第1巻第1章(つづき)
ここまで、あまりにも哲学っぽい抽象用語が連続したので、「ここはいったい何を言っているのか」とか、なんでもいいので質問があれば。
[ Sb ] あとで出てくると思うのですが、先ほどウーシアーが形相だと。エイドスという言葉を使わないでウーシアーといった。ウーシアーとエイドスの違いって何ですか。
エイドスが通常の訳としての形相ですね。では、エイドスとウーシアーの違いって何かというと、まずは、ウーシアーってそれ自体で存在するものです。だから実有。何か「もの」が存在するときに必ず形相と質料(素材)が合体したものとして、私たちはそれを見たりできるわけです。
そして、私たちがその見ているものを、人間の知性によって認識しようとするときに、それが何であるか、バッサリと理性の目によって切わけて分節するわけです。切ったときにそのものの質料的なもの、つまり素材的でない部分を形相<エイドス>というのです。
[ Sb ] 「もの」は質料<フューレー>から成り立っているけど、霊魂にはフューレーがない。しかし、エイドスがありますということ?
だから、これはある種の言い方の問題であって、霊魂は人間にとっての形相<エイドス>部分といってもよいのです。霊魂が霊魂として自律的に存在しているわけではないんですね。肉体と一緒になっているわけですから。肉体と一緒になった霊魂のことも形相と呼びましょうと。
[ Sb ] ですが、ここであえてウーシアーというのはなぜなのか。
それは、霊魂がただの「もの」とは違い、存在しつつ働いているものとして見てみましょう、そこだけを取り出してみましょうということです。
[ Sb ] 形相といったときはただ単に形であり、木で家を作っている、木そのものは質料<フューレー>、家という形が形相<エイドス>。ところが魂にフューレーはない、つまり質料をもたない。だからそういう意味では、形相ではあるけれど、それそのものとしてあるわけではないので、違う言葉、ウーシアーという言葉を使っていると。そういう理解でいいですか。
最後のところがちょっとよくわからなかった。わたしの言葉でいうと、霊魂とは何かとズバッと問うているものだから、それは「存在している働き」ということをアリストテレスまず言いたいわけです。だから、そのときには実有<ウーシアー>という言葉を使う。ところがだんだん分析が進んでいくと、人間はウーシアーが存在する現実的ありかたとして肉体と合体しているもので、合体しているかたちで人間の世界では働いている。肉体と合体したときには肉体との対比において霊魂は肉体の形相<エイドス>だといえると。形相という言葉は必ず質料との対比概念で使われるわけです。そこがまた、理解をややこしくさせているのだけど。
繰り返すと、肉体との対比概念で魂(霊魂)を形相というわけですね。ところが、人間の魂は肉体を持った形で存在をする、肉体の形相として。だけど肉体が滅んだ後も、その形相部分である魂はある形で存続するといっているのです。そこがややこしいけど重要なところ。たとえば家ならば、なくなるわけですね、解体してしまったら。だけど人間の霊魂はなくならないと彼はいっているのです、肉体が滅びても。
[ Sb ] それでウーシアーという概念を考え出してきた。
そういうことです。
[ Ng ] ウーシアーをそういう風に非常に深い読み方で説明するならば、「自然本性<フュシス>」という言葉はもう要らないのでは? 「われわれが追求するのは霊魂の実有<ウーシアー>である」というだけ済んでしまう。どうして自然本性が実有と並んで別に言及される必要があるのか。
