池田忠利の漂流物アートが観せる『人間喜劇』そして『地球悲劇』

“渚”それは、池田忠利の限りない創造の場です。

 それは単に池田の使う素材が渚に漂着する海の漂流物だから、というばかりではありません。勿論それもあるが、それよりももともと池田の脳内風景には、つねに、あのルネサンスのヴィーナスを生み出した、生命創造のエロスの波が泡立てる、渚の息遣いが息づいているのです。

― 漂流物という特徴的な素材 ―
ララバイ
 ▲ ララバイ

 特に台風の後などに池田は早々に渚に出てはそこにうち寄せられている数多のいわばゴミの中から、自分の作品の素材になりそうなモノを丹念に選り分けてはアトリエに拾って帰る、ということを長年してきました。

 ”素材になりそうなモノ” といってもこの時点では恐らく池田自身にだって、果たしてそれがこの先どのような作品になるのかなど皆目判らないわけだし、それにこういう部品が欲しいといったところで、そんなモノが都合よく打ち寄せられているとは考えにくいのです。その辺りの機微を池田は「自分に対して媚びを売ってきたモノを掴まえる」のだと言います。

 そこにどれほどの可能性が潜んでいるか計り知れない漂流物を、いっときの自分の美意識で裁断してしまうのではなく、選ぶ主体を、私から漂流物という向側にシフトさせて、渚の生命的な泡立ち共々自分の脳内風景に持ち込もうというわけです。

 一昔前なら、そのものを拾おうとする行為の原因はあくまでも池田自身の中にある、と考えられてきたのに対して、そうではなくて、池田に拾うという動きを与えているのは、相手の漂流物というモノや、渚という環境の側の役割が大きいという、これは今、しきりに取り沙汰されている言わば”アフォーダンス(Affordance)”といった認知科学の先端的な「場」の概念に近しいものです。

 しかし池田の場合、そうしたアフフォーダンスで終わるわけではなくて、さらに次ぎ次ぎとひき起こされる漂流物たちとの絶え間ないコラージュの掛け合い、という作業があるわけで、この時点ではおそらくさまざまな生物的な形態が現れては消え、消えては現れしているに違いないのです。ちょうど渚という、生物と環境が互いにしっかりと絡み合って生きる場にあって、生命という布を織りなしていくうえでの、その絡み合いの相互的で瞬間的な行動をそのままになぞるように……。そして、その絡み合いの中から、世界に向かって限りなく開いていく絶え間ない自己創出にこそ、池田の更なる今日性があるといえるのではないでしょうか。

― ”創造の胚”がうみだす怪物的な様相 ―
ブルージュ
 ▲ ブルージュ

 そういう彼の創り出す生物たちは、人間を始め種類も名前も判らぬ魚の類、鳥、或いはドラゴンといった仮想的聖獣の類、と実に多様なのだが、これら全ては、例えば人物にしても魚にしても、素直に人、或いは魚のかたちであるわけではありません。互いに目一杯メタモルフォーゼされて、挙げ句の果てにはどこか怪物じみた表情をさえ与えられているです。

 例えば池田の最近作『南海のクリオネ』。テレビコマーシャルにも登場したりして、海の妖精などと人々の人気を集めてきたあの北海の小動物だが、これも池田によって可愛いというよりも異様なもの、何かの器具の部品を顔、特に眼窩や口に見立て、特徴的な鰭と胴体部分は、波に洗い晒されて海の息吹をいっぱいにしみ込ませた木片の、捻れたような形をうまく生かしてコラージュすることで、全体として、池田は自分の創作のテリトリーである房総という南海の海流に揺れながら漂う小さな妖精とし、しかも、どこかに怪物じみた表情を与えているではありませんか。

 しかしこの怪物たちはどれも、この作品が象徴するように、決して人に危害を加えたり、都市を破壊したり、といった黙示録的な暴力を隠し持っている、というわけではない。それどころか、その動作、表情はどこか幼児性を匂わせて、そのために少なからず喜劇的で、どれもこれも特有の、何んとシニカルな哄笑を湛えていることか。つまり様々なストレスに悩む現代の都会的環境の中で、どこか癒し系のキャラを振られているものといえます。池田の作品が多くの人々に愛される一つの理由ではないでしょうか。

たま誤?
 ▲ たま誤?

 では何故素直に人のかたち、素直に魚のかたちではないのか。つまりこうした怪物性の所以とはいったいどこにあるのだろうか。ここで私は、先に見た、この作家のうちに広がる渚の脳内風景の、その核心部に宿り、渚の泡立ちによって絶えず多様な形態の発生が促されている”創造の胚”といったものを考えてみたいのです。

 「胚」。一般的には母胎に宿って、本来ならば、最終的に揺らぎのないノーマルな形を育むはずの胚が、ひとたび池田の脳内風景に”創造の胚”として宿る時、順次形態が発生してゆく過程で、木ぎれの堆積とか、機械や器具の断片的な廃品に見られる、例えば錆とか不慮の破壊といった自然の刻印、また人間が使い古した手の痕跡といった、平たく言えば池田にとっての他者性の絶えざる作用が、産み出すものを多様化、奇形化の方向へと逸脱させて、つねに怪物性をおびた形態へと分化させてしまうという、そういうことではないだろうか、と思うのです。

― いっそう鮮やかな逸脱を企てるデジタル画 ―

 そのような”創造の胚”を持つ渚の脳内風景を, 池田は更に、今度はP.C.上に外化させることで、ひとたび生み出した形態をさらに自由に歪曲、増幅しながら、物質的なリアリティを希薄にした、それ故に一層美しく逸脱した怪物たちを生み出し始めています。此処でも池田は、漂流物のコラージュという年来の自分の方法をデジタル上に移し替えることで、一枚のデジタル画として、デジタル時代の表現の新たな可能性を獲得しようとしているのです。

― 渚”それは、絶えず文明の波が洗う境界 ―
SC ― ドラゴン犬
 ▲ SC ― ドラゴン犬

 そうした彼の創り出す怪物たちを全体として見渡すときに、そこに人間以上に人間的な、動物を超えた動物たちの演ずる、一場のシニカルな『人間喜劇』を観ることになるのです。が、どうでしょう、私たちの地球では今、コンピュータの世紀として明けた21世紀だったのだが、その最初のパフォーマンスは、イラク戦争という殆ど絶望的なコンピュータ戦争だったし、そのうえにエイズ、狂牛病、サーズ、鶏インフルエンザ、オゾン層の破壊もあげられるでしょう。そのように殆ど休む間もない攻撃の他者性を内発してやまぬこの文明を思うとき、もはや我々はこの文明の行く手を制御する有効な手だてを失ってしまったのではないか、という思いに駆られるのです。そして漂流。いま我々の文明自体が漂流し始めたのだ!

 ここに於いて池田の生み出す漂流物アートの怪物たちは、当の作者自身にさえ制御出来ない力を帯びて、一見、喜劇を演じていたかにみえたそれらの表情の、一枚裏側に隠されている『地球悲劇』の重さを露わにしてくるかもしれないのです。

 果たして今日以後、池田の脳内風景の渚には、いったいどのような文明の漂流物が流れ着くのか。

*本稿は以前、彼がベルリンで個展を開いた時のカタログに書いたものに、手を加えたものです。


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