荒木勝のアリストテレス『霊魂論』講義 2-1


 

 前回は皆さんの関心ある論点を含めて話をしたつもりですが、にもかかわらず『霊魂論』冒頭はなかなかに難解な文章なので、相当辟易したところもあったのではないでしょうか。「なんで、こんなまだるっこしくて複雑怪奇な文章に付き合わねばいかんのだ」という思いがどこかに残ったことと思います。

 そこで、今回は少し「外側」の、わたしたちにも身近でとっつきやすい話題から入ってみましょう。佐伯啓思氏がちょっと前に出した『近代の虚妄』(東洋経済新報社)という本があります。かなり分厚い本で、皆さん全員に読んでもらうべきかどうかはわからないけれど、興味ある人はぜひ読んでみてください。

 本書全体の主意を大雑把に述べると、現在の世界を覆うヨーロッパ文明が完全に行き詰まっている。その代表的な例がファシムズの勃興だけれど、さらにくわえて、現代のトランプ現象ともいうべき、いわゆる民主主義崩壊の危機。これは、現在の世界は西洋文明の決定的な崩壊過程にある兆しではないかと、そういう見立てを佐伯氏はしている。

 そして、その西洋文明の崩壊の原点がどこにあったかというと、一つは近代ヨーロッパの出来事や思想、特に近代哲学に大きな限界があったとしている。さらにもっとさかのぼって、現代文明の原点である一神教とギリシャ哲学に現代ヨーロッパの崩壊の根源があるのではないかという。わかりやすい例でいうと、近代は民主主義というものを大いに謳歌してきたけれども、その原点は古代ギリシャにあった。で、その民主主義の中身を覗くと、重要な問題の焦点は人間中心主義、あるいはもっというと個人主義にある。個人的な人間中心主義に民主主義の根源があると彼は言っている。だから個人としての人間が量によって大衆化すれば、その数で善悪が決まる。今日言われている「フェイク・ニュース」というものも、言ってみればその時期から登場しているともいえるわけで、善悪は別にして、どれだけ多量な人が効率的に良いと判断するかによって世の中の情勢が決まるかという世界。そういう意味での民主主義の腐敗現象は古代ギリシャからすでにある、と。

 古代ギリシャの哲学を支えたのはソフィストたちで、それが彼らの民主主義ですね。ところがそんな民主主義を批判したプラトンでも、現代ヨーロッパまでつづく古代ギリシャの欠陥を根本から覆すことができなかった。ソフィスト+プラトン、そしてアリストテレス、これらを一括してギリシャ哲学が現代ヨーロッパの解体をもたらしている根源だと佐伯氏は言うのです。

 だから、と彼は言います。われわれ日本人の行く末を考えるならば、もうそんなヨーロッパ志向をやめて日本人の原点に立ち返るべきだと。では、日本人の原点は何かというと、この本の最後の方で出てくるのですが、結局は鎌倉仏教ということになる。これに還ろうとね。近代日本で、その鎌倉仏教を現代に蘇らせようとしたのが鈴木大拙と西田幾多郎。彼らに西洋志向を突破する哲学的糸口があるのではないかと締めくくっています。

 こういう流れの中で、重要なテーマとして浮かび上がってくるのが日本文化の本質的なレゾン・デートルといえるもの、すなわち「無」というものの考え方です。ヨーロッパ文明はすべて「有」、存在するものは存在するのだという確信に支えられたのがヨーロッパ文明だとすれば、仏教徒である彼らは、なにも真に実在するものなどないのだ、あるいは「ないようなものだ」という無への確信から日本の文明を構築してきたのだという。その原点に立ち還ろうというのが佐伯啓思氏の考え方で、10年以上前からそういう流れを追求・展開しています。彼は私とほとんど年格好も変わらず、ある部分共通する体験をしてきたけれど、彼もとうとうここまで来たか、という思いがします。

