第1回講義録2

― 多義的、重層的に使われるキーターム ―

荒木:じゃあ、前置きはそれぐらいにして。お配りしたテキストのアリストテレスの政治学というのは、アリストテレスの書いたもののなかでは読みやすいほうなんです。というのはすごく具体的だし。これが、みなさんが、もし『形而上学』なんかやろうとすると、もう最初の一行目から頭を抱えるような文章が出てくるんです。それとくらべると『政治学」は読みやすい。見た目には取っつきやすいはずです。しかし、じつは彼の描いたもののなかではいちばん最後のもので、非常に理解するのが難しい。

 なぜかというと、まずギリシャ語の言葉の問題です。2300年以上も前に書かれた古代ギリシャ語で、なにが書かれているのか探ることがたいへんで、アメリカでも同じ『政治学』の翻訳で利用できるものが8種類もあるんです。それだけ訳者によって解釈がちがうのです。

 日本でも同じような状況で、古事記なんかはそうで、なかなか日本人は古事記を読まなかったけれど、本居宣長が出てきて古い日本人がどういう意味で言葉を使っていたのかを調べ上げて、それで日本人が古事記を読めるようになった。同じ問題がアリストテレスにもある。その言葉をどう理解するのかまず頭に置いて読まないと「なにいっているんだ」とか「こんなこと言われているんじゃないか」ということが起きるんです。最初の1ぺ一ジから7ぺ一ジまではもっとも大事なキータームを挙げて書いておきましたので、読むときにはここに立ち返りながら読んでもらいたい。

松下:『政治学』は全体では何巻ほどになるのですか。

荒木:8巻あります。ただ8巻目は非常に短い。特に難解なのは2巻、3巻、4巻とかで、現実の事例がいっぱい出てくる。ただそんな過去のことをいっぱいあげつらっても仕方がないという部分もあるわけで、また過去のこと抜きにしてはアリストテレスを理解できないという部分もあるわけで。この『政治学』を歴史学の対象としてやっている学者もいれば現代政治学のテキストとして読んでいる政治学者もいる。その両方を念頭に置いてぼくは読み進めていきたい。

三村:(朗読:アリストテレス『政治学』第一巻(翻訳)第一章)
我々の見るところによれば、すべての国家(ポリス)は人々の共同的結合体の一種であり、しかもあらゆる共同的結合体は、ある種の善を実現するために共同で組織されたものであるから(事実、人々はすべて、善いと思われる事のためにすべての事柄を行うものである)、すべての共同的結合体はある種の善を求めるものであり、あらゆる共同的結合のうちで最高のものであって、他のすべての共同的結合を包み込んでいるものこそ、善をもっとも熱心に求めるものであり、またすべての事柄のうちで最高のものを追い求めるものであることは、明らかなことである。そしてこれこそが、国家(ポリス)と呼ばれるもの、すなわち市民的・政治的な共同的結合体である。

講義風景

荒木:どんな書物でもそうですが、冒頭部分は、彼のいちばんいいたい結論なんです。だから冒頭に結論が凝縮してある。これが分かればアリストテレスが全部分かったといっても良いような文章を書く。これを追求し始めると止まらないのですが、まあぼくなりの解釈をいうと、まず冒頭の文書は、アリストテレスの学問の組み立て方は、プラトンと比較すると、プラトンは天を見て構想を考え、地上に降りてくる。天を見て原理を考えてから地上に降りてくる。それに対してアリストテレスは「われわれの見るところによれば」といい方で、この世のなかで何が行われているかということを徹底的に観察しようということなんですね。ある面ですごく地道で実証的な人なんですよね。

 では実際国家というものを見ることができるかということですね。われわれは普通、国家があるというけれど、じゃあ見せてくれといったら、国家の機関をみせることはできる。そこでは仕事しているけど、じゃ国家は何かというとわかんないわけですよ。つまり国家というのは抽象的なもので具体的なレベルだけではとらえられない。

 でもアリストテレスはわざわざ「われわれの見るところによると」という。これをどう解釈するのか悩んだけど、あとでいいますが、人間がものを見る、ものの見方のなかで、アリストテレス独特のもののいい方なんだと。

