ところで私の家は四軒長屋の中の一軒でしたが、四軒が共同で使う裏の空き地に共同水道がありました。ところがその一画に一軒置いて隣の、コイヌマさんという家の野天の作業場があったのです。ドラム缶を縦に切って、それを横に寝かせて舟にして、下から火を焚いて、大人たちは苛性ソーダといっていた記憶があるのですが、たぶんさらし粉、を入れた湯を沸かしながら、ブリキの一斗缶(石油缶みたいな)を洗うのです。ですから長屋の裏庭にはいつも、もうもうとカルキの異臭が立ち籠めていたのです。このカルキの臭いは、おじさんの作業場の光景と同時に、忘れることの出来ない臭いです。
このおじさんの仕事は、というと、毎日たくさんの四角い缶を大きなリヤカーに、山のように積んでどこからか帰って来るのですが、長靴にゴムの胸当てのついたエプロンを掛けて、ゴムの手袋を肘まではめて、それを一つずつその舟に浸してはピカピカに洗い上げるのです。このブリキ缶は、お菓子、特に飴類を入れたもののようで、中には溶けた飴がこびり付いているのもありましたし、外側にはレッテルも貼り付いていたりしたのですが、とにかく薄茶色をしたお湯に入れて、束子でごしごし洗うのです。もちろんレッテルもきれいに剥がれて洗い上がると乾かしては、またリヤカーに山のようにピカピカに積んで何処かへ運んでゆくのです。
今では考えられないことですが、その何軒か先に一棟まるまる養鶏所になっている長屋があって、そこを通るといつも鶏の糞の臭いがするのです。通りに面した引き戸や窓ガラスを全部閉め切って、中は薄暗くいつも裸電球が灯っていました。私の家では殆ど毎朝生卵を食べていたので、わたしがその養鶏場へ買いに行く役目でした。朝早く「ちょうだいな!」と云いながらその扉を開けると、鶏の鳴き声と例の生暖かい臭いが、ひときわけたたましく押し寄せてくるのです。今思うと鶏たちは家の中に何段もに積み上げられた「バタリー式」という鶏舎に飼われていて、薄汚れた割烹着に同じく薄汚れた姉さん被りのおばさんが、何回目かにはその卵を、すらっとした体つきで裸電球に透かせながら「はい、双子だよ」といってサービスしてくれるのです。今産みたて、といった卵の暖かさと鶏の糞の臭い。
どぶ泥のついでにもう一つ思い出した臭い。これは次に引っ越した荒川区尾久町4丁目。近所には当時、軍需工場として名高かった旭電化の大工場がありましたし、何よりも当時の世情を賑わせた例の阿部定事件のあった花柳界はつい目と鼻の先でした。それは昭和11年、5歳の時のことで、多分この街に移ってきてすぐの頃でした。が、この事件などももちろん大人たちの騒ぎでそれとなく知ったもので、これこそは臭いとは違う、臭わない、街の臭い、といったものを、子供ながらに感じ取っていた記憶があります。
近所に特に懇意にしていた八百屋があって、その家に、貰いっ子という噂のある、ミキちゃんという男の子がいました。小学校を出ると家業の八百屋を手伝って、朝早く父親とともに、やっちゃ場(八百や市場)に、荷車を引いてでかけるのです。そのミキちゃんが13〜14歳、私が9歳ぐらいでしたが、休みの日には我が家へよく遊びに来たものです。遊び、といっても、ミキちゃんのそれは探偵ごっこなのです。が、普通の子供の遊びとは少し違っていて、ごっこの域を超えていたのです。
まず我が家の小さな物置に探偵事務所を開設するのですが、そこに岩波文庫でしたかの『シャーロックホームズの何とか』という本を何冊か持ち込んで、机代わりの台に並べて、そのうえに虫眼鏡、方角をみる磁石、地図、などというしつらえをするところから始まるのです。私も密かに父の東京市街地図を持ち出して、いつでも拡げられるようにしました。そしてダンロップタイヤ、とか、犯罪、ホシ、尾行とか、それに「第六感」という難しい言葉を覚えたのもその時です。それが何であるのかよく理解出来ないままに、ミキちゃんと二人だけで、他の友達とは違う遊びをしていることを、なんとなく密かな、そして誇らしくさえ思っていたのです。普通ならその頃、怪人二十面相とか明智小五郎とかいうのですが、それらとはひと味違う、すぐそこにある街の現実感のようなものがあったのです。それはミキちゃんが「ほら、あのおじさん、なんか臭うだろ!」という、そういう言い方とか「なんか秘密を隠している臭いがしないか」といいながら、遂に二人でおじさんの後をつけ始めるのです。