 で、さっき講義前にAkさんがちょっと言ってた最高裁の姿勢の問題も出てくるんですね(この問題とは、2021年6月23日、最高裁判所大法廷が、夫婦同姓を強制する民法などの規定は憲法24条に違反するものではないと判断したことについて、その判断はおかしいのではないかと疑義を呈したことを指す)。その部分を読んでみましょう、本を持っている人は486ページを見てください。

西田幾多郎と夏目漱石は歳で3つしか違わない。ほぼ同時代人である。3つ年上の漱石を苦しめた神経症の原因は明らかにそこにあった。つまりとうとうたる勢いで押し寄せてくる西洋化の波に飲み込まれた日本が、そのことを吟味することもなく、ひたすら西洋に浮かれて自分自身を喪失してしまった彼の時代認識が終生彼につきまとっていた。これは漱石に限らない。明治から昭和にかけての近代化の中を生きた日本の知識人の共通の課題である。西洋的な文明を受け入れなければ日本は文明国になれず、文明国になれなければ独立も難しい。しかしまた独立国を保つために西洋化すれば日本的精神や伝統は失われ、実際上独立自尊も失われていくだろう。このディレンマである。西田もまた同時代人として近代のディレンマを抱え、彼なりの哲学によってこのディレンマに対抗しようとした。

 Akさんが「最高裁の判断、云々」と言っていたのも、時代の趨勢であるという切り方ですよね。そこになんら哲学的な判断に立ってのことではないというAkさんの不満があったのだと思う。

 ですが、おそらく多くの政治的判断も、法学的判断はみんなだいたいそんな感じがしますよね。それでいいという人もいるけど、それでは国が持たないという人もまた当然いるわけで、それでは持たないという人のために佐伯氏はこの本を書いたと。それが彼の「日本的なるものへの希望」というところだけれど、その問題を彼は、近現代のヨーロッパに大きな原因があるとする。一言でいうと西洋式の論理に大きな問題があるというのが彼の理解なんですね。

 西洋にどういう問題があるのか、今日の話の文脈でいうと、ヨーロッパ人は合理主義だということがある。合理主義というのは合理的判断ですべての事柄をやっていくわけですが、合理的判断の正当性を支えているのが論理学ですよね。その基礎を作ったのは言うまでもなくアリストテレスで、彼の排中律とか同一律とか、そういう論理学上の前提というものがある。それでみるように、理屈に合わないものは全部切り捨てていくことがいまの西洋の人間を形作ってきたという。

 われわれが知っているどんな文明も、その合理性によって貫かれている。もちろんそう単純な話ではないけれどーー。たとえば数学というものが成り立つ前提も、論理的で合理的な証明ということになるわけで、証明できないものは数学とは呼べない。逆に、どんなに複雑な現代数学であっても膨大な数式を書くことで解ける。その意味で論理学は西洋文明の前提の前提であると。

 西洋の論理はAはAであるという同一律。あるいはAは非Aではないという矛盾律、そしてAはBか非Bであるという排中律から成り立っています。それがわれわれの常識となっている。しかし鈴木大拙や西田哲学の「即非の論理」では違う。「Aは、AでなくしてAである」となる。西洋の論理の基本である同一律がそのままでは成立しない。最初のAと最後のAを同一視していいか問題は残るが、あとのAは新たに生まれ変わったAであり、しかしまたAであることには変わりない。そういう意味でアリストテレス西洋論理学とはまったく別の次元で展開されたのが日本の西田哲学であると。こういう西田哲学の源流を遡っていくと結局、禅の精神につながっていくのだという話になる。

 そういう意味では、この本は、いまの日本はもう頼るべきものがなくなったけれども、もしまだ何かに頼るとすれば、相変わらずこれまで通りヨーロッパ、そしてアメリカの力であって、その力に付き従っていくしかないという現況だけれども、果たしてそれでいいのかという問題提起を行なっている。こういう一種どん詰まり状況の中で、もう一回日本的原点に立ち返ろうという佐伯氏の呼びかけは、日本のインテリジェンスのあいだで大きな広がりを持っている。いろんな所で西田ブーム、大拙ブームが広がっている感じがある。

