では、次を読んでみましょう。
おそらく第一には、霊魂は、諸々の類い<ゲノス>のもののなかで何の類いに属するのか。ここで私が言おうとしているのは、これという何か、すなわち実有<ウーシアー>であるのか、それとも質(どのようであるか)であるのか、それとも量(どれほどであるか)、あるいはすでに区分されている他のカテゴリーの何なのか、を規定することが必要である。
さらに霊魂は能力(可能態)であるものの一つか、それとも何か完全な働き(完全実現志向態)の一種なのかを規定しなければならない。それらの規定の相違は小さな問題ではないからである。また霊魂は部分に分たれたものか、それとも部分に分たれないものか、さらにすべての霊魂は同一の種類<ホモエイデース>か否か、もし同一の種類でないならば、それは種<エイドス>において異なるのか、類<ゲネス>において異なるのか、規定しなければならない。なぜ今この点に触れるかといえば、霊魂に言及し、探求している人々が、もっぱら人間の霊魂だけを考察しているように見えるからである。
ここも難しいところですが、とりあえずアリストテレスなりにこの目に見えない、だけどなんとなく存在していると思われるような、この霊魂というものを探求するためには固有の方法を考えなくてはいけないと考えているわけです。その固有の方法とは何かというと、まず何よりも、人間が合理的にものを考えるときの手順というものを思い浮かべてみようと言っている。
「おそらく第一には〜」。アリストテレスの学問のなかには『カテゴリー論』とか『命題論』というのがある。カテゴリー論とは何かというと、人間が理性を持ってものを探求するときに、探求する相手がどういうものなのか、それをある程度測定して、分析する対象であるものを腑分けしておきましょうという考え方。その腑分けしようとするときに登場する最も重要な基本命題を整理しているのが『命題論』という本で、その第4章に非常に有名な次のようなことが書かれています。
われわれがこれからものを考えようとするときに、それがどんなものであってもだいたい10個の部類分けができるので、それに従ってものを考えていきましょうと述べている。それは、①いったいそれが何であるか、②どれだけの量を持つか、③どんなの性質のものか、④どんなものにそれは関係しているのか、⑤どこにあるのか(場、場所)、⑥いつあるのか(時間)。つまり、ものとはどんなものでも時間と空間に規定されているので、どこかという「場」といつかという「時間」。それから、⑦はそのものが傾いているか、壊れているか(態勢、傾向)、⑧自分固有のものとして他のものとの関係を持っているか、⑨それがなにかに働きかけているか(能動)、⑩それとも働きかけられているのか(能動受動)。
これをアリストテレスの「10のカテゴリー」といいます。このカテゴリーに即した形で霊魂というものを探求しようというのが最初の数行の説明ですね。
アリストテレスの方法論として霊魂とは何かを探求するときに、まずは学問的なカテゴリーのふるいにかけてから考えてみようという話ですね。
ただ、そのときに、最初に出てくる「それが何であるか」、すなわち実有<ウーシアー>であるかどうか。この言い方に注意してもらいたい。まずは、それが本当に存在しているものかどうか。存在している何かであるか。あるいは単なるフィクション、人間の頭のなかにあるに過ぎないものではないか。つまり、私たちがものを問おうとするときにそれは本当に存在しているものなのかどうかということを第一に問わねばならない。これが基本的な考え方です。
「それ」が本当にあるものかどうかという問いかけの重心をきちっとしておく必要があるだろう。そのあとに、アリストテレスが試みようとしているカテゴリー論のなかでの項目に応じたふるいにかけてみましょうということです。
その次のことがらは、霊魂は能力なのか、それともなにか完全な働きなのかという問いかけ。この能力と働きという区分の仕方はどこから出てくるのかというと、『形而上学』で出てくるんですね。私たちがものを探求しようとするときに、単なるサイエンスと同じような形で問うことにとどまってはいけない。サイエンスでは問えないようなものの考え方をいちど試みてみようと言っている。それがこの「能力(可能態)」と「完全な働き(完全実現志向態)」という言葉に表れています。
なんか頭が痛くなるようなガチガチの訳語ですが、これはもうこの用語に慣れてもらうより仕方がない。これはアリストテレスの造語なんですね。彼がものを探求するときにはその探求にふさわしい方法として、適当な言葉がないなら新しく語をつくるしかない。だから、一読しただけでは頭に入りづらい言い方になる。でも、それをやらないと、形而上学的な何か目に見えないものの分析はできない。そういう考えから、まずはこんな言葉で霊魂というのはそれがある種の能力なのか、それとも完全な完結した働きなのかということを問うことにしましょうということです。
