コンテンポラリー・粋(すい)/狂 2

池田忠利の『スクラップ・ワンダーランド』について
ど忘れ

  ど忘れ
– 池田における言葉あそびの夢 –

 蘭喰いハーちゃん/南海のクリオネ/ど忘れ/以前どこかで…(予期せぬ再会)/仮面の祝祭/ボク、歯医者さん苦手なの!/彼は取っ手もイイ男/鳥のシャポー/遅刻常習犯/ヒジ鉄/874の話/あ、風が止んだ/風来鳥/お手玉占い/絶滅危惧種(大目玉魚)/風の詩を聴く/イスタンブルーからの平和の使者/変装名人「山ちゃん」の犯罪/こうして池田は出来上がった作品にいちいち標題を与えてゆくのだが、池田の作品を語る場合、どうしても外せないのが、作品に添えられた以上のような「ことば」の存在だろう。こうしてそれだけを取り出してみると、ふと読み過ごしてしまい、おや?、よく見るとちょっと変。「蘭喰いハーちゃん」も乱杭歯の人物をもじった、そして花の名前に換えて些かの美化を施した、人の名前/渾名、だと気付くとき人は彼の仕組んだ「言葉と作品の往復運動」に、快く巻き込まれているのだ。じっさいこの作品がこうして一つの形を得るためには、はたして幾度もの「言葉と物」のつまり見立ての往復運動が行われたことか。

つぶやき
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  つぶやき

 「つぶやき」これも私の好きな作品の一つだが、なんとカニの甲羅をそのまま寡黙? な男の肥大した頭部と、その下部にちょこっとだけ許された顏、タイトルの由来になった男の内気な口は、釣りの浮子をつかってさらに下方に、といったイメージの激しい揺さぶりの、大胆な「見立て」がしきりにブツブツとシニカルな光を明滅させて、そのつぶやきがこちらのまなこに聞こえてくるような、そんな見事な作品だ。

 それを見るこちらはさらに、この肥大した頭部にむけて「カニみそ/脳みそ/いつもブツブツ、泡噴きおやじは蟹座の生まれ」などと思わず口をつく、へらずな地口ならそれこそ「止しとけ與志兵衛」。確かに「遠いものを結びつけ、近いものを遠ざける」というシュールレアリズム的言葉遊びのハードコアからすると、こんな地口は落第かもしれないが、とにかく連鎖的に口をついて出る言葉遊びに人を誘い込み、それからそれへと、さまざまにイメージ連鎖を欲望させてやまない作品だ。

 言葉といえば、かつて一人のヨーロッパの詩人が、近代の入り口のところで、今はやりのマニフェストではないが「詩は言葉で作る」と宣言して以来、このカニみそ頭のおやじの、もちろん池田の脳みそも、かく言う私の、いや人間すべての脳みそが、どうも”言葉”によってかたちづくられているらしい、ということに気付くことになるのだが、結果、池田の作品も、言葉の持つ比喩の力とかイメージの連鎖的な働きとかいったものを抱え込んで、それと巧みに渡り合うその修羅場で、池田の脳みそいっぱいに詰め込まれた見立て回路のシナブスは、つねにフル回転の発熱状態なのだ。先の草森はそうした脳みその働きに江戸の見立ての粋をみて「見立て狂い」と言ったのだが、池田の場合もまさに今様の「粋/狂」。いや、ぐっと若返らせて「コンテンポラリー・粋(すい)」とでもどうだろう。いまやその様がますます冴え渡って、ひとつの極点に臨もうとしているかに、私にはみえるのだが…。

 そうした池田のイメージ連鎖の、あるいはその断ち切りによる飛躍の企て、そのフットワークの軽妙さを目の当たりにして私は、思わず「コンテンポラリー・粋」などと口走ってしまったのだが、つい先日も、この作品集刊行にあたって、改めておびただしい作品を見渡しながら、彼は私にむかつて、「我ながらよくもまあ…」と述懐するのだが、もちろんそれはここ10数年にわたる自身の歩みへの自負、あるいは達成感の表明なのだが、と同時に私には、それが否応無しに踏み迷ってきた「粋/狂」の淵みの暗がり、ヴォリュームの重さ、の自覚、あるいはもしかして、自分が関わってきた膨大な廃棄物たちの、それら人間の創りなした夢のかけらの、儚さ、へのふとした心の揺らぎ、を見るのは果たして深読みに過ぎるのだろうか。