 そのどこに問題があるかというと、西田にしても鈴木大拙にしても寄って立つところは仏教が基本。では、仏教とはどういうものか。これが私自身の大きなテーマでもあるのですが、現在ちょっとずつ勉強を始めていて、まだ深みに達しているわけではないけれど、途中経過でぜひ皆さんにおすすめしたいと思ったのが、前にも紹介した『ミリンダ王の問い インドとギリシャの対決』(平凡社東洋文庫)という本。

 これはおそらく、日本の仏教界ではほとんどまともに扱われてはいない書物ですね。私の親族に禅宗の僧侶がいるのでいろいろ話を聞いていると、禅宗の中でもまともに取り扱われてはいませんと言っていた。たぶんそうなんだろうと思います。なぜかというと、この『ミリンダ王の問い』というのは、BC2世紀からBC1500年ぐらいに、実在したギリシャ人の王が、これまた実在したと思われる当時の代表的な仏教の長老と対話したということがあった。それを記録したものが原典となって、だんだん改編修正してほとんど奇跡的に成立した書物であるという事情があるですね。

 その大きな特徴は何かというと、最近新たに読み返してみて驚嘆したのだけど、現在わたしたちが直面しているヨーロッパ対アジアの思考の原型的な対立のさまざまなレベルが、すでに、ここで語られているのです。そういう意味でこの本は、ヨーロッパ人にとっても面白いはずだと思ったのですが、事実調べてみると、この書物はヨーロッパ人が19世紀に仏教というものを再発見していくための爆発的な原動力になったらしいことがわかった。

 たとえば、ショーペンハウエルとかもこの書を読んで狂気乱舞したといわれている。ご存知のようにショーペンハウエルはヘーゲルを批判して出てきた、いわば近代の正統を歩むドイツ哲学を批判しようとした人で、そういう人物から見て、ミリンダ王の世界は非常に驚くべきものだったのです。アリストテレス自身がそこに登場するわけではないけれど、アリストテレス的なギリシャの論理的な世界と仏教の論理的な世界が真正面から激突している。そういう問題提起がある。さらに本書では、現在わたしたちが議論している「霊魂とはなにか」ということについて真正面から議論されているのです。

 仏教にとって霊魂とはなにか、霊魂は存在するかしないか、霊魂は何から成り立っているのか。それを仏教の哲学、仏教のお経でもこれほど真正面から展開したものはないと思うんですね。あったら教えてほしいほどです。原始仏典は、魂が存在するかしないかとか、世界が存在するかしないかとか、そういうおよそ形而上学的な世界は哲学の遊びの世界だから敬して遠ざけようとした。それが原始仏教の基本的なスタンスだったのですね。

 ところがそれには流石にインド人も我慢できずに、お釈迦様が亡くなった後、弟子たちが釈迦の言ったことは本当はどうなんだろうという問いが広がってきて、小乗仏教と大乗仏教というかたちで論議されるようになった。特に裕福な知識人層を要としてできたアビダルマという大きな学派、小乗仏教的な霊魂論と、それを否定する大乗仏教的な霊魂論が出てくるわけです。これは私もまだ十分に読み込んではいませんが、興味のある人には『大乗仏典』というわかりやすい入門書があります。ずいぶん前に中央公論社で出たもので、私の持っているのは昭和53年の本だから、おそらく高校生のときに出始めた中公の本を買い集めたものの一つだと思う。わけも分からずにちょこちょこ拾い読みしていた。懐かしいけれど、その当時はほとんど理解できていませんでした。