そして「また〜」とあって、これも形而上学的な問いかけですね。全体と部分の関係です。霊魂とは部分に分かれているものか、それとも分かれていない、というか分かちえないものなのか。たとえば人間を例にとったときに、頭に固有の霊魂があり、足にそれとは別の固有の霊魂があるといった具合いに、それぞれの部分にそれぞれの霊魂があるのか。それとも体の部分には関係なく、一つのまとまりとしての霊魂があるのか。
それと、同種の問題として、「種類」とは何かというのがあって、種類Aの霊魂、種類Bの霊魂というふうに、霊魂は目に見えないもののなかでも皆同じなのか、違った霊魂があるのか。こういう問題が出てくるわけですね。その種類を分けるときに、エイドス(種)という観点からの違いと、ゲネス(類)という観点からの違いとがある。これを分けて考えてみましようと言っている。
このような分析方法を使って、霊魂を分析していきましょうというのがこの出だしのところです。大方の人は、ここを読んだだけで、いやあ、この人は一体何を考えているのか、めんどくさい人だな〜(苦笑)ということになる。目に見えないものを分析するのに、分析方法をこんなに多岐に分けてやろうとしているのかと、一般的に考えると、たしかにたいへん驚くべき話ではありますね。
さて、「霊魂とは能力なのか。それとも働きなのか」という非常に大きな問題提起。たとえば私たちはある程度「もの」を知ることができますよね、知性があるから。つまり、霊魂には知性の能力がある。そうすると霊魂は知性能力の担い手なのか。そういうふうに考えることができる。
いっぽう、いや、そうではない、霊魂は知性能力ではなくて、知性が働いているものだという捉え方。感覚的に言うと、能力だとスタティックな固定したパワー源みたいな感じがする。固定したパワーの塊として霊魂を考えているのか、いや、そんなことはないと言っている。霊魂は固定したパワーとしての動力源ではなくて、働きそのものとしての働き続けている存在であり、もし働き続けることがなくなれば霊魂はなくなるのだと。まずは、そういう能力と働きという形に分けて考えましょう、と。
ちなみに、この分け方を他の訳で見ると、たとえば能力が「可能態」であるのは同じとしても、完全実現態が「なんらかの終極態」となっていて、注がついています(学術文庫版)が、原語でエンテレケイアーですね。その注で、この語は文字通りにはテロスから来ていて、テロスのうちにあることを示している。テロスは目的、完成、終わりなどを意味する、アリストテレスの思想では最も中心的な概念の一つです、とあります。
これを人間の例でいうと、子どもが人間の知性、霊魂の知性能力を持っている状態を考えると、子どもが持っている人間の知性の能力、それはだんだん学習していって、成人として成長し、一定の正しい判断ができるようになったときに終極態を迎えるという考え方ですね。
ただ私がちょっと違うと思うのは、終極態とは完成体のことを言っているわけですが、重要なのは人間は生きて活動している、そして完成を志向して、つまり完全な状態での完成を目指して、常に動的でダイナミックな活動状態にあるということです。だから、私は完全実現志向という言葉で、そこまで含めて霊魂を捉えているわけです。完成体として完了して、つまり終わっている状態を言っているのではなくて、完成に向かって常に運動しているという、そういう生き物の働き、それが霊魂なのだと。という意味で、霊魂を能力の塊として見るのではなく、常に完成を目指して働いているもの、動的なものとして理解する。小さな違いのようだけど、ここに大きな霊魂理解の相違があります。
もう一つ、種<エイドス>と類<ゲノス>という分け方があります。これもなかなかわかりにくい。種において異なるのか、類において異なるのか。たとえば『形而上学』のなかでゲノスとエイドスということで、その違いを明確に規定しているので見ておいていただきたいのですが、私の言葉で理解すると、こういうふうに考えられます。
類と訳されるゲノスというのはそもそも「産まれるもの」を意味する言葉なのです。だから、人間から人間が産まれるとか、ライオンからライオンが産まれるというような、そういう連続が成り立つような生成上の共通の土台となるものなんですね。その土台を共有するものをゲノス=類という。ゲネラチオというと生成して発展することだけど、人間は人間からしか産まれない。だから人間と人間は同一の類に所属する。そういうふうにまず考える。そして同じ類に所属しながらも、そこになお区別できるものがあるわけです。
