければならない。なぜ今この点に触れるかといえば、霊魂に言及し、探求している人びとが、もっぱら人間の霊魂だけを考察しているように見えるからである。

 ここで前回触れたことはいろいろあるけれど、アリストテレスのスタンスが、霊魂論といっても人間の霊魂だけではなくて、生命を持って動いている存在物の霊魂もすべて考察の対象にしようとしているということ。彼はそういうスタンスを明確に取っている。だからある面で、生きているものの霊魂には、一種神秘的な面が含まれているので、存在して生きているものに対する霊的な敬意、最初にいったティミオスですけれど、尊崇に満ちた、尊重すべきものがあるのだと。そういう意味でわれわれ東洋人にしてみれば、悉有仏性(しつうぶっしょう)そういう精神態度を全体として共有しておきたい。

 まあ、余分なことかもしれませんが、アリストテレスという人には、生命を持って生きているすべてのものに対する敬意が学問の根底にあります。このことは一神教の世界の中でも非常に重要な問題提起になっているわけです。一神教的な世界の中で、生命あるすべてのものに対する敬意を払う態度を一番継承しているのはトマス・アキナスでしょう。これは後で出てくると思うけれど、ヨーロッパの一神教的な世界の中で、ギリシャ的、いわば異教的世界が完全に放逐されているわけではないということを示している。そのことをひと言申し上げておきたい。

 で、ちょっと戻りまして、いま読んだ「おそらく」から、「人間の霊魂だけを考察しているように見えるからである」までの段落は、アリストテレスが学問的対象を取り上げるときに、いろんな部類に分けるというかならずやる手法なんですね。それはいったいどういう種類のものかということを、いろんなレベルで腑分けしようとしている。まず本当に存在しているものなのか。どういう性質のものなのか、どのような量のものか、こういうことも考えようと。

 それから、「さらに〜」の後に出てくる、見慣れないカッコ付けの言葉。普通の日常用語にはないので、翻訳語も定まっていない。可能態と完全実現志向態。あるいは終局態とも訳せますが、原語はエンテレケイアという言葉です。これは合成語であって、テロスのなかにある一つの状態を示している。テロスというのは終局とか目的とかの意味なので、終局態とか完成実現態とか、いろいろな言葉で訳される。

 私が造語しなければいけないと思ったのは、たとえば完成といっても、スタティックに完成するのではなく、動いているのだということを表したかった。常に動きの中にあるということ。つまり、完成を目指そうとする動きの中にあるという状態を表現したいがために「完全実現態」としました。終局態として、完成して終わってしまっているということに限定しないほうがいい。そういうことで、このように造語してみたのです。

 それから全体と部分。これも普遍と個の問題にも重なって、魂とは普遍的なものなのか個別的なものか。これは究極の論争になっている、いまだ決着のつかない問題なわけです。「人間」とは普遍的な存在なのか完全に個別的存在なのかという、非常に複雑で微妙な問題。

 それから、私自身まだ十分突き詰めきれていないけれど、「それ」は類なのか種なのか。類と種を分けて考えようということ。これを論じ出すとまた別の問題になってきますので、今日は触れませんが、いずれにしても霊魂というものを研究する際には、いろいろ腑分けして、さまざまな視点から検討しましょうということです。

 しかしながら、霊魂に関する言(ロゴス・共通的根源観念)が生命体に関する言(ロゴス)と同じように一つであるのか、あるいは、ちょうど馬や犬、人間、神のそれのように、各々に即して異なっているのか、他方で生命体は普遍的なものとしては、何も存在しないものなのか、あるいは「より後のもの」なのか、という点も忘れないように注意を払うべきである。また同様に、他の生命体に共通の何らかのものが述語として規定されるのかどうか、という問題にも注意を払わなければならない。

 この文も、霊魂に関するさまざまな研究課題を挙げているわけです。生命体に関する説明と霊魂に関するそれが同じでいいのかどうか。犬や馬と人間は同じようなものなのか、ぜんぜん違っているのか。究極的には生命体ですね。生命を普遍的なものとして生きているといいますが、霊魂は本当に存在するものなのか。あるいは「より後」のものなのか。これも哲学上の大問題で、より後というのは、端的に言うと名付ける後ということ。これは何であるかというのは、後で人間が認識するときに名付けたものに過ぎないのか。最初にものがあって、それが何であるのかというのは、単にそう名付けられただけのことではないのか。

 だから、たとえば「人間」という言葉、私も人間、あなたも人間。でも最初に実際に目にするのは、荒木というなにものかでしかない。荒木とは一体なにかと問うて、荒木は人間であるとしたとき、この「人間」というのは普遍的な概念ですよね。誰に対しても当てはまる。しかしこの人間というのは、後付の言葉なのかどうか。つまり荒木という人間には、もともと最初から人間的なものを内在しているから、後でわたしたちが人間と名付けただけなのか、それとも荒木というのは他の誰にも還元できない、共通するところのほとんどない「もの」だけれど、付き合っていくうちに共通点もいろいろわかってきて、人間という「名前」をつけようとなったのか−−。