 そういう彼に私の大好きな、ひとりの高貴な魔法使いの言葉を贈りたい。

 「われわれ人間は夢と同じ成分で織りなされているのだ—-プロスペロー」(シェークスピア「テンペスト」)池田に引きつけてこれを考えれば、夢というも畢竟言葉の織物。まことに関係的な人間の在り方を言い当てた言葉ではないだろうか。IKEDAワンダーランドという一場の、これは池田の言葉遊びの、夢見の劇場なのだ。

– アールブリュットと池田 –

 それにしても2004年、池田忠利がベルリンの日独センターで行った個展のカタログに小文を寄せた私は、その時はあくまで漂着物と作品を結ぶメカニズムに関心をとられて、ヨーロッパの深部での彼の個展という、彼にとってのそのことの意味合いの深さに、私は迂闊にも気付けなくて、実はそのとき私も別の目的からイタリアのトスカーナ、ベニス、そしてウイーン、プラハと、ヨーロッパアートの最深部をへて、さらにベルリンの池田の個展のオープニングへと”追っかけ”の旅を敢行したのに、である。池田はそのあと続いて、ポーランドへと個展の旅を進めることになるのだが、それからすでに5年の歳月が流れた。

 そんなあるとき、私は池田から、知人から貰ったという一枚の衝撃的な写真を見せられた。それは一人の老人が椅子に腰掛けて、二本の箸で自分のペニスを摘まんで披露している、という、すでに少し黄ばんだハガキ大の銀塩写真だった。

 池田によるとその写真の主は老いたかのゾンネンシュターンで、なんでも、はるばると日本から訪ねてきた客に、何ももてなすものがないから…、といいながら演じたパフォーマンスだということだった。この奇矯/奇狂! そしてこの激しい逸脱! それを機に、池田はアウトサイダー・アートないしはアール・ブリュットに対する数々の資料をみせながら、いくたびか熱い思いを私に語ってくれたのだが、それを聞きながら、並々ならぬ傾倒の様を知るとともに、あらためて彼の芸術の根の、深い暗がりに思いを凝らすのだった。

 アウトサイダー・アートとかアール・ブリュット「生(き)の芸術」とは、いわゆる知的障害者、精神病院の患者、アルコール中毒者、性的犯罪者などなどによる、まさに逸脱/疎外の芸術といえるもので、これは前世紀始めの、かのシュールレアリストたちの出会った、あるいは創り出した、さまざまの他者、じっさい彼らは絶えず何らかの、例えば「狂気」とか「無意識」「愛」「未開」とか、じつにさまざまな他者に出会い続けたのだが、とにかくアール・ブリュットは、彼らがヨーロッパという精神の王国(帝国でも可)で出会った、そして創り出した他者のなかでも、かなり大きめなもののひとつに違いない。

 そういう意味では、絶えず池田の「媚を売るもの」には女という暗黙の見立てが感じられ、それは「主体の外から襲って来るもの」としてのブルトンの「ナジャ」的な他者からの愛、とも言えなくもないが、池田の場合は、先にも述べたように、すでに自分という王国を他者へ向けてシフトした、間主体的なニュアンスのものだ。

 そのように社会から、あるいは中心から疎外されているアール・ブリュットの彼ら、彼女らはいずれも、専門の美術教育を受けたわけではなく、したがって使う画材も、方法も、ある面では無頓着に、ある面では頑固に固執し、(どんな画材でも、チラシや包装紙でも、そこにあるもの、そのとき与えられたものを)ただ一つの目的に向かって込める情熱のひたむきさ、表現のエネルギーに、まさにそこに生(き)の芸術の純粋さをみて、事実私自身もそうだが、ただただ圧倒されてしまうのだ。もちろん池田は、立派な専門の美術教育も受けているし、だいいち、アルコールは一滴も呑めない。おまけにたぶん知的障害者でもないので、なかにはサヴァン症候群とよばれるような、独特な天才に恵まれた者もあったりする彼らの、美術的にも哲学的にも卓越した作品に接するとき、なんといってもわれわれが日頃から、強く望みながらもついに得られないでいる芸術的「自由」の領域へと、いともやすやすと超え出てしまっている、そういうところにまず憧れ、あげくに些かの自己嫌悪におちたりするのだ。だから池田のさきの「媚を売るものを選ぶ」という一見あちら任せにみえる態度も、彼らが持つ素材や方法を選ぶ無頓着さへの憧れから編み出した、池田なりの主体操作のひとつなのかもしれないのだ。