『経済学・哲学草稿』で、人類は類的存在であるとマルクスは言っています。人間とは類的存在だからみな同じなのだと、バーンと言っているわけだけれど、いや、待てよとなります。同じ人間でも日本人はロシア人とは違うだろうとか、アングロ・サクソンとも違うだろうというふうに、人間という類のなかでも区別が生じてくる。ということは類に立ったうえで、さらにそれを区分けする基準があるだろう、その基準をエイドス(種)ということにしましょうと、2000年以上もはるか昔にアリストテレスは考えていた。
これまでも出てきましたが、もともとエイドスという言葉は普遍語で形相という意味。なので、類と種といっても分けるのは非常に難しい。まず類というものを土台に考えます。ただ類を同じものだと言ったところで、それでものを認識したことにはならない。荒木勝は人間であると言っても当たり前すぎて、それだけでは誰も納得しないわけです。そこで、荒木勝は日本人であるといえば、もう少し荒木勝に対する理解が進むわけですね。わかりやすくいえば、それもエイドス(種)と呼びましょうということなのです。
たとえば、「人間は知的な動物だ」といったときには、人間を説明するうえで最も普遍的な共通項は「動物」ですよね。だから動物を類とする。しかし動物であるといって、それだけでは人間の説明にならない。さらにもう一段上の区分を持ってこよう。それを種としようと。それが、「何であるか」をわたしたちに告げる一つのものとして、エイドスという言葉で表現されるアリストテレスの形相/種の概念なのです。
そのような形や種類を通じて、霊魂とはみな同一のものなのか、もしくは違うものなのか。そんな探求もする必要がある。荒木勝の霊魂と、誰それさんの霊魂は同じなのか違うのか。同じだとしたらまったく同じなのか、違うこところがあるのか。そういうふうに人間の霊魂を見てみましましょうというわけです。
そうなってくると、霊魂とは何かを議論するときにも、ある種の学問的方法論も捨てるわけにはいかない。捨ててはいない。なぜかというと、霊魂は目に見えないものだけど、目に見え、感じることのできる付帯的な働きがいっぱいあるわけです。たとえば声とか触覚だとか。これらは霊魂が肉体を通して働くもの。だから霊魂の働きを分析するときにはまず肉体を通してみるわけです。肉体的なことを調べだすと、何かが多いとか少ない、強いとか弱いとか、そういう量的、質的な働きにも関わるので、ある種分析的なこともやらなくてはいけない。しかし、それだけでは霊魂とは何かを理解できない。だから、やっぱり能力態であるのか完全志向態であるのかとか、全体的なものか部分的なものかということも考えなくてはいけない。そして、それは種類として同じなのか違うのか、こういう話になる。
ということで、ここまではよいでしょうか。
***
[ Ng ] 前半がカテゴリー論と関係があって、後半が形而上学と関係があるという説明はよくわかったのですが、誤植かもしれないけれど、「諸々の類い<ゲノス>」を「たぐい」と読んでくれたけれど、これは「るい」でなくて「たぐい」なんですか。
ここは「たぐい」です。
[ Ng ] でも下の行では、ゲノスを「類(るい)」と翻訳しているでしょう。上の方ではゲノスを「類い(たぐい)」と訳したわけね。これはカテゴリー論と形而上学の齟齬みたいなものにぶつかって考えられたようにも受け取れます。ここをもう一度説明してもらいたい。このゲノスに関係しているところがよくわからない。その次に質が来ますよね。で、量が来て、その他諸々だと。この質とか量とか、いま紹介してくれた10のカテゴリーのなかでは2番目と3番目でしょう。
そうです。
[ Ng ] そうすると1番目のカテゴリーは何なのですか。
「それは何であるか」、ということ。
[ Ng ] 「それは何であるか」というのは、どの類に属するかと同じことですか。
同じ意味ではないけれど、非常に深い関わりのあるカテゴリーです。つまり、この第1のものは特別に根源的な問いで、すべての事柄を含んでいる問いなんですね。だから「何であるか」としか表現できないけれど、アリストテレスのいうこの言葉は、ウーシアーを問うている言葉なんです。まず最初に、第一のものとしてこれをいう。で、そのあとの他のすべてのいろいろなことに腑分けしながら、どういう部類のものが「何であるか」に含まれているのかということにつなげている。
[ Ng ] じゃあ、単純にさっきの10のカテゴリーを順番に挙げて言ったわけではないと。第1の「何であるか」、第2の質、第3の量、第4の〜と諸々あって、これらのカテゴリーに沿って検証することが必要だと言っているのではないのですか?
