「神国大日本」。あの時は子供心にも確かに私たちのこの国をそう考えて来ました。どんなに空襲で火の海を這い回りながらも、いつかきっと神風が吹きおこって、こうして爆弾の雨を降らすあの者たちを残らず滅ぼしてくれる・・・そう信じていたものです。だから誰も彼もが進んで身を鸛毛の軽きにおいて(懐かしい言葉です)その神国の守りに就きました。そのとき村の八幡様はその神の護りと人間の護りが一つに出会う場で、兵士たちもそこから征途に上ったものです。これは私の村のその八幡様の入口のところに立てられた石標です。裏には皇紀二千六百年記念、□軍中将柳田平助書と鏤まれてあります。
ところが次にやって来た時代は、神国というそれは全くの嘘で、こんどは新来の民主主義という神様の前に、私たちはこんなことをしてしまったのです。”神”も”国”もモルタルでべたべたと塗り込められて、まるでこれは瘡蓋のような焚書坑儒の痕跡です。その時、軍国的な一切が抹殺される勢いの中で多くの忠魂碑も引き倒されました。つい昨日までは威儀を正して対面し、あるいは仰ぎ見る象(かたち)に造られた忠魂の文字が、今度は道ばたに見下ろす文字として横たえられているのです。これらは私たちの民主主義がこのようにして始まった懐かしい風景であると同時に、後々その解放や繁栄の喜びの裏側にぴったりと張り付いて止まぬ私の光景でもありました。
実は私はここに十年来、ずっと方々の、例えば看板の文字や暖簾や道標などの文字を訪ねては写真を撮って来ました。そして小さいものですがそれらは二冊の単行本にさえなりました。なのになぜか今迄この懐かしいものと正面から向き合えずにに来たのです。思うにこのべたべたとしたモルタルのこれも私たちの造った明らかに一つの文字で、それがこんなふうに瘡蓋のイメージを持つことが耐え難かったのかもしれません。
そして今、ふと気がついてみるとそれらの忠魂の文字も、いつの間にかもとの位置に、ニョキニョキと立ち上がっているのです。そしてよく見ると誰かがこの碑文のモルタルに執拗な引っ掻き疵をたくさん付けています。この民主主義の瘡蓋をまた剥がそうというのでしょうか。だとするとこれもいま、自分たちの上にさらにまた何事かを書き加えようとする新たな線刻文字に、私には見えるのです。思うにこれはこうして、三層もの碑文が折り重なるように鏤まれた、今世紀私たちのまぎれもない多重の、そして奇しくも現在進行形の碑なのです。(季刊「銀花」別冊『手紙』第二号掲載昭和59年12月)
付記/この石碑は、その後、自動車事故で根元から折れて、おそらく対物保険ででも作ったのか・・・、新らしい碑にが建てかえられた。その「神国大日本」の文字も、今度はくっきりと彫られている。