― ポリスを成立させるものはなにか ―

秋山:用語の説明の「ポリス」の中に、「クニ」という言葉を新しくいれている。このあたりに先生の考えの変化、あるいは意図を説明していただければ。

荒木:古事記を見ますとね、「国産み神話」っていうのがある。で、日本人が文章の上で最初に使う言葉が古事記にあるわけで、で「国」という漢字をあてているんだけど、もともと古事記で使われている国はどんなイメージかというと、「国土」のイメージなんです。われわれが日常会話で「国」というとき、一つは国土の感覚で「国」という。もうひとつは「行政機関」のイメージ。

 ところが「ポリス」という言葉でアリストテレスが指すイメージは、そういう「国土」ではなく、むしろ「人間と人間がつながっている組織のあり方」をポリスといっている。だから国家というイメージが物理的な土地だとか、行政機関ではなく、人間と人間の繋がりの独特の仕方がアリストテレスの国家、あるいはポリスのイメージだった。中沢新一なんかに出てくるのも「国」なんですよね。国というイメージが彼の場合ひじょうに行政組織的だし、権力的な段階のイメージで、ポリスとは違う。国家とは違うんです。アリストテレスが見ていたものはひとつひとつの独特の繋がり方、これが国家だとイメージしてほしい。また経済圏とも違う。ではなんなのか。

伊藤:まず、「規模」の問題もある。われわれ1億2千万人とか、アメリカや中国との比較ということで考えると、人口の規模は億単位を想定している。けれども「人とのつながり」というと、いまはあまりにもそれが希薄になっている。アリストテレスのいっている国はそうではなく、まだ見える、独特な関係が見える、だから教育できた、という気がする。

荒木:そうですね。ただ、そういう意味では見える範囲内ではある。ただはみ出してくるところもある。つまり「見えなくても国家というものは構成されている」ところがある。それは何かというと、まあ結論じみたいい方だけど、いちばん大事なのは、国家のイメージは、「正義」という秩序を共有しうる人間の集団が国家だと。人口の多少を超えている。アメリカだってアメリカという憲法体系のなかで、まとまっているから国家。ベルギーやモナコだって小さいけど、一種独特のコンスティチューションというか、国家体制を持っている。何が国内で正しいことなのかが決まる組織、これがアリストテレスの国家の根本的な概念。まあ最初から結論にいってしまったけど、「じゃあ正義とはなんだ」とか波及的に議論は続いていくけれど、ここではとりあえずイメージとしてとらえてほしい。

― 隷属関係から抜け出たところに生まれるコイノーニア ―

 もうひとつは「コイノーニア」。日本の翻訳はほとんど「共同体」と訳している。英訳では3種類あって、Community、Partnership、Association。この翻訳が3種類ある。コイノーニアの理解は3通りある。彼の根元的なイメージは「意識的な関係、とりわけ、正義と友愛の相互性が存在することによりコイノーニアが形成される」。

 アリストテレスが家族をどう考えているのかとか、よくいわれますが。家族も彼にとっては根本的な概念にある。従来の考え方からいくと、家族は血縁的な関係だから、団体的なAssociationではない。Associationは意識的な目的を共有するものだから、血の繋がりはどうするんだという意見がある。

 ところがアリストテレスは「家族こそコイノーニアだ」というんですね。何かというと家族の根幹は男と女の合意にもとづいて形成される以外にない。それに対してもちろん反論はいっぱいある。「略奪婚」はどうするんだとかね。「見合い」なんかはどうするんだとかね。親戚間で決めた夫婦関係はどうなるんだと。単なる強制関係ではないのかとね。

 アリストテレスは、「たしかに出発点はそういうきっかけかもしれない。でもそれが家族としての機能を持つためにはかならず男と女の合意をもって形成しなければ家族は成り立たない」というんですね。もし略奪婚だとしても、略奪したという意味では女は奴隷ですよね、その関係が持続していったらそれは家族じゃないんですよね。なぜかというと男は略奪した女に対して一方的な命令しか下さないから。命令者と被命令者との関係には、コイノーニアも信頼関係も生ずる余地がないだろうと。

 ところが、きっかけは略奪であったとしても、安定した家族関係が生じてくることもある。長い経験のなかで信頼関係がうまれてくることもあるだろう。そのときに初めて家族というものが成立したと考える。アリストテレスにいわせれば、世にある家族が一方的な支配に甘んじているのなら家族ではないと。

秋山:コイノーニア的家族と、そうでない家族があると。

荒木:そうなんです。(ちょっとの間の後爆笑)。

三村:日本では数十年ほど前までは大家族制が基本でしたが、この(ギリシャ)時代は一般的にどういうような家族構成だったのでしょうか? 