いまのことは、カテゴリー論である『命題論』第4章の学問的方法論を踏まえる必要がありますよと例示して述べている。
[ Ng ] だとすれば、それはカテゴリー論の順番でくるわけでしょう。だからカテゴリー論の1はなんですかと、最初の質問に戻ってしまうのだけれど、どこからどこまでが1番のカテゴリーに対応している説明なんでしょうか。
「これは何であるか」という何か、すなわち実有(ウーシアー)が1番。で、質は正確にいうと3ですね。量は2です。すでに区分されているカテゴリーを繰り返す必要もないと彼は思ったので、こういう順の記述になっているのでしょう。
[ Ng ] 「これは何であるか」は「これは何の類であるか」という意味の第1のカテゴリーだとすると……。
ぼくがなぜ類い、類と分けていったかというと、より一般的に、「どんなものですか」ということを表出するために最初は「類い」と翻訳して、後で種と類と、哲学的に厳密な類種の問題になったときには、「類」と訳したほうがいいだろうという判断です。
[ Ng ] もう一度、別の言葉で聞きたいのだけれど、第2カテゴリーは量ですね。これは比較的にわかりやすい。1とか5とか100だとか。質もわりと柔らかいとか硬いとかわかりやすい。それに対して第1カテゴリーはまったく茫洋としていませんか。それが何であるかという問いは。もしそれが茫洋としているとすれば、第1カテゴリーに対する答えは、それがウーシアーであるかないかというだけなのか。
そういうことです。
[ Ng ] それが存在しているか、していないか、ということですか。
ある意味ではそうですね。
[ Ng ] わかったような気がするけど、まだ誤解しているかもしれません(笑)。
Nさんの言われるのはもっともなことで、カテゴリーの1と2以下では問うレベルがまったく違うことなのです。そこが長い間アリストテレス学者をずっと悩ませてきたところでもあるんですね。この10のカテゴリーは、1だけ特別ではないか、とね。つまり、じつは1は「実体」だという見解や、1は本質を問うているのではないかとか、そういう学問論争を引き起こしている。その意味でも、非常に茫洋としている。しかし、ここでアリストテレスが最も重要なことを問うているのは確かなことなのです。
***
さっきの話に立ち返ると、われわれ何かものを見て、知りたいときに、いちばん大事な問は「それは何ですか」です。「それ」、つまりものはどんどん生々流転しているわけ。しかし、仏教的無常観とは微妙に違う。微妙だけど、そこにわたしは仏教とアリストテレス哲学の根幹に関わるような大きな違いがあるような気がしています。
ものはすべて、当時のギリシャ人にとっても流転している。万物は流転しているから、本当に存在するものはなにもないという見解が当時のギリシャ人にもあったんですね。で、東洋に入っていったサンスクリット系の人たちは、万物が流転しているのだから物事にこだわるのは無意味で、人間の錯覚に過ぎないと。物事に因われるのはただの迷いなので、それを自ら否定しなさいと。そういう、存在を否定するような思考がインドでものすごく拡散するわけです。
それに対して、ギリシャ世界では、確かに万物は流転してるけれど、流転しながらも万物の存在が維持されていることも真実なのではないかと考える。であれば、万物が流転しながらも変わらずに維持されているものは何なのか、それを問いかけようというのが、アリストテレスの哲学の最も根源的なあり方なのだと思います。
だから、まずは「ト・ティ・エーン・エイナイ(これは何であるか)」と問う。すべてが常に流転していることはわかる。でも、万物は流転しながらも厳然とわれわれの目の前にそれが存在しているのも事実ではないか。変化をしながらも変わらずに持続しているものがあるだろう、それはいったい何か、これを問おうということです。
これが、たとえば生命体であったら、生命こそが万物が流転しながらもその根源に維持さているものではないか。そして、ではその生命を維持させているものとはいったい何かと問うことを、己れの学問的出発点に置こうとアリストテレスは考えた。そして、それが霊魂ではないか、と。
その意味で、カテゴリー論の第1の問いかけがすべてと言えるのです。それを最初に問いかけたうえで、さらに事細かく見ていきましょうということです。
