『消えゆくことば』の地を訪ねて

図書紹介
「消えゆくことば」の地を訪ねて

私は今、友人である木下哲夫さんが翻訳したマーク・エイブリ(イングランド生まれでケベック在住のジャーナリスト、詩人)の[「消えゆくことば」の地を訪ねて]という本を読みながら、これは浩瀚な読書家揃いのアリ研(アリストテレスと現代研究会)の皆さんをはじめ、多くの方に是非とも読んで頂けたら、と願って紹介させて頂く次第です。

― マクドナルドを背負った言葉に ―

 今世上では小学生から英語を教えるかどうか、といった問題がテレビや新聞を賑わしていて、日本人のアイデンティティの在り処が、言葉の問題を軸にして誰の心にも陰を落としています。

 しかしこの本自体はそういう際物的なものでは決してなく、それどころか、オーストラリアから北極圏まで、ウェールズやイギリス諸島のマン島、なかには母音を持たない言葉、81個の子音を発音しなければならないコーカサスのカバルディアン語とか、とにかくそうした世界中の少数民族を実際に訪ねて、その民族のことばが、ウォールマートとコカコーラ、あるいはマクドナルドを背負ったことばに置き換わって消滅してしまいそうな、そういう瀬戸際の人々を訪ね、実際にそれらのことばをしゃべったり聞いたりして取材した、切実なレポートです。そしてまたこれも一つの貴重な言語論でもあるのです。

― 無文字社会の言葉 ―

 今の私達の常識では、ことばといえば音声と文字表記とがペアになっていますが、ここで取り上げられている少数民族の言葉は、すべてが音声言語で、つまりいわゆる無文字社会のものです。文字を持たない民族、といえば皆さんはすぐさま、アリ研のメールで話題に上ったレヴィ・ストロースの「野生の思考」や、これもやはりアリ研のサイトで石井さんでしたかが出されていた、川田順造のアフリカでのフィールドワークを中心にした無文字社会、口頭伝承の研究があります。が、この書は、これらとはひと味違うもの、つまり現在地球を支配しようとしている強大な言語との凄まじい確執のドキュメントになっている、ということなのです。

 例えば国家政策による暴挙としか思えない、こんな例もあります。アボリジニのジャル族の場合、1910-70にかけての話ですが、数千人の子供たちを家族から引き離して孤児院に入れて、白人として英語で教育を受けさせた、というのです。支配され、抑圧されてジャル族の多くは、先祖の「ことば」を恥ずかしい言葉と思うようになり、口が重くなっていく、というのです。

 「私は五歳の時に母の元から連れ出されました」「それまでは、母とジャル語とグーニヤンディ語を話せたのです」といいながら自分達を拉致して行く警官を“ヤワダロ・ワイノワジ”つまり「馬に乗り、人を鎖でしばる人」という言葉をつくって呼んでいたというのです。私は、この警官に鎖で拉致される少女の話を映画で見たように記憶しています。映画の場合は孤児院から抜け出して家に帰ってしまうのですが、孤児院での凄まじい教育の映像を記憶しています。

― 地球の言語の豊かさに感動/状況に悲観 ―

「旅先ではどこでも、危機に瀕する言語をじっさいに話す人びと、少数文化に忠誠を尽くす人びとのことばに努めて耳を傾けた。自分のことばがやがて滅ぶかもしれないと知った人びとは、その重荷をどのように背負っているのだろうか。/また諦めは人びとの心をどのように蝕むのだろうか。/それより何より、これほど多くの言語が失われようとしている状況は、人類の歴史を左右する重要な契機ーー言語の多様性を顧みず、楽観派に言わせれば世界共通の魂、そうでないひとによれば魂のない単一文化をめざす指向ーーにあたるのではないかというわたし自身の勘の正しさも確認したかった。何千という言語が危機に陥ったからといって、心配する必要は本当にあるのだろうか。本書で答えを出そうと思う最大の問題は、これである。」(p17)