それはなかなか答えづらい質問です(笑)。とりあえずは、おそらくとしか言いようがないけれど、ウーシアーというのは存在の働き、あるいは「力(ちから)」ですよね、アリストテレスのいい方からすると。それが付帯的な、肉体とか植物のなかに入り込んで、そして自らどんどん成長していく、その特有の成長というものと、その成長の根源にあるものを区別したかったのではないか。たとえば、植物のような生命体なら、その自然本性<フュシス>によって芽が出て大きくなっていく。それを自然というのですけれど、それは必ず何らかの質料的なものをまといながら成長していくものである。だからそれをわたしたちは自然本性<フュシス>と呼ぼう、と。
ウーシアーというのは、そういう質料などのまとわりついていくものの根源にありながら、最終的にはもっと根本的な存在のパワーであって、それがどこかで神的なものと結びついていく。そういう世界がアリストテレスには見えていたんだろうと思います。もちろん自然本性も神的なものであるという言い方もあるけど、人間のウーシアーは動物のそれに比べて、より優れて神的なものである。そういう意味のことが、彼の言うことのなかにたくさん出てくるのです。人間は神の世界と結合していく存在であると。彼はウーシアーという言葉で、そういうことを言いたかったのではないか。だからフュシスとウーシアーを区別しようとした。そういう感じがする。これは簡単に答えられない問題だけれど、私は今の段階ではそう思っています。
もし完全に肉体と魂が一体としてあって、死んだら、つまり肉体が滅んだらそれで終わりという、人間がそういう存在であるならば、Nさんがいま言ったようにフュシスとウーシアーを区別する必要はないでしょう。だけど人間はそうではない。人間と、それ以外の通常の自然界の存在物は、共有する部分と異なる部分があるのだという自覚がアリストテレスの『霊魂論』には一貫して遍在している。
だからこそ、そこにティミオス(尊崇)という言葉が当然のように出てくる。その尊崇すべき事柄の最後の拠り所が、人間の霊魂はウーシアーであるということ。そしてそのウーシアーは自然的な形で展開するところもあるし、そうでないところもある。さっきの注釈1の事柄に関わるけど、自然本性的な世界としての生命体学/自然学と同時に、人間は形而上学的な対象でもあるということに深く結びついている。しかしこの二つの世界は断絶している訳ではなく連続している。だから、形而上学は非自然学でも反自然学でもない。本来の超現実主義の超現実(シュルレアル)が非現実でないのと同様に、自然を突きつめた先にある、いうなれば超自然学なんです。その「超」に関わるところをどうしても明確にしておかなくてはならない。だから、ウーシアー。
[ Fr ] 犬や猫などの動物にはウーシアーはない?
あるんです。だって存在しているのだから。動いているのだから。あるんだけれど、犬や猫のウーシアーは肉体と結びついた形でしか存在していない。だから生物学の対象としてでしかない。
[ Fr ] では、大乗仏教にあるような「山川草木悉皆成仏」まで広げてしまうのは、アリストテレスとしては違うのですね。
そこまでウーシアーを拡張する要素もないことはないのですが……。つまり生命を持つものと生命を持たないものがある。生命を持たないものも、存在としては実有<ウーシアー>ですよね。ウーシアーとしてのエネルゲイア(現実態)というか、働きもある。だけど魂は成長しない。自ら霊的に完成する力はない。そういう意味で物体的なもの、ものとしての生命体と人は違う。でも、すべて大きな意味ではウーシアーなのです。だから人間にとっての輝かしいウーシアーはこれらの生命体、いわゆる生物体としてのみのウーシアーとはちょっと違うし、非生命的な「もの」とも違う。しかし、全部を含めてウーシアーであるところのパワーが動いている。そういう世界です。
[ Mt ]では、ウーシアーを機能と訳してはだめなんでしょうか。機能とか働きとか、あるいは活動とか?