今日の話には登場してこないけれど、カテゴリー論の第4番目に「万物はすべて関連して存在している」という言葉がある。万物はすべて何らかの関連で存在しているから、それらがどういう関係にあるのか考えましょうと。すべての存在するものは孤立して存在しているのではなくて、万物のなかで組み合わさり関連しあって存在している。そのことを前提に万物のことを考えましょうと述べている。これを「関係的カテゴリー」といいます。
その関係的カテゴリーの部分だけを取り上げて、万物が関係によって成り立っているといるというなら、その関係を取り去ってしまえば、万物は消えてなくなってしまうだろうという思考を極限にまで突き進めていったのが仏教の縁起論ですね。万物は流転している。しかも万物は相互依存している。何か一つを取り去れば、なにかもすべて崩れる。つまり関係が切れたら、万物は存在しないのではないか……。
そういう第4カテゴリーに着目して万物を「無」として考えようというのが、おそらく仏教的な物質、物体、まあ世界観だとすれば、アリストテレスはしかし、そうではないと言っている。関係が成立するには何かが存在しなければいけない。存在してはじめて関連が生じてくるということも彼はしっかりと述べているのです。その意味で第1の問いかけこそがもっともアリストテレス哲学の最も重要な問いかけ。だからNaさんがいうように、他のカテゴリーとはカテゴリー自体の質が違うのです。
[ Mt ] カテゴリー論の第1の問いかけを明確にするために、2番目以降の各カテゴリーの各論がある。そのために質とか量とかを考えていきましょうと。「何であるか」を明らかにするために、他は付属しているものだということですね。
まあ、そういうことでしょうね。
[ Mt ] アリストテレスの関係論を聞いていると、社会構築主義によく似ているなあと思います。物事は関係して存在しているというのが社会構築主義の基本的な考え方で、彼の影響を受けているのかと感じました。
そういう思考が、すでにギリシャ哲学のなかにあるんですね。だからわざわざ関係論的なということを入れているのです。そのなかでも、物事は関係しているとしても、それは常に動き変化しているとアリストテレスは言っているんですね。では、事象が動き変化しいていることの原点、活動のための原動力は何か。それ抜きに関係もなにもないでしょうと。万物は流転しているけれど、その流転をつくり出している根源は何なのか。単に動く能力があるというだけではなくて、動くという「働き」の問題。わかりやすくいえば万物のエネルギーの原点はなにかということです。答えを言ってしまえば、それが霊魂である、ということなのです。
そういうことになると、存在とは固体のようにじっとしてただそこにあるといったもののではなく、むしろエネルギーを持って常に動き流動しているものである。それが第一。霊魂は、それに加えて単に無目的に動くのではなく、霊魂の「主体」が何かの完成を求めて動いている。そういう意味で「完成(あるいは完全)志向態」という訳がふさわしいと、私は考えるのです。
だから、いきなり『霊魂論』を読んだ人は、最初はアリストテレスが何を言っているのかさっぱりわからないのは当然のこと。一人である程度わかろうと思ったら、超難解といわれている『形而上学』を相当程度読み込まないと、『霊魂論』は皆目わからない。だから本当に難解。だけど、こうして少しずつ丹念に読み込んでいけば、『霊魂論』は現代を生きるわたしたちにとっても、非常に基本的で大切なことを語ってくれていることがわかってくるのです。
***
では、もう少し読んでみましょう。
しかしながら、霊魂に関する言(げん)<ロゴス>が生命体に関する言と同じように一つであるのか、あるいは、ちょうど馬や犬、人間、神のそれのように、各々に即して異なっているのか、他方で生命体は普遍的なものとしては、何も存在しないものなのか、あるいは「より後のもの」なのか、という点も忘れないように注意を払うべきである。また同様に、他の、生命体に共通の何らかのものが述語として規定されるのかどうか、という問題にも注意を払わなければならない。
さらに、多くの霊魂があるというのではなく、霊魂に多くの部分があるということがあれば、先に探求すべきは、霊魂の全体であるのか、それともその部分であるのかが問題となるであろう。さらにこれらの部分の中で、本性上相互にどのような差異があるのかを明らかにすること、また諸部分そのものとその各々の働きとでは、どちらを優先的に探求すべきかを明らかにすることは困難なことである。たとえば、直知すること<ノエイン>と直知<ヌース>、また感覚知すること<アイスサネスタイ>と感覚知<アイスティコン>との関係のように。その他の部分についても同様である。