荒木:平均的なギリシャ人の家族の生活をいろいろ見てみると、夫がいて妻がいて子供が何人かいるのですが、これが核になる。ただ現代の家族と根本的に違うのは、夫の下に奴隷を持っているということ。奴隷集団の規模はそんなに大きくなくて、せいぜい2~3人だったりしてますが。また夫の親が同居することもあるが、妻は家から切れて出てくるわけ。通常法律的に妻はいっさいの政治的権利はない。夫が民会に出かけていって政治的な活動をする。

 財産はポリスことによって違うのだけれど、妻が相続権をもつ所もある。スパルタは妻に基本的には相続権はないのだけれど、子供がいない場合は相続も許される。だからスパルタは男性社会だというけど、男は外に行って戦うから、ポリスのなかを守るのは女と子供だから女が支配するという傾向が生じる。また妻の父親は自分の娘がかわいいから、たくさんの財産を譲ると妻がたくさんの財産を持つということもある。

三村:非常に現代的な、今の家族とあまり違和感がない。

荒木:問題になってくるのは、夫が奴隷をもっているものだから、奴隷に引きつけて妻を虐待するとか、そういう例がある。だから、こういうのを見て「家父長的支配」だという見解が出てくる。これが典型的ギリシャの家族です。これがローマに行くと、もっと夫の権限が強くなる時期がある。だからローマは家父長的家族のもっとも典型的な例としていわれている。ある場合は妻を奴隷にできる権限をもっていた。ギリシャは妻も子供も絶対奴隷にできない。そういう点ではローマと違う面がある。もっとも最近ではこうした見解も見直されてきていますが。

 いずれにしても現実のギリシャの家族は夫の権利が重視されているのは確か。ところが妻と夫の関係は強制であってはならないというアリストテレスの考え方がある。なぜならコイノーニアだから。だから愛と信頼で結びついた上で妻にいろんなことをやってもらうと。ところが現実には妻を奴隷のように使っている男がいる。これは許されないことだとアリストテレスはいっている。だからアリストテレスは現実のアテネの家族に対して大きな批判をもっている。

― 現実の家族の中に、あるべき姿を見いだす ―

伊藤:関連して聞きたいのだけれど、男の子が二人いるとする。そうすると家を継ぐのは長男か次男。するともう片一方は相続はどうなるのか。

荒木:それもポリスことによってバラバラ。ギリシャの場合土地の財産というのが非常に大きな問題。ポリスの土地を分割して分与地を持つんですが、それを与えていくわけです。だから均分相続をやってしまうと、土地が細かくなっていく。それはまずいということで、ギリシャの場合次男三男は他人の家に養子に出すか植民にでることが多い。アテネの姉妹都市ものすごくたくさんある。そういう所に送り込んで新しい都市を建てさせる。そして分与地を維持するケースが結構ある。でも現実の場合戦争で人が死ぬでしょう。だからバランスが取れるときもあるけど、あまりにも多く死んで、奴隷を解放して土地を与えてバランスを取るときもあった。そういうポリスが出てくる。養子を取るとかね。そういう形でポリスの相続制を維持してきた。

三村:単純に考えると戦前の日本と似ている部分があります。奴隷の所を小作人と置き換えて良いかどうか分かりませんが。

伊藤:飛騨とも似ていますよね。兄弟が何人かいた場合、跡取り以外は一種の下男として、あ、これは古い時代の話ですよ。兄弟の中でも次男以下は奴隷に近い存在であった。

荒木:そこは後で出てくるけど自由人と奴隷の違い、これが非常に大きい。奴隷の場合売買できるということ。売り買いできるけど自由人は絶対売り買いできないということがギリシャ人相互の中で取り決めをしようというようにやってきた。もちろん自由人が奴隷になったり奴隷が自由人になったりする例が皆無ではない。けれどこの両者間にできるだけ一線を引こうという努力をギリシャ人はしてきた。たとえば債務奴隷、身体を売ってしまうということがたくさん出てきたものだから、これを禁止しようと。また戦争奴隷、負けた方を奴隷として売り払うことも止めよう。だから奴隷は全体として非ギリシャ人をつれてきて召使いに使う、という形で現実に維持された。