働く力 ! ここ本当に難しいところで、ウーシアーは働く力であると同時に働きそのものである。だから単なる機能ではなく、機能的存在者とでもいう感じなんです。
[ Mt] アリストテレスは人間の霊魂は死んだあとも存続すると言っているわけですけど、それは当時の人の一般的な考え方だったのか、あるいはアリストテレスはなにか特別な経験をしたのか。私はカトリック教徒ですから本当は信じなくちゃいけないんですが(笑)、同時に科学者でもあって、不幸にして死んだ人が蘇ってくるのを見たことがない。アリストテレスは見たのか、あるいは実体験をしたのか、魂の不死は当時の時代の考え方の潮流なのか。そのあたりはいかがでしょうか。
多くの学説を見ると、だいたいが霊魂不滅とか輪廻転生ですね。社会及び文化的制度はさまざまにあるとしても、多くのギリシャ人がその考えを持っていたと思います。たとえば、有名なところでは、ピタゴラスとかは輪廻転生説を主張しています。プラトンも生まれ変わりとかそういう学説を紹介している。それはおそらくインド・ヨーロッパ語族の古い霊魂観を引きずっていたのだろうと考えられる。だから東のアーリア人は輪廻転生説を現在まで継承していますよね。
しかし、それに対してギリシャ世界では、たとえばデモクリトスみたいな人もいる。唯物論者といわれる人だけあって、本書のあとでアリストテレスが紹介していますが、「いや、そんなことはない」のだとデモクリトスは言っている。人間、死んだら終わりだと。「もの」はいつか滅びる。人間だって物的なものから成り立っているのだからと。片方でそういう学説も広がっていく。
アリストテレスに関しても、彼の著作をよく読むと、肉体と精神は合体しているので、人間は死んだら、つまり肉体が滅びたらそれで終わりだというアリストテレス理解もある。おそらく学術文庫訳でも、そっちの、人間の霊魂は物体と合体してあるのだという解釈でしょう。肉体と合体した霊魂<プシュケー>を心<プシュケー>の働きとして理解していいという捉え方ですね。だから、『霊魂論』というよりも軽めの『心について』と訳したほうがアリストテレスのプシュケー論としては焦点を絞りやすいと。そこを強調した訳のほうがいいのではないかとの判断があるんじゃないですかね。どうでしょう。
歴史的に見ると、魂と肉体が合体することで、人間はいろいろなものを作り上げ、事を成してきたという、そこのところにアリストテレスの貢献のアクセントがあるのは確かなことなんです。それに比べると、プラトンはイデア説を唱えることによって「肉体は魂の牢獄だ」という理解になっていく。プラトンの著作には、肉体から切り離され飛翔した魂のほうが人間の純粋で至高の世界なのだというふうに描かれている。
それに対してアリストテレスは肉体とがっぷり四つに組んだのが人間の魂なのだと強調する。その意味でプラトン対アリストテレスを天井と地上を示す言葉や仕草にも関わってくる。ヴァチカンにある有名なラファエロの絵「アテネの学堂」でも、中央で天井を指すのが向かって左のプラトンで、右の地上を指すのがアリストテレスだという理解があるけれど、私はその中間を行くのがアリストテレスの立ち位置だろうと捉えています。あの絵を見ても、アリストテレスは決して下(地つまり肉体)を指さしてはいません。手のひらを横にひろげて、天と地の均衡を示しているように見えます。
[ Is ] それは人間だけに特有なことなのですか。動植物の霊魂は?
動植物にも霊魂はあるんですよ。霊魂はあるんだけど人間的霊魂はない。もっと正確に言うと、人以外の動植物は個体としては永続化しない。死んだらそれで終わり。でも、個体は必ず自分の子孫を残そうと活動している。だから生命体である以上永遠なるものを欲して、動いているパワーとしては人間の霊魂と似ているのです。だけど、個体として永続はできない。
しかし、動植物にも神的なものを彼は見ているのです。なぜかというと、動植物の生命というのは一代で終わるものではないから。代々産みついでいくことで神的なものを指し示しながら生きようとしているといえる。その生きようとする志向は神的な働きである、と言っている。そういう永続的な働きを持つという点で動植物も神的な存在なんですね。くどいけようだけど、だけど個体としてはそれを持たない。人間だけが個体としてそれ、すなわち魂の永続性をもつ。そこにアリストテレスの一種の人間賛美、人間を尊崇に値する存在として見る観点があるのです。
***
では、講読をつづけましょう。
さて、われわれが追求するのは、霊魂に自然本性<フュシス>とその実有<ウーシアー>を観て<テオリーサイ>認識することであり、次いで霊魂に付属しているものをも観て認識することである。その霊魂に付属するものの内、あるものは、霊魂に固有の感受性であり、他は、この霊魂に依っておりながら、すべての生命体に存在すると思われるものである。
この文も説明すればきりがないけど、まあ、ある程度のイメージは持つことができたということにしましょう。さて、