まあ、まわりくどくて頭が痛くなるような文なんだけれども、簡単に補足しておきます。以下の注釈を見てください。これから、みなさんがアリストテレスの本を読むときに注意してほしいエイドス、形相と種の話です。
この、種と訳した原語はエイドスである。エイドスが質料と対比された形相という訳語を持った言葉であると同時に、種、形象(species)の原語でもあることに注意しなければならない。アリストテレスの形而上学、霊魂論の理解には、このエイドス理解、とりわけ形相(見られたものの側に存在する、もの的エイドス)、種(見られたもの側の形相の同一性をもった集団)、形象(見る側の知に存在する知的エイドス)の関連性、同等性を念頭に置かねばならない。他方、ゲネス(類)は生むという語意から、人間は人間を生むという命題が繰り返され、ゲネスは同一存在を生み出す質料的共通基盤のように考えられたのではなかろうか。
ちょっとわかりにくいかもしれないけれど、形相という言葉の理解を少し広げておく必要があると思って書いておいたものです。
アリストテレスの哲学においては、すべてのものが形相と質量から成り立っている。教科書風にいうと、すべてのものが形相と質量、人間でいえば魂と肉体からできているとされています。そういう意味では、形相は存在するものそのもののなかに内在するものとしてある。しかし同時に、人間がそれをキャッチして、人間の頭のなかにインプットされた形で取り込まれた形相というものもあります。それが「形象」、のちにファンタシアという言葉につながっていくようなものになりますが、そんな形象の問題。
それから、見られたものの同一性の集団として「種」という訳が与えられるような部分もある。エイドスという言葉自身が多義的に使われるということを言っておきたいのです。
しかしながら、霊魂に関する言<ロゴス>が生命体に関する言と同じように一つであるのか〜
これはロゴスを「言(げん)」というふうに訳していますけど、このロゴスも、ここでは共通的根源観念、つまり人間が共通に持つ霊魂に関する根源的な観念、というくらいに捉えておくのがよいでしょう。
そして、霊魂と生命体が同じ一つのものであるのかどうか。この問題は先程触れたように、同じ面もあれば違う面もあるというのが彼の回答です。
あるいは、ちょうど馬や犬、人間、神のそれのように、各々に即して異なっているのか、他方で生命体は普遍的なものとしては、何も存在しないものなのか、あるいは「より後のもの」なのか、という点も忘れないように注意を払うべきである
この「より後のもの」というのは、これも形而上学上の基本用語なのでわかりにくいと思いますが、「より前のもの」という用語もあるんです。プロテオンが「より前」、ヒステロンが「より後」。どういうふうに違うかというと、より前のものというのは完成度の高いもの、より後とは完成度が低いものという違いがある。生命体にもより後のものも前のものもあることを忘れないように注意しよう、普遍的な生命ということが語られるけれども、何でもかんでも同じにしてはいけないと言っている。
また同様に、他の、生命体に共通の何らかのものが述語として規定されるのかどうか、という問題にも注意を払わなければならない。
つまり、生命体について一般論的に何かいえるのだろうかという話ですね。これは後で出てきますけれど、植物的次元の生命体というかたちで、より共通の述語として成り立つとアリストテレスは言っている。
次の注(4)にはこう書きました。
この文脈については、多くの論争が行われているが、すでに、普遍的な存在の概念化、唯名論的思考が提出されているように思われる。
この問いかけは極めて重要な意味を持っている問で、注意喚起として、生命体というのは単に普遍的、つまり普遍的明示、言葉にしか過ぎないのかという「普遍論争」に関わってくるような問いかけがすでにそこに入り込んでいます。普遍的な存在があるのかないのか。これはヨーロッパの哲学界の中心的な命題であるんですね。そこには普遍的な存在の概念化、唯名論的思考が良いか悪いかの問いかけが含まれている。
そういうことで、霊魂とは何かということは、じつに多くの哲学的命題に関わってくるというのが、このセンテンスの前半部分。
