複眼の眼差しによる現代の入木道 ─ 関宏夫 板刻展『論語刀華』

『論語刀華』関 宏夫 論語板刻集成
関 宏夫『論語刀華』より

 関さんの仕事ぶりを、初めて見せてもらったとき、私はふと「入木道(じゅぼくどう)」という言葉を思い浮かべました。入木道とは、なんでも分厚い祝版に書かれた王羲之の書を大工が削ってみると、墨痕が三分も木に浸みこんでいたという故事によるもので、後に「羲之ハ石ニ空海は木ニ入ル」などともいわれ、能書の持つなにかしら一種の超越的な強い気迫をたたえた言葉として、以後書道の別名にさえなっています。

 もちろん関さんは板に直かに書くわけではありませんが、その分、刀という鋭い切れもので、自分の書いた文字に丹念に形を与えてゆこうとする、その切迫感に置き換えていると私には思えたのです。

 初め関さんの刀は、自分の書いた文字の輪郭をなぞるように彫りを入れていきます。

 輪郭をなぞる。私はこれは書のデッサンということを考える上で、とても大切なことだと思っています。輪郭をなぞる。つまりこれは昔から書道の古典の勉強の一つである「搨模(とうも)」、つまり「双鉤填墨(そうこうてんぼく)」ということにあたるかと思うのです。目指すマスターピースの上に直接紙を載せて、上から透かしながら輪郭を写し取っていく、いわゆる敷き写しの方法です。

 この敷き写し、やってみますと、例えばこの “払い” がこんなところまで入り込んでいたのか! この線はこんなふうにうねっていたのか! といったような驚きに出会うことが少なくありません。つまり書を造形的に捉え、デッサンを養う上では大切な方法だと思うのです。

 としますと関さんは、自分の書を改めて彫刻しようとするとき、刀で文字の輪郭をなぞりながら、いやでも自分の書に造形的な検証と少なからぬ工夫を加えていくことになります。

 例えば筆のカスレなどにしても、そのまま忠実になぞろうとするのではなく、その時の筆の勢いを読み取って、かなり簡略化・抽象化を施して彫っていく。当然、文字の造形的な表情はつよいものになります。そしてそれをまた紙の上にフィードバックさせて自分の書の訴求力を高めてゆく、関さんの芸術はそういう、書と彫刻の間の相互関連から生まれる、複眼的なやりとりの上に成立するものだと思いました。

 また、これらの文字の多くには色彩が与えられていて、それは漆、日本画の顔料、紅殻や砥の粉など、もちろん墨の場合もあります。金箔が置かれる場合もあります。また既に彫り上がった板をバーナーで焦がして、その焦げ色を色彩とする場合もあります。

 それらは、一つは文字に色の層を作って色彩そのものを書のひとつの表現としているもの、もう一つは彩色することによって実は、その基胎となっている木材の材質感を、例えば木の年輪や鑿による手わざの跡などを、完全に覆ってしまうのではなく、それぞれの色材の材質を通して却ってなまなましく捉えることになっているもの、とがあり、特に後者では、それが彩色されていない地の木肌の部分との間に微妙な造形的なイリュージョンをひきおこして、文字の表現をより重層的なものにしています。

 その上、ここでは当の色彩さえもがそのことによってそれぞれに、より材質的な層を露わにされています。色彩とマテリアル。とかく現代の書の表現に欠けているこの二つの面を追求することで、関さんは書道の可能性を問いかけているのだと思います。

『論語刀華』関 宏夫 論語板刻集成 『論語刀華』関 宏夫 論語板刻集成

 次に、関さんの板刻のモチーフになった[論語]。それも人口に膾炙された六十七のフレーズを選んで、しかも十年の歳月をかけて彫りためたものだそうです。ならばこれは、中国哲学史を専攻した関さんのいわばライフワークのようなもので、関さんはそれに対して自ら『論語刀華』という名前を与えました。

 刀華というのは何でも、彫刻の最中にふと刀が滑って、そこに思わぬ疵を付けてしまうことがある。これは勿論疵には違いないのですが、実はこの疵と思われるものこそ自分の書の表現に、ある豊かさをもたらす、まさに「刀の ” 華 “」なのだ、という気持ちなのだそうです。

 ここにもまた関さんの、モノの理法を単一に見ない、複眼的でおおらかな、しかもきわめて人間的な眼差しが読み取れてとても興味深く思ったのです。さしずめ洗濯機やエアコンなどで今盛んに言われている “ファジー” そのものです。

 そして同時に、この論語の意味するところも、孔子とその弟子たちとのその時々の “会話” ということですから、それは必ずしも一貫しない、矛盾があったり迷ったりどこか人間的な、だからこそ、生活のエッセンスといえるものです。そして絶えず論理的な一貫性を求めて止まない西欧的なデカルト的な思考とは異質のものです。

 今、公害問題などを含めて、西欧的な物質文明に動きがとれなくなっている私たちの環境に、関さんは自分の『論語刀華』という芸術を掲げて、是非ともそうした複眼的な柔軟な思想のあり方を言外に訴えたいのではないでしょうか。


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