しかしながら、霊魂に関して、一定の信頼できる確証を得ることは、あらゆるもののあらゆる点において、もっとも困難な問題の一つである。なぜなら、この問題は、他の多くの事柄に共通の探究問題であり、すなわち、その実有、言い換えれば、それが何であるか、についての探究であるからである。あるいはおそらく人は、そのものの実有を知りたいとわれわれが思うもののすべてに即した一つの探究方法が存在しているのではないか、と思うかもしれないーーたとえば付帯的なものに固有のものについては、論証という方法があるように――。したがって、このような探求方法を求めねばならないと思うかもしれない。
しかし「何であるか」について共通の、一定の方法が存在しないならば、それを仔細に検討することはさらに一層困難なことになるであろう。というのは、その各々の場合について、それぞれの探究方法が何であるかを把握することが必要になるからである。しかしその探求方法が、論証なのか分割なのか、はたまた他の方法なのかが明らかになったとしても、探求が始まる起点に関して多くの難問と逸脱が生じるであろう。というのは、各々の事柄には、それぞれに異なる起点があるからである。それは、たとえば諸々の線と諸々の面とでは、起点が異なっているようなものである。
この文章、わかりますか。学術文庫版の訳と対比しながら見てみましょう。頭の部分はこうあります。
「しかし、心について何らかの確証を掴むことは、あらゆる点でも最も難しいことに含まれる」。まあ、サラッと訳せばそういうことですね。
「ここで探求されている問題とは、本質、つまり何であるかの探求のことだが、この探求は他の多くの事柄と共通である」。ここでも同様に、彼は「本質、つまり何であるか」、と訳しているのだけれど、私は「その実有、言い換えれば、それが何であるか」としています。
この「何であるか」というときに、普通の状態に戻って考えていくと、たとえば荒木勝というのはそもそも何であるか、と問うたときに、荒木勝の本質というものを指しているのだろうか。それで何もわからないというわけではないけれど、本質というよりも、まずこの荒木勝というのは生きているものであり、そして常にいろいろなことを考え、動いている。そういう事も含めて荒木勝が荒木勝として存在する究極の根拠、それをわたしたちは探求しているのである、ということです。
そのときに、人々は究極の根源、荒木勝を荒木勝たらしめている究極の根源を検討するための一つの探求方法があるのではないか。そう思うかもしれない。「たとえば、固有の付帯性には論証があり」とあるように、私たちがものを考えていくときに、たとえば論証というやり方がありますよね。これは学術文庫版の注を読んでみますと、「論証というのは物事の学問的認識を得るために必要な推論で、物事がどうしてそうなっているかの説明を与えるもの」とある。たとえばAさんが殺人を犯したとする。なぜ殺人を犯したのかということを一つひとつ物的な証拠を集めていって、斯々然々で彼は殺人を犯したということが推論できる。こういう推論のやり方もある。これは法理学的な推論ですよね。これを論証と考えることができます。
しかし、そもそもそういう推論的な論証ということで、本当にそれが何であるかということを探求できるだろうかともいえるわけです。ではどうするか。もしどうすればよいか、その方法がわからなければ、荒木勝がなにかということを仔細に検討することは一層困難だろうと言っている。だから、もともとの根源のところを問う学問的方法がなければ、それに付随しているいろいろなことをやったって、本当に理解することにならないだろうと。それぞれの場合についての探求方法を把握することが必要。細かく分けたうえで、それぞれに即している探求方法を考えておく必要があるのです。
こういう理解の仕方において、アリストテレスの学問は非常に優れていると私は思うのですが、常にそのものを探求するための、それに応じた学問的方法論を彼は考えているということです。ただ闇雲には探求しない。かならずAという種類に即したBという方法がある。それから、探求するための手順というものをすごく大事にすることの必要性もここから汲み取ってもらいたい。
そのときの方法は論証なのか、それとも分割なのか。分割というのは、だいたいサイエンスが採用するやり方のイメージですよね。ある事柄が何であるのかを知るためには、とにかくそのものをいくつもの部分にまで分解していって、その分けた小さな部分をさらに細かく追跡していく。その端的な例が量子力学ですね、ものの世界で言ったら。量子力学というのは早い話が、ものを極小に分解して分析するという方向性をもつひとつの学問の方法論です。
もうひとつは、さっき例に出した人間の犯罪行為があったときは、いろんな物証を探して、誰が考えても合理的な推論、否定できない推論を組み立てていく。そういう論証のやり方。ただし、その推論が始まる起点、というあたりまで遡及すると、多くの難問と逸脱が生じるだろう、という話になるわけです。