後半部分は、「さらに、多くの霊魂があるというのではなく、霊魂に多くの部分があるということがあれば、先に探求すべきは霊魂の全体であるのか、それともその部分であるのかが問題となるであろう。さらにこれらの部分のうちで、本性上相互にどのような差異があるのかを明らかにすること、また諸部分そのものとその各々の働きとでは、どちらを優先的に探求すべきかを明らかにすることは困難なことである」とある。
この部分は、霊魂の働きの分析。一見すると人間の霊魂はいろんな働きをするが、霊魂の働きのなかでも特に重要なのは、たとえば見たり、聞いたり、触ったりという働き。これは一つの霊魂でいえば部分的な働きといってもいいかもしれない。
ただそのときに重要なのは、働きと働くものの違いは何か。つまり、たとえば直知するという働きと、直知という働きをするもの、あるいは主体といってもいいかもしれないものとの違い。あるいは感覚知すること、正確にいえば感覚されるものと、感覚自体の働きの違い。これはその感覚の働きと、感覚する結果というか、感覚するときに生じた知性、これを区別しなければいけないということですね。
ということで、霊魂の部分を認識するにあたっても、その働きと働く主体を区別しなければならない。そういう区別が必要ということ。ですから、彼の霊魂論は働く主体と、働き方と、それから受動態(働きを受けるもの)、これらを区別して霊魂分析をしている。なんでこんなややこしいことをするのか。
これをわかりやすく、西田幾多郎の「純粋経験」を例にとって話してみます。人間がこの花が美しいと思う。美しいと思うときには、思う主体と、思いを引き起こす花とが、一体となった切り離すことができない瞬間的な感覚として生じてくる。だから主と客、人間である主体と花という客体は同じものだという「純粋経験」がそこに成り立つというのが西田幾多郎の原点、出発点ですよね。
ところがアリストテレスは、「この花は美しい」と思った瞬間であっても、美しい花と思うように刺激を与えたものと、その刺激を受けた感覚と、刺激を受ける土台となる自分と、この3つが美の構成部分としてあると考える。そして必ず人間の感性というのは、外の働きかけるものと、内の受容するものと、自分の判断主体とが、かならず、いわば対話し合っているのだと。そういう霊魂の働きを取り合えあえず区別して分析していきましょうということ。そういう霊魂分析なのです。
だから、なんともややこしい入り組んだ議論になっていくのですが、なぜ彼はそんなやり方をするのか。むしろ、それを考えるのが、私たちにとって大事なことなのです。
人間の認識というのは、認識のための感性を含めて、もとは外界からの信号が端になりますよね。外界から与えられる刺激と、その反応のなかで人間の霊魂の働きが成り立つ。だから霊魂の働きがこころのなかだけで自己完結する働きではないというのです。自分と、自分以外の他者の世界との共同の働きのなかで人間の霊魂というのは働くのだと。彼が考えるのは、こういう世界なんですね。
これは極端な言い方かもしれないけれど、仏教的な三界唯一心という、こころのなかにすべての事柄があるのだという認識論とはまったく違う認識論だということを頭に入れておかなければならない。ある面で唯物論的でもあるし、観念論的でもあるけど、その両方を取り込んだ認識論を唱えようとしていると言えるでしょう。
[ Fr ] 先生、認識論としての三界唯一は、純粋経験のご説明を含めて感覚としてわかる気がするのですが、認識の手法として、霊魂そのものは、ある人は大我(タイガ)といい、ある人は阿頼耶識(アラヤシキ)というし、ある人は集合的無意識というし、で、アリストテレスはそれを霊魂と名付けた。そして、その分析方法をいろいろ語っている。だから、認識対象の名前付けが違うから個別に見ると違う気もするし、一方でそれは認識する側が名前を違うようにつけただけであって、大本の、「それが何であるか」は同じものとも想定しうる気がします。どう考えたらいいでしょうか。
まず私の現在の感覚から申し上げると、相当違うような気がする。それは「光」の捉え方の違いと言ってよいかもしれない。認識するためには光が必要であって、ではその認識の光というのはどこから発するか。アリストテレスと仏教を比べて考えると、人間の認識する光というのは人間の内部にあるのだというのが仏教的な考えに近く、外にあるのだというのがある種唯物論的な考え方ですよね。光が外にあってそれが内に取り込まれる。根源は外にある。しかし、アリストテレスは内の光と外の光が出会ったところに人間の霊魂の働きがある、というイメージに近い。