松下:こういう理解で良いのかということですが、アリストテレスの場合は現実の世界があって、だけどもそれをどうするのかというのは、どれを目指すのかという基準、判断基準、これが良いのかという基準を決めるためには意識の問題に入っていく。そのときに理想型みたいなものを追求するということなのか。

荒木:そうです。だから現実を見て作ったとはいっているんだけど、彼が現実を見る見方というのは単純に事実を評価したというものではなく、常に自分の中で捕らえ返して、あるべき人間像というのと現実にある人間像をつきあわせていく。その根元的な努力はどこに見いだされるかというと、現実のアテネの代々の住民のことを自由人と呼んでいるんです。

 ところがアリストテレス政治学ではこの自由人に哲学的な規定を持ってくる。「真の自由人とは何か」ということなんですね。だからアリストテレス政治学を読むときは事実認識と規範の両面の視点で読まないといけない。彼の本当にいおうとしたことを理解するには。まさに自由人という言葉なんかは哲学的な方向に向かっている。

 逆に奴隷もそう。奴隷も概念がどんどん進化していって、結局彼は奴隷的精神と言い出す。そうなってくると非常に難しい問題が出てくるのは、奴隷の立場でありながら、優れた人間性が出てくることもある。すると彼は自由人の魂を持った奴隷になる。逆に自由人の中にも奴隷的精神を持ったひとも出てくる。こういう関係が出てくる。こういうふうに読むとアリストテレスの政治学はまさに現代的な政治を見る大きな基準になるんです。

三村:社畜なんて言葉もあるように(笑い)。

荒木:だから自由な魂を持った人間が真の自由人だとか、欲求に縛られている人間は奴隷的精神の自由人だとか、彼の思考が展開してくるわけなんですよ。

松下:現実を見ながら、あるべき姿を何度も考え直すということをアリストテレスはしてきたというわけなんですね。

荒木:そうなんです。ある面で現実を見ながら常に天を見ている。比喩的にいうと。

秋山:プラトンが「天を見て地上のことを考える」というのと逆、ということですか。

荒木:逆というよりも、アリストテレスはプラトンを継承はしていると。継承はしていて事実を見る。だからぼくはアリストテレスはプラトンを継承しつつもそれを超えているんじゃないかと。そういう感じがしている。だからこそ彼の政治学は18世紀のロックの中にものすごく復活してくる。ロックほどアリストテレスを深く読んでいる人はいないと思う。それがアングロサクソンの政治学の根幹を、アリストテレスの考え方を生かして形成する。だからアメリカの憲法まで生きてくる。

松下:たとえば、「人間のあるべき姿はこうだ」と降りてくるのがプラトンで、実際に人を見ながら、「こんなこともあるこんなこともある」と、こういう人を対象にしたときには人のあるべき姿はなんだろうかと考えているとすると、世の中が変わってくると現実の人が変わってきますよね。そうすると当然のことながらそれを前提としたときの人のあるべき姿、人のあり方も変わってきますよね。しかし思想としては使える。そういうことですね。

荒木:そうです。

石井:ロゴスの性質というのがこういうものですか。

荒木:ロゴスについては第二章に詳しくあるんだけど、この調子でやっているとどこまで行けるかな(笑い)二章の12ぺ一ジの所に、最初にロゴスが登場する。「言」と書いてあるんだけど、自然は何者も無駄には作らない。人間だけが言(ロゴス)を有すると。

松下:そういうアリストテレスの手法というもの、ものの考え方を勉強することによって、それが現代に通じるものであると。

荒木:そういうことです。

伊藤:でもそれだけじゃなくて、いってみればいまの自由人の話じゃないですが、本質が導き出されているのは本質は変わらない。それはストレートにわれわれ受け止めればいい。

― 何を善きものと決めるのはコイノーニア ―

松下:ただ、善というものは理解できるのですが、よりよいものということでいえば、しかも観念論の話でなくて、現実世界がどうなるかということを最終的に求めている、そうすると、よりよいものということの考え方が、昔の人の状態といまの人の状態が変われば、ものの考え方の基準は一緒だけど、到達するところが少し変わってくるのじゃないか。