 これを哲学上の問題でいうと、抽象名詞というのは唯名論、ただ名前だけのものか、実体のある名称なのか。当時のギリシャ世界のときから唯名論か実在論かという哲学上の大問題はすでにあった。有名な話があります。AさんBさんCさん、みんな顔が違っている。顔が違っているから同じ人間とは言えないけれど、しょうがないし不便なので皆に人間という名前をつけましょうと。こういう立場が唯名論ですね。

 でも、唯名論者にある人が聞いた。なんでその名前がつけられたのか。名前をつけるにはそれ相応の根拠が最初からあったからではないか。だったら荒木なら荒木そのものの中に人間としての普遍的なものを見るべきではないか。普遍というのは、何かしらのある実在性を、名前で呼ばれる前の存在のときから持っていたのではないかと。こう考える人を潜在的実在主義者と言います。これまでも、唯名論か潜在的実在論かという大きな対立がヨーロッパ、東洋哲学も含めて人類を悩ませてきた大問題だったのです。

 ***

 さらに、アリストテレスは面白いことをいっています。

 さらに、多くの霊魂があるというのではなく、霊魂に多くの部分があるということがあれば、先に探求すべきは、霊魂の全体であるのか、それともその部分であるのかが、問題となるであろう。さらにこれらの部分の中で、本性上相互にどのような差異があるのかを明らかにすること、また諸部分そのものと、その各々の働きとでは、どちらを優先的に探求すべきかを明らかにすることは、困難なことである。たとえば、直知すること(ノエイン)と直知(ヌース)、また感覚知すること(アイスサネスタイ)と感覚知(アイスセイティコン)との関係のように。その他の部分についても同様である。

 霊魂といっても、なにを霊魂と捉えるかいろいろな問題がある。多くの霊魂が、たとえばあるものを見たときに、荒木なら荒木の中に頭の霊魂と心臓の霊魂があるのではなくて、むしろ荒木という霊魂にいろんな部分があるのだということがあるかもしれない。そういう問題が生じてくる。そういう場合にはまず霊魂の全体というものがあるのか、それともいくつかの霊魂部分の集まりがあるのか。それをまず考えてみようということ。そして、複数の部分の集まりなら、その部分と部分の間にどういう違いがあるのか議論しようと言っている。そういう全体と部分の関係をまず考えようということです。

 それからさらに、部分間の働きについても問題がある。それぞれの部分が働いていることは確かだけれど、部分とその働き、つまり働く部分と機能、これを区別しようという。そういうふうにどんどん彼の研究対象というのは細分化していく。そういう意味では、彼の手法はサイエンス的だといってもいい。

 エピソード的に申し上げるなら、人間の霊魂を考えたときに、たとえば荒木という人間の霊魂があったとして、それは荒木全体がそうなのか、荒木のある部分がそうなのか、それらはつながっているのか。部分部分の働きはどうあるのか。こういう全体と部分の関係をいっている。で、彼は生物学者でもあるので、ある生物はしっぽを切り取ったときに、もしその動物の霊魂が一つだったらしっぽはしっぽで終わってしまう。ところが、ある動物は切られたしっぽが増殖してもとの体全体が復活することがある。これは今のIPS細胞に近いかもしれない。

 つまり、個別の部分と思っていたものが、全体との有機的な連関のなかで再生する力がある。そういうものも彼の生物学の視野の中に入っている。となると、全体的霊魂の話と部分的霊魂の働きが有機的に連関することがどういう仕組みになっているのか、彼の興味を掻き立てることになる。下等動物においては、ある部分を切断してもそこを再生できるということから深まっていく、アリストテレスという人の生物学的探求力は並外れている。今日風に言えば、再生の可能性を含んだ細胞が生殖細胞に限定されるのか、あるいは誰それさんが考えたようなスタップ細胞みたいに、万能細胞のようなものが本当にあるのかないのか。そういう問題につながるような生命研究さえ志向していたのかもしれないと思えるほどに。

 しかし、もしも働きの方を先に探求するとしても、再びまた、働きと相関する対象を、働きそのものよりも先に探求すべきか、という難問が生じるであろう。たとえば感覚知されうる(アンティケイメナ)対象を感覚する能力に対して、直知されうる部分を直知する部分に対して優先的に探求すべきであろうか、という問題である。

 ここも何気なく読み飛ばしてしまいそうなところだけれど、実は重要なことをいっている。じつはこれ、わたしたちが感覚するというときに、感覚器官と感覚対象との関係をまず議論しようといっているのです。もうちょっと先に行くと、この区別がどれほど重要なのか語られているので、そこをざっと読んみましょう。