 この『大乗仏典』の中で紹介されているのは、ナーガールジュナという人が書いた、大乗仏教の代表的な哲学の基礎を作ったといわれる「中論」の一部。それから、さっき申し上げた小乗仏教のアビダルマ倶舎論。アビダルマコーシャの一部ですね。それからもう一つ重要なのは、仏教哲学の唯識論といわれる流れを作った人がいるのですが、そのパスワンドーと無着・世親という学僧兄弟。これも私の個人的な体験があって、中学生のころだったと思うけれど、奈良に修学旅行に行ったとき、アサンガー(無着)とヴァスバンドー(世親)の像が興福寺にあった。その運慶作といわれる無着・世親像にものすごく衝撃を受けたのです。

 あの衝撃がわたしの中にまだ残っている。あのアサンガー、ヴァスバンドーって何者なのか。興味があって改めて唯識三十頌とかを見なければいけない。ところが、これを読もうと思ったら重大なバリヤが張ってあった。それは、当時の仏教哲学はサンスクリットで書かれていますよね。サンスクリットを現代日本語に翻訳しようとしたときに、どういう翻訳語を使ったかということなんです。このサンスクリットの仏教哲学を日本語の哲学用語で翻訳したということに私自身が壁を感じてしまった。ちょうどそれは今議論している『霊魂論』を読むことと同じ。『霊魂論』をどういうふうに日本語として読んだらいいのかと同様に、仏教哲学をどういうふうに日本語として読んだらいいのかという、大きな言葉の問題が立ちふさがっている。その最大の問題は、まさに「霊魂」という言葉なんです。

 この『ミリンダ王の問い』は早島鏡正という人が訳して、中村元という世界的仏教学者が細かな注釈をつけているので、さすがにだいたいのことはわかるのですが、あの当時の仏教の基本的な考え方では、霊魂というものは存在しないと言っている。ナーマルーパというサンスクリットがあるのですが、存在すると思っているのは、人間が名付けたそんな「名前」にしか過ぎないのだと明確に言いきっているのです。だから、霊魂は存在しない、と。

 個々の人の霊魂は存在しないのだから、先祖崇拝を用いるのはインド仏教ではありえない。ところがいろいろな経過があって、現在は仏教と祖先崇拝とを結びつけるのは日本仏教の基軸になっている。そのことを、日本仏教そのものがどういうものなのかという、また別個の問題として考えなければならないと思います。

 そういう意味で、霊魂とは何かということは仏教でも必ずしも明確な見解はないのです。中論の世界、唯識論の世界、それから始まった大乗仏教の世界、華厳経など、そういう世界認識の中で霊魂とはどういうものなのかを、私たちはきちんと理解できていないのではないでしょうか。

 そして、それを理解する前提として、霊魂というものを古代のギリシャ人やインド人たちがどう考えていたのか、わたしたちの力が及ぶ限りで探求してみる必要がある。そこから始めないとわたしたち日本人が自立するためといっても、本当の確固たる知的基盤が得られないのではないかと思います。これが第一点。

 それからもう一点は、前回も話しましたけれど、佐伯さんが紹介しているギリシャ哲学像なるものはほとんど全部が、木田元という現代ヨーロッパ哲学の紹介者がいるんですが、彼が紹介したハイデガー哲学をベースにしています。私自身もハイデガーを全部読んで確かめたわけではないけれど、木田元が紹介するハイデガーの哲学は、私の直感ではかなりいい線いっている理解ではないかなと思います。

 ただ一点大きな問題を感じているところがあって、木田氏も、おそらくハイデガー自身もそうだと思うけれど、ギリシャ哲学をプラトン哲学で代表させていて、はたしてそれでいいのかという問題があるんですね。佐伯さんの本も木田元の本もギリシャ哲学はほとんどプラトンがつくったという理解の前提がある。しかし、形相と質料という最も重要なギリシャの哲学思考のキーターム自体が、プラトン的理解で済ませていいのかという基本的な問題の吟味を、自分自身で確かめることをほとんど佐伯さんはしていないし、木田氏もしていないと断言できます。