たしかにヘーゲルなどが言っているように一定の思惟、思考力というのは、自分のなかだけでどんどん成長していく。思惟が思惟することで人間独自の構築する世界がある。でもそれは、外界の光と無縁に展開できません。もし内側だけの世界があったとしたら、それは一種の理想郷というか、現実ではない一種のパラレル・ワールドに過ぎない。仮想の世界として、あるいは影の世界として作り上げることはできるかもしれない。でもそれは本当に真実の世界だろうか。そういう真実性が必ず問われることになるのです。
今日の講義の最初にアレテイヤーという言葉が出てきましたよね。つまり「真実を認識するのに貢献するかどうか」。これはじつに重い言葉で、人間は自分の頭のなかでどんどんいろんな思いを巡らせて、何でも自己流に構築することができる。それは『霊魂論』の最後に出てくることなのですが、思考が思考を生み出すということ。でも、人間の思考が思考を生み出す世界だけでは、本当の真理認識には至りません。必ず外界からの光との対話のなかで、その真理性を確認しなければならない。『霊魂論』はそういう真の世界を探究する物語だと私は思っています。
[ Mt] わたしも一つ質問ですが、ロゴスの訳語が「言」となっていました。ロゴスは人間の言語、言葉に関係するものと思いますが、でも言葉そのものではなくて、論理性とか理性的行動と捉えたほうがよいのでしょうか。
えーっとですね、ロゴスというのは大変に日本語にするのが難しい言葉で、実際にギリシャ語の辞典を引くと、ロゴスは根拠、比例、祈り、言葉、そして知性(理性)……、と出ていて、そういうものが全部内包された意味を古代ギリシャでは持っていた。で、アリストテレスも十分にそれを意識してものを書いていると思われます。そうなると、ロゴスとは人間の言葉の能力をもちろん重要な意味として持っているけれど、ただ人間の言葉というものは大変に難しいもので、このロゴスという言葉は、ただ単に人間の言語として意思疎通するという、いわゆる言語能力に限定されない意味を持っている。理性判断という意味合いだけでなく、本質を瞬間的に掴み込んでくるという直観知的な意味もあるのです。だからここに、これまでのギリシャ語理解の大きな誤りもあって、日本だけでなく、ヨーロッパにおいてもそうなのですが、ロゴスを重視するギリシャ人は合理性を重視し、ギリシャ社会は初めて人間の合理的、理性的な世界として構築された世界であり、東洋の非合理的世界とは違うと、そういう話になってしまうわけです。
アリストテレスをよく読んでみると、ギリシャ語のロゴスには、じつはヌースつまり直観的知性を内包しているとも理解できる。となると、ロゴスを理性とだけ訳したのでは根本的に大きな誤りが生じることになる。
だからラテン人はラテン語でロゴスを翻訳するときに非常に注意して2つの訳語に分けた。一つはインテレクゥス、もう一つはラティオです。ラティオは合理的な知性ですが、インテレクゥスは本質を直観する知性です。論理的・理性的思考を経ずに、瞬間的に本質を直感/直観する知性というのがロゴスのなかに含まれるとして、アリストテレスをきちんと読み込んでいる。
そういう本質直観と合理的な知性を合わせ持ったものが人間であるのだけど、非常に面白いことに、人間はそれを「声」を通して相手に伝達するわけです。声、そして言葉は伝達する能力を持っている。そこに修辞性<オラティオ>という言葉が関連してくる。これは修辞学あるいは弁論術と訳されていますが、言葉を通して人間の知性を伝え合う力。それがロゴスのなかに存在している。
私の翻訳しているこのテクストでは、言葉を使って人間が伝え合う力として、ロゴスに「共通的根源観念」という、非常に固く感じられる言葉を加えていますが、ロゴスをそのような意味にも捉えているからです。
私がロゴスを「言」と訳したのも、じつはこの漢字自体に直観的知性が神的なものと交流するという意味がある。古代中国の『説文解字』という辞典を引くと、言には真心とか、真心を持って天と交流する力とかという説明がある。それならば言という言葉をそのまま生かして、「ことば」という読みにすれば、まあ割合にギリシャ語のロゴスに近いイメージになるだろうと。ちなみに、井筒俊彦氏は「コトバ」というカタカナ表記を使っていますね。
この『霊魂論』の読解も、アリストテレスの言葉を言<ロゴス>としてどう理解していくか。それはつまりどのような私たちの言葉/声として発し、構築していくかが、この連続講義の趣旨であり、私たちの使命でもあると考えています。
では、続きは次回に。
《2021年4月24日》