たとえば、ひとつのイメージで言うと、最近よく聞くのは「生命とは何か」の議論をするときに、ある生命体をひっぱり出してきて、これを分解、分析していけば究極的に生命とは何かがわかるのだという考え方。私の中学・高校時代の友人に物理学者がいるんだけど、彼らは必ずそういう言い方をする。生命とは何かを分析しようと思うなら、生命体をギリギリ極小の単位まで分解しろと。ところが、生命体を分析してくとそれが生命と呼んでよいかどうかわからない物体あるいは物質につきあたる。代表的なのが、たとえばウイルス
では、ウイルスは究極の生命なのか。わからない? ではまた、さらにウイルスを分析し分解していったときに、本当に生命とは何かということがわかるのだろうか。結局のところ、どこまでいってもそこに大きな難問が生じる。逸脱も生じてくるだろう。
なぜかというと、ウイルスは生命体でないと断定してしまえばウイルスを研究しても生命の根源には突き当たらない。では生命体なのか。ウイルスが生命体であるかないかを誰がどう決めるのか。これは未だに生物学会でも定説がない。つまり、物事の根源までさかのぼっていくと、本当のところそれが「何であるか」ということを明確に論証することができないという根本的な問題に必ずぶち当たることになるのです。
それは法学でも同じで、ある人が犯罪を犯したとされるとき、その人を裁くためには彼もしくは彼女が人間としての理性的判断の持ち主であるかどうかが前提になりますよね。法律学的には、その人がちょっと狂気というか、心神喪失状態で理性的な判断しなければならない。その判断のための判定を私たちは簡単に医者に丸投げしてしまうわけです。
でも、医者だからといって、その人が本当に理性的で合理的な思考ができるのかどうか、完全な論証ができますかという問題。論証できないでしょう。せいぜいのところ100人の患者(被告人)を集めて診断したうち90人が同様の結果であればそれが正常で、残りの10人は正常ではない、つまり理性的判断能力がないということになる。つまり量に還元するか、あるいは思考実験を何回かやらせてみての正解率で判定するか。それは単に確率であり、部分(少)か全体(多)かということなので、本当にその人、彼もしくは彼女に究極のところで合理的判断ができるかどうか、つまり「普通の」人であるかどうかを論証することなどできない。そもそもが、探求の始まる起点において、そのような難問と逸脱が生じるものなのです。
「各々の事柄には、それぞれに異なる起点があるからだ」というのは、たとえば線とか面とかの起点が異なっているときにとか、他にもさまざまな事柄の起点(前提)が異なっていると、それが何かを問うこと自体が非常に困難になると、そういうことをアリストテレスは言っているのです。
この点でも、すべての事柄にはそれ固有の研究方法があるということが一つと、それから研究の原点それ自体の根拠を論証することはできないということ。研究を進めるにあたっては、そういう大きな基本的命題に必ず逢着するものなのです。そういう事を考えていくと、いったい霊魂とは何かを探究するときに、ここでも、そのことが非常に大きな困難として生じてくるというのです。
このように、最も重要な問題でありながら、私たちは霊魂とは何かと問うときに、スタートから雲を掴むような状態に立たされている。さっきの文章に立ち戻っていただくと、「霊魂に自然本性とその実有を観て認識する」って書いてありますよね。「観る」はギリシャ語で「テオーリアー」という言葉からきています。テオーリアーって、もともとの意味は「みる(見る、観る)」ということなんだけども、ここでは「観る」という字をあてていますが、観ると言ってもどういうものを観るのかというと「神の意志を観る」ということなんですよ。これはテオスという言葉から来た言葉で、多くのギリシャ人はデルフォイの神託を聞きにいくことをテオーロイといって神的なもの、神託を見る人々を指します。そういう意味で神的なものを見て観察、あるいは観想するという、そういう意味がテオーリアーという単語のなかにはある。だから私たちが近代的な実験科学とか、そういう形でものを見る、あるいは観察するというのとは、やっぱり違う。そういうことを念頭においてください。
テオーリアーはラテン語でコンテンプラチオと言います。コンというのはtogetherで、テンプラはテンプル、つまり神殿。神殿でともに神のあり方を観るというような語感に近い。それ自体が近代的な考察方法ではないという側面もありますが、アリストテレスは確実な認識を探求しようとする人ですから、物事は分解に分解を繰り返して、あるいは合理的な論証して推論を重ねて見ることをしなくてはならないけれども、しかし霊魂を観るときには、それではたいへん大きな混乱に遭遇しますよという話なんです。(つづく)
《2021年4月24日》