 そういう意味で、ギリシャ哲学自体に対する精確な理解、認識がないなかでヨーロッパを批判するのはどうなのかいう−–。あるいは、そこを押さえずに近代ヨーロッパの哲学遺産を批判することができるのか。そんなふうにヨーロッパ文明を切って捨てていいのか。そういう問題としても跳ね返ってくるのです。

 それらの一切合財が、いまみなさんと読んでいる『霊魂論』の霊魂<プシュケー>をどう理解するかにかかってくるんです。実際のところ、私自身もこんな理解で本当にいいのかと、じつは内心恐る恐る、毎日少しづつ解読しているというのが現状なんですけど(苦笑)。

 これが、前回からのつなぎ、そして今日はじめて参加してくれた方々への前ぶりみたいなものですけれど、このあたりまででなにか質問がありますか。

[ Ma ] さきほど先生は「形相と質料」のお話をされました。前回のテキストの最初のところ(注釈1)に、「人間の霊魂の中核を占める知性は質料を含まない」という文章がありました。質料がなかったら、形相も何もなくなってしまうのではないか。形相というのはたとえば家みたいなもので、質料とは木材だとおっしゃった。木材や石がなければ家は存在しないですから、論理矛盾を起こすのではないか。このことはどう考えたらよいのでしょう。頭が混乱してしまって…(笑)。

[ Ar ] まったく正当な疑問だと思います。そこのところをどう理解するかが霊魂論理解の要で、現代学術文庫の翻訳をみると、質料と形相は合体したもの、つまり肉体と精神が合体したものが人間であって、その精神に当たるのが心だと、そういう話ですよね。そうなると心というのがある種、肉体の働き、機能みたいなものになりますね。肉体が質量だとすると精神は肉体の働きにしか過ぎないということになる。そういう形でアリストテレスを理解する人もいる。

 その究極の例が「脳」です。脳は身体のうちの最も精神的な部分を司っているけれど、脳は脳であって質料なわけです。その質料の働きが人間の精神であると脳科学者は考えているんだろうけど、そしてそういう側面が霊魂にあるのもアリストテレスの主張の重要な部分ではありますが、しかし、それだけではないと彼は言っているのです。後でこのことは繰り返し語ることになると思いますが、霊魂には離在的、つまり肉体と分離する働きがあるとも彼は語っている。この離在的もの、離れて存在するものこそが魂の最も中枢部分だという認識が彼にはあるのです。改めてまた論じますが、魂を光に喩える言い方があるんですよ。存在するものはすべて闇であるが、闇の中で闇を切り裂いてわれわれの目に見えるようするものが光=魂であるとアリストテレスはいうのです。

 いまでも物理学的に完全な証明はされていないけれど、光とは光子(質料)であるのか波であるのかという量子力学的な問題があるくらい、光とはなにか物理学的に証明されていないけれど、アリストテレスの立場は光とは物質ではないということです。ただ光があって光を受け取るものがある。ある種の鏡の作用みたいなもの。人間というのものは光と鏡が一体となって一つの知性の働きをする−−。そういう考え方に近い。

 だから、形相と質料といっても非常に大きな捉え方の違いがあるのだけれど、形相というのが本当に存在する唯一の存在者だという言い方をするのがプラトンで、つまりイデアですよね。エイドスもイデアもギリシャ語ではほとんど同じ意味だから、プラトンのイデア=形相といってもいい。したがって、彼にとって魂は、本当のところ肉体がいらない。霊魂は仮の姿として肉体と一緒になっているだけ。だから、本当に人間が純化されて真実の認識に達しようと思うなら、肉体など捨て去ったほうがいいと、そこまでいうのがプラトン。

 だけどアリストテレスはそういう立場には立たない。彼は、人間の魂は光のような「存在」なんだけれども、比喩でいうと「鏡である光」なんですね。鏡であるという意味では、鏡は一つの質料的なもの。しかし心臓と脳だけに支えられているわけではなく、身体全体が有機的に統合されている質料としてある。それが霊魂ではないか。そういう意味で人間における形相というのは、彼の場合はいわゆる普通の形相ではなく、そんな質料を供えた二重の意味での形相なのです。