ミキちゃんからすれば私はあのワトソン君なのでしょう。尾行のはずみで、例の事件の街へ行くケースもありますし、子供のことですからそんなに遠くに行くわけではないのですが、私たちは事務所に帰ってくると今歩いた道順を、地図を拡げて改めて辿ってみるのです。ただそれだけのことですが、私はそうしたいわば冒険を通じて、人間には鼻で嗅ぐにおいの他に「別の感覚(ミキちゃんの云う第六感)で嗅ぎ分ける臭い」のようなものがあるらしい、ということをおぼろに感じたのでした。
今云う「シカト」したりされたりという、子供たちのいじめの問題は、昔もやはりあって、中でも「おまえは臭い」という言葉は、かなりの破壊力を持っていることを、子供たちの誰もが暗黙のうちにみな知っていました。誰か目当ての子を探すと、側へ行って「ニーチャイ!ニーチャイ!」といって囃し立てるのです。ちょうど同じようなシカト語に「エンガッチョ!エンガッチョ!」というのがありましたが、それに近いものです。この方は必ずしも臭いとは限らない訳ですし、そしてまたずいぶん難しい理屈もあるようですが(網野善彦著「無縁・公界・楽」など)、何しろその子が特別に臭い訳でもなんでもなくて、実体の空無な、それ故にこそ強烈な力を発揮する「臭い」であるそれが、なぜ強力な「シカト語」なのかはわからないまま、自分でもそう云われたくない、と、いつも警戒していたように思います。といっても実体がない「臭い」なのですから、どうしようもないのですが・・・。
私の家の向側に「よなげや」のムラオカさんという家がありました。よなげやというのは、東京中に巡らされた壕やどぶ川を浚って、鉄くずやたまには貴金属の落とし物を浚って、それを売り捌く商売です。今で言えば立派なリサイクル業です。おじさんは細い体つきに胸までもあるゴム長靴を履いて仕事から帰ってきます。おばさんは大きな体で山のように、そのまま溶け出してしまいそうな感じで、その家の大きな暗い、湿っぽい土間の奥で一日中居眠りをしていました。その傍らの土間ではおじさんが今日の収穫物を、パイスケと呼ばれる大きな1m以上もある、竹製の笊にぶちまけて、大きな磁石で掻き回しながら、鉄とそうでない金属を選り分けていて、大きな磁石も珍しかったし、何よりもその先にずらずらと釘やいろいろな鉄が繋がってくるのが面白くて、いつも傍に坐ってみていました。
土間にはいつも、天井に届く程、錆びた針金や、何かの機械の部品とか、とにかく鉄くずの梱包が積み上げてあるのです。ですから土間は錆びた鉄くずの酸性の臭いとどぶ泥の生臭い臭いがしていました。このよなげやのムラオカさんちの土間にはいつもどぶから上がったばかりのべい独楽がブリキのバケツに幾つも入っていて、気に入ったのがあれば分けてもらえるから、特に男の子たちには隠れた人気があったのです。それはどこかの子供がコマ遊びの最中に、どぶ川に弾き飛ばしてしまったものですが、そういうのは前の持ち主が一生懸命、強い独楽を作ろうと改造したもので、かなり強そうな面構えをしているのです。駄菓子屋で売っている鋳込んだままの新品の独楽とは、重みや貫禄が全く違うのです。もう錆びかかっているものもありますが、それを更に自分なりに、例えば道路のアスファルトにこすって回転軸の芯を研ぎ出したり、相手と当たる角を削り出したり、表面に松脂を溶かして天保銭を埋め込んだり、鉛を溶かして埋めて、とにかく重戦車のようなどっしりとした独楽を作るわけです。仕舞には手がすっかりドブドロと金気の臭いで、幾ら洗っても取れなくなってしまうほどです。今のような除菌時代には到底考えられない事です。
車道と歩道が分かれたカイセイドーロ(改正?道路)というのが初めて通ったのですが、といっても今のように車がたくさん通るわけではなくて、当時の運送はトラックとかオート三輪よりは、結構馬力も盛んで、大きな荷車を引いた馬がよく通りました。それに近在の農家からやってくる肥桶を積んだ牛車はたいがい朝と夕方の二回、ですから、子供たちはいい遊び場にして、そんなふうにべい独楽を研いだり、スケートをしたり、自転車の練習をしたりするのです。そんな時、これも忘れていた臭いの記憶の一つですが、たまに自動車がやってくると、みんな一斉に遊びを止めて、自動車の通り過ぎた後の道路に一列に並ぶのです。そして一斉に深呼吸して、いま通り過ぎた車の排気ガスの臭いを嗅ぐのです。これが子供たちの官能をたまらなく刺激して、自動車が通るたびにやるのです。今のシンナー遊びみたいなものかもしれません。またガソリンも今のものとは違うのかもしれません。本当にいい匂いでした。