 自分達のことばの話し手がだんだん少なくなって、遠くない将来には消え失せてしまう、という恐れから、彼等の或る地域では、古老たちの話をテープに録音したり、それを文字にして留めようという(著者は延命運動というのですが)運動を起こしたりするわけですが、それは多くの場合、ことばが暮らしの日常から、博物館のものになってしまいます。その上に「書きことばになって以来、英語の影響がマン島語の構文に混乱をもたらした」というアイルランドの学者T・F・オライリーの報告ですが、これなぞ今の私達が自分の周囲をちょっと見回してみれば、必ずしも他人事ではないことに気付くはずです。

 しかしそれでも、そうした努力をせずにはいられない気持ち、またそれがどれほど有効なものか、と、著者と一緒になって心配しながら読むのですが、一方、そうした文字を持たない民族が、自分達の言葉の生命力、言霊を信じて、この地球上に今なおこれほどたくさん存在し、多様な言語生活を営んでいるという、その地球の豊かさに感動してしまうのです。

― 口承と文字と ―

 ではアリ研の私達には身近な「ホメロス」はどうだったのでしょうか。かのメディア論で名高いマーシャル・マクルーハンは『グーテンベルグの銀河系』という本で、ホメロスの口承詩をメディアという面から語り起こしていますが、今の私達は文字を追いながら楽しむことが出来る、いやそのようにしか手立てがないのですが、それならば万葉集は、今まで音声で伝えられてきた詩を新来の漢字というもので書きとどめる、ということになった時、詩とその形式の上に何が起こったのでしょうか。

 或は人々の生活がどのように変わったのでしょうか。万葉集の場合はそれでも、音と対応させた万葉仮名による表記法だが、もう一つの古事記のほうは、太安麻呂が漢文として書き取った時に、稗田阿礼の脳内に凝縮されていた言霊のうえに、世界の構造に、いったいどんな変化が起こったのだろうか。稗田阿礼以前の民俗的王権と古事記以後の文字を持つ律令国家への転換。それまで語り部の記憶に詰め込まれていた言霊が、突然文字という舶来のぴかぴかのメディアに置き換わるときの気持ち、いや、置き換えるときの権力者の誇らしげな、或はそれを承けての人々の限りない先進文化への憧れの気持ちは一体どのようなものだったのだろうか。

 この本では文字を持たなかった社会、それまで長老たちの頭の中にぎっしりと詰込まれていたそのトーテムの歴史や世界観、考え方の構造といったものが、文字というものを作り出して、それに留めようとする時に起こる、軋轢というか、齟齬というか、とにかく音声のことばと文字が必ずしもぴたっと重なりあわない、そういういらだち、諦め、の状態が随所に伝わってきます。

 それにもう一つ、この本にはレヴィ・ストロースの “差異はじつに豊穣である” とか “これまでの進歩は、差異があったからこそ可能になった”とかいう有名な言葉も紹介されながら(P386)、「あらゆる文化の産物を、地上のどこからでも手に入れて消費できるようにようになる反面、一切の独創性を失う恐れに直面し、怯えている」といった消費万能の現代世界への目配りもされているのです。

 とにかく目次を並べてみましょう。

第一章 パトリックの言葉
第二章 夢見る人びと 北オーストラリアの言語
第三章 世界を組み立てる
第四章 見えず、聞こえず ユチュー語
第五章 ドント・ヴォリ、ビ・ヘービ
第六章 墓を出る マン島語
第七章 ボロ語の動詞
第八章 獅子のことば プロヴァンス語
第九章 縁から溶ける
第十章 フンボルトの鸚鵡
第十一章 脱出術 イディッシュ
第十二章 蘇生
第十三章 ことばの鉄柵 ウエールズ語
第十四章 全地のおもて
訳者あとがき
出典

となっています。
(終わり)


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