荒木:両方からね、両方から考えていかなくちゃならない。それでコイノーニアという言葉も説明しなくちゃならない。

 コイノーニアという言葉を分解すると、コイノはコイノンという言葉からきている。コイノンとは公、公共、共同的という意味がある。だから男と女が力を合わせて作るものがコイノーニア。だから一方的に男が構成員を奴隷のごとく使うのはコイノーニアではない。というのが彼の言葉に込めた思いなんです。

 彼はいろんなことをいっていて、まず家族は原型としてあるんですが、あらゆる人間の作る意識的な組織はみんなそうだ。たとえば商品交換。じつは商品交換というのを経済効果でいえば、個人と個人が完全に独立しているから、組織的ではないと思いますよね。でも最近では商品交換がコンスタントに行われる前提は、商品所有者同士の信頼関係であると。信頼関係があって初めて商品交換が行われる。では信頼関係とは何かというと純粋経済学的な関係ではないんですよね。ということは商品交換という表面、ものとものとの関係に過ぎないことすらコイノーニア、コイノンが働いている。家族や商品交換の関係もそうだし、ずっと積み重ねて、最高に権威あるものを求め共有したときに国家というコイノーニアができると。

 では最高に権威あるものとは何かというと、それが彼のいうクリオス。これは7ぺ一ジ。これを「主権」としたけど、――ラディカルセンスというのは根本的概念という意味―― 人に対して主たる権威を~という説明。これは「主権」Sovereigntyと訳してきた。

― 国家を成立させるのは「権威」 ―

 ところがすごく大きな問題が政治学的に出てきた。これは最高の権力やあるいは暴力を持ったものが国家であるという規定、これはマックスウェーバーとかいろんな社会学者が出している定義がこれ。で、権力とか暴力というという概念とアリストテレスの概念はまったく違う。それは権力と権威の違いというのもあるのです。英語でいうとAuthorityというのはauther、この意味は「一番最初に発見した人」ということなんです。一番最初に発見して身をもって体現した人がautherなんです。だから作家だとか。最初にやった人に対して多くの構成員を帰属させるものが権威なんです。そこには承認が重要。これはギリシャ語でキューオーという動詞、これは承認するという意味だけど、これは構成員が私たちの集団に対して貢献があると認められたときにその人に与えられるものが権威。それが国家を成り立たせると。だから国家を成り立たせるものは暴力ではなく権威の結果なんですね。

 たとえば征服による国家建設は国家といえるのかという批判がある。アリストテレスにいわせると現実には征服の歴史がある。でもさっきの家族と同じように、征服した団体では征服者と被征服者の関係が、奴隷主と奴隷の関係であったら、それは国家じゃなく単なる奴隷支配に過ぎない。

 ところが征服した人が被統治者に対して正義法の体系を与えたとき、そのとき征服者が真の国家の統治者に変わっていくわけ。そこには被統治者の同意というものが、承認が、歴史的な行為のなかで、かならずあるだろうと。国家が成立するということを厳密にいう場合には、征服の事実だけでは国家の成立とはいえないと。

 ある程度一定の期間が経って、その権力が被征服者に対して権威の体系を与えて、被征服者が征服者を認知するという時、初めて征服権力は国家的な性格を獲得する。さらに最後に、市民的結合体であると。これも多くの翻訳は、国家的共同体と訳している。すると国家=国家的共同体ということで何を言っているのかわからない。

 この訳は、ポリティーケー・アルケー、さっきいったポリスという言葉からポリティーケーという言葉が出てきて、これの意味は自由な統治真理。さっきいった権威ですよね。承認あるいは総意にもとづいて統治するというコイノーニア。これが国家のもっとも重要な性格なんですね。で、このポリティーケーというのは、政治学の第12章に男と女の関係があって、妻を統治する場合には、1259Bのところ、これはポリティーコースとなっています。つまり承認とか協議とか説得とか、そういうことを通じて統治する方法、これをクリオスのレベルまで拡大したのが国家。だから家がモデルなんです。国家は。

 でも家のモデルが古い家父長的な家ではなく、ポリティコースによって統治される家なんです。それが大きなクリオスという、大きな権威の共有できるところまで広がったのが、国家。なんとなくイメージを持って貰ったかな。