 ところで、「何であるか」を認識することは、実有(ウーシアー)に付属している諸々のものの原因を観るのに有益であるように思われる(それはちょうど数学において直と曲はなんであるか、あるいは線や面が何であるかを知ることは、三角形の内角の和がどれだけの直角に等しいかを観察するのに有益であるようなものである)。しかしまた逆に、実有に付属する諸々に対する認識は、「何であるか」を知ることに大いに貢献する。というのは、われわれが実有に付属する諸々のものについて、そのすべてであれ、その大部分であれ、その形象(ファンタシアー)に即して説明することができるならば、その時には、また最も明確に実有について語ることができるであろうから。なぜなら、すべての論証の根源は、「何であるか」という点にあるからであり、したがって諸々の定義の中で、それに即して実有に付属しているものを知ることに貢献しないばかりか、それらについて容易に推量もできないような定義はすべて、問答法的(ディアレクティコース)に語られはするが、虚しく語られるというものであることは、明かなことである。

 この翻訳のなかほどに「その形象(ファンタシアー)に即して〜」という言葉がありませね。この形象という単語は現象という言葉と区別して使っています。現象というのはファイノメーノンと言って、表れ出てくるものという意味。だからフェノメノロジー(現象学)というときに使うのがファイノメーノン。ファイノメーノンとは違うファンタシアーという言葉は、微妙だけれど別の重要な意味を持つので、ここは、いわゆるファイノメーノン、表れ出てくることを表現する「現象」という言葉と、ファンタシアーというのは別の意味を持つ言葉を区別したいのです。だから形象としたい。ファンタシアーは形象、ファイノメーノンは現象というふうに。

 なぜこの言葉を使うかちょっとだけ補足しておきますと、ファンタシアーはいまの英語で言えば fantasy です。でも、英訳をみるとさらに imagination という意味もある。この言葉の日本語訳は「想像」というのが一般的だけれど、ファンタジーという言葉ともピタッと合いますよね。つまり imagination というのは、image からつながる言葉で、いわば「像」です。元はイマジナティオというラテン語から来た言葉だけれど、像というのと表れ出たもの(現象)というのはどう違うか。これは実際に意味は似ているけれど、そこに何らかの手、あるいは想像が加わってつくられているのがファンタシアー(形象)と理解しておきたいのです。

 もとに戻って、要するにアリストテレスがここで言いたいのは、自分の研究というのはたしかにウーシアーとは何かを追求する学問だけれど、その問題を直接ズバリと理解することはなかなか容易なことではないので、そのウーシアーにまとわりついているいろいろな付帯物を腑分けして検討していきましょうということです。付帯物を検証して行くことを通して、本当に存在している実有とな何かということがわかることになるだろうと。そういう方法を取りたいということですね。

 要するに、実有とは何かということにいきなり入ってはいかない。いろんな付帯事項があるので、まずそれを検討しましょうというところから、アリストテレスは論述し始めるわけです。そういう助走をちゃんとしたところで、初めてわれわれは霊魂の研究ができる。そのときに直知的に重要と感じるのがいま言ったファンタシアなのです。

 では、このファンタシアとは何か。人間というのは霊魂が何らかの働きをしますよね。動いているわけ。動けば当然外界と接触する。だから霊魂の本質そのものはわからないのだけれど、霊魂の働きをみると霊魂とは何かが、ある程度は推測できる。そのときの出発点は霊魂が外界と触れたときに生じてくるいろんな働きになって出てくるわけです。その第一が「感覚」です。人間は肉体を持っている。ものに触れたり、見たり聞いたりする。そんなとき、そこに感覚が生じてきます。甘いとか明るいとか硬いとか。そうするとそこでの魂の働きの局面とは何かというと、触れるということです。触覚というに限らず、接触するということ。

 接触しているところだけを取り上げると、そこでは感覚器官が働いている。感覚器官とものが接するところに感覚という働きが生じるわけです。そのいろんな感覚の働きを集めてきて一つのイメージ(image)をつくる。そのつくられたイメージが形象なんですね。だから形象は感覚そのものではない。感覚を集めたその一つの集合体が、さっき取り上げた形象<ファンタシア>なのです。

 そのファンタシアをさらに集めてある種の像をつくっていく。それがひとつの思考、考えるということ。そして、その思考の中に「形相と質料」という区別が出てくる。こういうふうにアリストテレスはおそらく考えただろうと思います。

 ここで何が言えるかというと、アリストテレスが言うように「感覚は裏切らない」。暑いとか寒いとか音楽を聞いて感動するとか。感覚自体は真実である。だけど、感覚を集めてつくったイメージは間違えることがある。さらにそのイメージ、形象(ファンタシア)からつくった人間の思考の世界。これは誤ることもあるし正しいこともある。そういうふうに人間の思考というものは動き、展開していくのだと。その最初の始まりにあるのがファンタシアなのです。(つづく)

《2021年6月26日》


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