誤里霧中???
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  誤里霧中???

 ところが彼のその主体だが、このたび新たに加わった(と私が思う)幼児の落書き様のドローイングにいたって池田は、いままでの間主体的な自他の間合いの取り方を幾分か、自分中心の方向にシフトしたのではないか、と思えるのだ。例えば「誤里霧中???」とか「うるさい生徒達」を、他の作品と比べてどうだろうか。そこには、以前のように溢れるような物質感、使われたオブジェの元の形とあらわされた顏なら顏という形象との、池田が作りだすギャップ、それに加えてそこに付されたタイトルの絶妙な「抉り」、それが大きければ大きいほど、人々の歓びも大きかった。しかしこのドローイングでは、そういう面白さはかなり遠退いて、代わりに溢れ出したのは囚われない変幻自在な筆勢と、ようやっと形をそれと保つときの表現のスリル、というところだろうか。アール・ブリュットとの関連を見てきた後の、この天衣無縫さ。またそう在ろうとする芸術的態度。新たに登場したこれらの作品については、私は今後の進展を楽しみに見極めることにしたい。

 最後にこの文章を結ぶに当たって、渚を創造の場とする池田にひとこと、急激に変化する昨今の渚事情について述べておきたい。

 私が2004年、池田忠利がベルリンの日独センターで行った個展のカタログによせた小文を、いまだ覚えてくれていると思うのだが、それを次のような言葉で締めくくった。「いまわれわれの文明自体が漂流し始めたのだ! 果たして今日以後、池田の脳内風景の渚には、いったいどのような文明の漂流物が流れ着くのか。」と。

 あれから5年、あらためて君の創作の場である渚の状況に目をやるとき、例えば先日もYahooニュースが、このところ日本各地の海岸に流れ着いた、医療廃棄物や動物の死体、火薬類が含まれた発煙筒、信号弾などの危険物で、感染症に感染したり、火薬類の爆発で思わぬ怪我をする、といった事故が増えている、と。特に鳥の死骸には鳥インフルエンザの危険性があり、瓶などには硫酸や農薬といった危険物が残されたまま漂着する場合がある、というのだ。(こんなとき、よく動物の白骨などを拾ってきたりする君の仕事を思って、言いようのない不安にかられるのだが)。

 またコンピュータ戦争にしても、日本の上空をミサイルが通過したり、それを迎え撃つ迎撃ミサイルを配備する、といった軍拡のシーソーゲームがにわかにわれわれの現実の問題として起こり、今もなおその緊張は解かれていないことを思うとき、それがベルリン個展からわずか5年しか経ていない今日、あの頃はまだ、湾岸戦争といったコンピュータ戦争なども、どこかテレビ劇場のハイテクドラマのごとく、幾らかの距離感を以て、半ば予言的に書いていたことを感じるのだ。

 いまや君の脳内風景と化した渚そのものがそのように変化し、君に秋波を送ってやまない漂着物は、いまやとんでもない文明のリスクを抱え込んだ悪女のそれに変貌しつつある、とすれば、それは君の創作に直截的に深く関わる大問題でもある筈で、その危うさがまた、君の作品の現代的な魅力の一つともなっていると思うのだが、ひとたび巨大文明のリスクをいっぱいに孕んだ秋波を投げかけられれば、アフォーダンスを旨とする君の側にはそれを拒否するメカニズムは、おそらくはじめから具わっていないにちがいない。渚の素材集めは、だからくれぐれも用心してほしいのだ。

*本稿は池田忠利作品集『SCRAP WONDERLAND』に寄稿したものです。


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