(本文朗読)さて、国家の{民的政治指導者(ポリティコス)も、王(バシリコス)も、家長(オイコノミコス)も、家の奴隷主人(デスポティコス)も同じものであると考えている人々は、ことがらを正しく語っていない。(というのは、彼らは、これらの各々が、その性質(エイドス)によってではなく、統治される者の数の大小によって相違していると考えているからであり、たとえば、少数の者を統治している者は、家の奴隷主(デスポテース)であり、それより多くの者を統治している者は、家長であり、さらに多くの者を統治している者は、市民的政治指導者(ポリティコス)であり、あるいは王であると考え、大きな家も小さな国家も全く異なるところがないと考えている。また、市民的政治指導者や王についても、彼が一人で人々の上に立って統治している場合には、彼を王とし、また彼か統治についての専門的原則に従って、順番に統治者と被統治者とになる場合には、彼を市民的政治指導者と考えるのである。しかし、このようなことは正しくない。ところが、今述ぺてきたことは、これまで取ってきた通常の研究方法に従って考察する人々にとっては明らかなことであろう。というのは、他の分野においても、合成された物は、合成されていないもの(これらは事実、全体の最小の部分である)にまで分割されねぱならないように、国家も、それを組み立てているその構成要素から考察すれば、先に述べられた諸々の統治形態のそれぞれに関しても、これらが互いにどの点で相違しているのか、またさらに上述のこれらについて何程か体系的な理解ができるかどうか、が明らかになるであろうから。

 ここでアリストテレスがなんでもって回ったようないい方をしているのかというと、ここで自分の先生、プラトンを批判しているんですね。プラトンの『国家』、それから『ポリティコス』という本があるんですが、それを読むと、一番最初の単位はデスポティコス。これは奴隷主。奴隷主が奴隷支配するのが最少単位。これが大きくなっていくと家長、さらに大きくなるとポリティコス、ポリスの指導者、これは多くの場合政治家。王(バシリコス)という国家論の変遷があり、ただ単に、規模が違うだけだと。支配の領域が大きくなっていっただけだというのがプラトンの考え。それに対してアリストテレスはそんなことはないよという。その説明が第一章。

松下:こういう理解で良いのか。小さなコイノーニアがあって、それはそれぞれ求める善が違う。そのいくつかを束ねる共有体があったとして、異質なものをたばねたということは求めるものが違うので、全体を束ねたときにどういう善があるのか。軍隊が戦争に勝つという目的があって、分隊があって小隊があって中隊があって大隊があって師団があるというものではない。

― アリストテレスとプラトンの「支配」観の違い ―

荒木:そう。プラトンはそれが同じだといっている。アリストテレスにいわせると全然違うと。特に結論を予測していうと夫があって妻があって兄弟がいて奴隷がいる。でも奴隷を支配しているのは家の中の、家長=夫なんですよね。だからプラトンを読むと夫の妻や子に対する支配と、夫の奴隷に対する支配は同一なんです。

 アリストテレスは同じ夫が有する統治力も、奴隷に対するものと妻に対する統治力は全然違う。ここを多くの政治学者たちが見落としてきた。プラトンの支配するという言葉はディスポゼインという言葉を使っている。これは奴隷主が奴隷を支配するときに使うことば。で、妻や子供の支配までこのディスポゼインを拡張した。プラトンの場合。でポリスを支配するときもこれを使った。プラトンの「支配する」というイメージが、ディスポゼインという言葉のなかでくくられているんですね。つまり奴隷主が奴隷支配するようなもんだと。政治家の支配、王の支配というのは。古い王国支配に似ている。王様が権力を持って臣下を支配している。そういうイメージに近い。プラトンは。

 でもアリストテレスは「支配」という言葉、「アルケー」という言葉。その動詞形アルケインは、いままで支配と訳しているけど、この訳語では強制関係が含まれるから、それはまずい。さっきのクリオスと同じ問題だけれど、アルケーは第一人者の意味。これと同じ意味がラテン語にもあってプリンキパートゥス。これも統治、支配の意味。これを分解するとプリンケ。これはプリムス、第一。これがアリストテレスの支配という言葉にでてくるもの。人が人を動かすというイメージが、プラトンとアリストテレスでは根本的に違う。男と女の関係で動かす動かされるという関係と奴隷主と奴隷の動かす関係がまったく違う。

その3へ続く


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