9章
【幸福は神から与えられた人間の霊魂(たましい)の活動であり、政治の目的は市民たちがこのすぐれた徳(アレテー)を十全に発揮できるよう導くことである】
このことから、幸福は、学習によってか、あるいは習慣か、それともその他の訓練によってもたらされるものなのか、また、なんらかの神の定めにしたがっているのか、もしくは運によるものなのかという難問が生じてきます。だとしても、もし他の何ものかによってであれ、人間に対する神の贈り物があるとするならば、幸福こそまさにそれであり、そしてそれが最善のものである以上、幸福は人間がもつ技量(アレテー)のなかでもっともすぐれたものであると言ってよいでしょう。
この問題のくわしい考察は別の機会に譲るほうがよいと思われますが、しかし、たとえ幸福が神から与えられたものではなく、人の卓越的力量(アレテー)によって、また学習によって、あるいは鍛錬によって手に入れるものだとしても、幸福はもっとも神的なもののひとつであることだけは言っておきたい<Ar.ここにアリストテレスにおける、いわば経験的事象から形而上学、神学的探求に進む視座を読み取ることができる。この点は『霊魂論』の分析方法と同一であろう。「知性はなにかもっと神秘的であり、どんな作用も受けないものである」408b29>。というのもそれは人のアレテーの目的であり、その褒賞であると同時にもっとも善きものであり、なにか神的な至福そのものであるように思われるからです。
同時にまた、幸福は誰でもあずかりうるものです。なぜならアレテーに対して不備不足のある人以外は、どんな人でもある種の学習と心遣いを通じて幸福を手にいれることができるのです。
しかも、このような仕方で幸福になる方が、「運」によって幸福になるよりも素晴らしいことであるならば、そのような幸福を手にいれることは理にかなっていると言ってもよいでしょう。すなわち、自然に基づくものはその本性上、許される限り美しくなるようにできているのであり、また技芸(テクネー)などすべて何らかの原因があって優れているものは同様な性質をもっているものだからです。つまり、最善の原因に基づくものは最も善いものといえるわけです。したがって、もっとも重大な、もっとも美しくなりうるものを「運」に委ねてしまうのは、大きな誤ちであると言えるでしょう。
いまお話ししているこの問題は、これまでの議論からみて、まったく自明な事柄に属します。先に、幸福とは人のアレテーに即した霊魂のある種の活動(エネルゲイア)であると言いました。それに対してそれ以外の幸福=善のあるものは、それに付随しているものであったり、またあるものは、その本性上道具として手助けになるものや、そのために有益であったりするものです。こうした考え方は前に述べたところと一致しています。
すなわち、私たちは、政治学の目的は最高の善の達成であるとしましたが、これは市民をある一定の性質をもつ者にすること、つまり善き人間、美しい行いのできる人間にすることに最大の関心をはらうということです。当たりまえのことですが、牛や馬やその他の動物を私たちが幸福な者と呼ばないのは、それらの動物たちはそのような活動にかかわることができないからです。同じ理由、同じ意味において、人間であってもその子どもを私たちは幸福な者とは呼びません。なぜかというと、彼らはその年齢ゆえの幼さのために、このような「政治的」活動をまだ行うことができないからです。幸福な子どもといわれている子は、将来への期待をこめた祝福ゆえにそう呼ばれるのです。
実際のところ、すでに述べたように、幸福な者となるには、完全なアレテーの発現と完成された生涯が必要でしょう。というのは、人の一生のうちには、多くの転変とあらゆる種類の運不運が生じるからであり、たとえば、トロイヤのプリアモスについて語られているように、最も栄えていた者が晩年に予期せぬ災いに見舞われるということがありうるのです。このような運命に遭遇し、悲惨な最期を迎えた人を誰も幸福な者とは呼ばないでしょう。