何だか私の子供時代の匂いはどぶ泥の臭いとか排気ガスとか、あまりいい匂いの記憶がありません。
こうしてひとたび「臭い」記憶が蘇ると、次から次へと出てくるもので、我ながら仰天しながら書いていますが、こんな臭いの遊び?がありました。確か3〜4歳の、もちろん学齢前のことです。近所の子供たちと、今まで続けてきた遊びを突然中止して、お互いの腕を捲くって唾液を掛けると、今度はそれを片方の手で激しく擦り合うのです。摩擦の熱で乾いてきたら、すぐに鼻を当ててその臭いを嗅ぎあうのです。ただそれだけの事で、遊びといえるのかどうか、そして、もしそれをフロイト先生がご覧になったらなら、何とおっしゃるのか、と、ふと興味深く思うのですが・・・。
先に述べた「よなげやのムラオカさんち」の向かい側にキリスト教の教会があって、教会と云ってもドブ板長屋の棟割りの中の一軒に住む、初老の牧師さん夫妻が、自宅をそのまま教会にしているもので、そこでは子供たちのために日曜学校というのを開いていて、そこに行くと、牧師夫妻のお話やキリストの事蹟を描いたぬりえが貰えたり、何よりも当時のその辺の暮らしの中では得られなかった、独特なモダンなお菓子のクッキーの、確か今にしてみればアニスのような、ふだん家で感じる匂いとは別の甘やかな匂いを、子供ごころにも深く吸い込んでいました。先日妹と話す機会があったのですが、やはり妹も覚えていて、毎回、小さな紙袋を渡されて、それに献金として一銭銅貨を一枚入れた、というのです。
その当時の私の家の匂いというと、関東大震災と昭和の大恐慌のあおりで、父は親代々の薬屋を失敗してしまい、酒に浸る日々だったそうですが、私が生まれたのを機に酒を断って、私の知る父は、熱心な禅宗の信仰者の姿でした。ですから家の中は常に線香の匂いが漂っていたし、お菓子ときたら、いつも父がお寺から貰って来る供物の打ち菓子にしても、どこか線香のにおいが染みていたものです。
母の懐が木酢の匂いであったことは先に述べましたが、父の懐はというと、こちらは常に抹香の匂いと、仁丹のような匂い。薬屋を仕舞ったとはいえ、局方の薬以外の漢方の薬もずいぶんあって、お腹を壊した時など煎じて飲まされてもいましたから、そんな匂いがしていたのです。つまり日曜学校の匂いと、我が家の匂いのコードが違っていた、という訳です。
この父親の懐の匂いは、後で、もう一度、今度はスパイスとかハーブという匂いにコードを変えて、1950年頃ですが、私の画家としての生活に大きな転機をもたらすことになったのです。そして更にもう20年を経て、冒頭に述べた、食のアートイベント並びに「チャングムの誓い」への発想と繋がっているのだということを、この記事を書きながら、ありありと思い浮かべ、自覚するに至ったのです。「チャングムの誓い」などは全編が漢方ならぬ韓方薬の香りに満ちた物語りですから・・・。
さて、余談が長くなりましたが、その日曜学校のクリスマスの催しで、劇をする事になって、本来ならキリスト誕生の話になるのに、その一年後には、第二次世界大戦が始まろうというときのことですから、銃後の子供たちの心構えを説いた、勧善懲悪劇です。大勢の悪い友達が、一人のよい子供を誘惑するといったその劇で、私は事も有ろうに、代表的悪ガキの役を振られ、マルメンと云われていた大きな円形のメンコをおでこに付けさせられて登場し、一斉に「そうだ、そうだ、それがいいや」と大声で叫ぶのです。もうそれが嫌でいやで、恥ずかしくって、そんな或る日曜日、劇の練習の最中に、チリンチリンとベルの音がして生ゴミ集めの車が来たのです。当時はおじさんが大八車に大きな黒い箱を乗せて、集めにきたものですが、教会の裏口を開けて作業を始めたのです。その臭いが突然練習の劇の中へ流れ込んだものですから、思わず「あっ、臭い」と云ってしまった私は、牧師の奥さんに、そんな下品な事を云ってはいけません。だからメンコが相応しいといって叱られてしまったのです。そうか臭い事は下品なのか、おれは下品なんだからメンコの役なのか、と、なんともやり切れない気持ちになって、いっそクリスマスなんか休んでしまおうかと何度思ったか知れません。結局何とか終わらせたのですが、日曜学校そのものも、また劇とか芝居というものもいっぺんに嫌いになってしまったのです。