 さて、とりあえず、わたしの回答としてはこの程度に留めておいて、少しづつテキストを読みながら進んでいきたいと思いますが、他にありますか。

 

[ It ] 霊魂という言葉の使い方ですが、仏教での霊魂についての言及があリましたが、いまわれわれが議論している霊魂と仏教の霊魂は同じ意味なのか? どうも違うような気がするのですが。

[ Ar ] たとえば仏教における霊魂の意味。中村元の説明によればヴェダーカというサンスクリットがあります。vedaka。これは漢訳では常主(ジョウシュ)といって、人を人たらしめている主体というほどの意味。もともと霊魂というのは、古代インドでは息、外から吹き込まれた人間の生命力の原点だという理解があったらしい。ギリシャ語のプシュケーに近い意味合いですが、Itさんの質問は、食い違いという意味で、霊魂とはなにかという問いかけ自体が論争になったということでしょう。いろんな国、いろんな人に、いろんな霊魂理解があるんですよ。

 当時の仏教の人たちでいうと、人間の身体を含めた完全な主体者、あるいは等覚(とうかく)といって知性とか感覚をコントロールする最高の担い手、これがヴェダーカと言われるサンスクリットの主なる意味ではないか。当時の仏教徒の中で五蘊皆空(ごうんかいく)ってありますよね。だから、人間の身体のさまざまな部分を統括しているものが魂、霊魂であるということ。おそらく古代インドの人たちの共通理解として、それが本当に存在するものだというのが『ウパニシャッド』で、ヒンドゥー教徒たちの確信なんですね。『ウパニシャッド』ではそれをアートマンと言っている。天上の最高神であるブラフマンが人間の中に宿ったものがアートマン。アートマンは存在者であり、そして統括者だという考え方が厳然としてあるのです。

 『ウパニシャッド』も細かくいうといろいろ意見の対立があるけれど、その主体はアートマン、魂、ヴェダーカという考え方が一般的にある。それに対する批判なんですね、仏教は。だからゴータマが批判しようとしたときに、その存在をまるごと否定したのか、それとも、一部否定しつつも一部は肯定したのか。その解釈の綾が古代仏教にもいろいろ存在している。

 だから、私が理解している限りでいうと「(存在は否定しても)心の存在までも否定しませんよ」となる。本当の悟りを開いた心というものは存在していると明確に言っているのが唯識論。唯識論的な仏教派と、中論的、ナーガールジュナ的な仏教派は哲学的な大論争を当時行った。わたしに仏教論に深入りする力量はないなかで言えることは、明確な霊魂理解としては当時から統合はされていなかったということですね。いずれにしても霊魂とは何かということはさまざまに見解が分かれていたので、精確に理解しようとするとサンスクリット、パーリ語まで含めた当時の仏教の考え方を確かめなければならない。それが一つ。

 それから、今のわたしたちの議論のコンテクストでいうと、古代ギリシャの霊魂とはなにか。それもまた、古代ギリシャの言葉に即してわたしたちは認識を再構築しなければいけない。最初に述べたように、古代ギリシャでもプシュケーという言葉は実は「息」を指していますね。人間は呼吸するというものという語感を維持しながら、アリストテレスが第1巻でいろんな人の霊魂論を紹介している。ということは、ギリシャ人も霊魂とは何かということについて、なにもプラトンのようにだけ思っていたわけではないのです。いろんな見解が山ほどあって、それらを取り上げながら、アリストテレスはどういう霊魂理解をつくっていったかを第1巻では紹介するわけです。

 まあ、誰々がどういう霊魂理解をしたかということを延々と講義することが皆さんの興味の対象に当たるのか、それともアリストテレスその人の霊魂論に絞るのが常道なのかわたしとしても迷っていて、もしよければ、第1巻第1章までをできるだけ正確に理解して、そのあと第2巻にまで行ければよいのではないか。いまのところはそう考えています。(つづく)