第1回講義録3

― 「支配」のありかたが家族・国家を決める ―

荒谷:質問からはいって良いですか。冒頭アメリカの二大政党の話がありましたけど、家族の問題が重要だというのを演繹していくと、国家の話ができると思ったのです。でも午前最後の話で規模の大小ではないという。それは階層が違う話なのかもしれないけど、よく分からなくなった。つまり家族の重要性を論じると国家が見えてくるわけではないということですか。

荒木:家族の重要性を論じると国家がみえてくるんですよ。

荒谷:さっきの終わりの話だと、家族を演繹していくと国家になるというのはプラトン的だと。

荒木:家族の見え方がプラトンの見え方とアリストテレスの見え方と違う。プラトンの見え方は家父長が奴隷的に支配するかたちで家族を見ている。そうするとプラトンのように家族を見ちゃうと、プラトン的な国家の見方も国家のボスが被支配者を奴隷主的に支配する。プラトン的な家族・国家の見方と、アリストテレス的家族・国家の見方は違う。それを二章で具体的に見ていきましょう。

伊藤:む一、(笑い)。

(朗読:第二章)さて、発生した事柄をその根源から見るならば、人は、他の事柄におけるのと同様に、この事柄においても、このような方法によって非常に明瞭に考察することができるであろう。そこで、まず第一に、お互いに他のものがなければ存在できないようなものは、合体して一体となることは必然的なことであって、たとえば女と男が子を作るために一体となるのがそれである(これは選択から出たことではなく、他の動物や植物におけるのと同様に、自分と同じようなものをもう一つ残そうとする欲求であり、これは自然本性的なことである)。また自然本性的に統治者である者と自然本性的に被治者である者とが一体となるのも必然的なことであり、両者はその安泰のためにそうするのである。というのは、一方でその知性の力によって洞察することができる人は、自然本性的に統治者であり、自然本性的に奴隷主であるが、他方、(洞察されたことを)肉体を使って労役として行うことができる者は、自然本性的に被治者であり、自然本性的に奴隷である。それゆえ、奴隷主と奴隷にとっては、同じ事柄が共通の益となるのである。従ってまた女性と奴隷とは自然本性的に区別されるものである。(というのは、自然は、銅細工師がデルフィの小刀を作るようなしみったれたやり方で物を作るのではなく、一つの物を一つの目的にかなうように作るものであるから。実際、道具の各々は、それが多くの仕事にではなく一つの仕事に役立つように作られる時、最も見事に作り上げられる。しかし野蛮人(バルバロイ)の間では、女性と奴隷とは同じ地位にある。その理由は、野蛮人達は、自然本性的に統治者である者を持っておらず、彼らの共同的結合は、男奴隷と女奴隷のそれとなるからである。それゆえ、詩人達は、野蛮人と奴隷は本性上同一であるとして、「ギリシャ人が野蛮人を支配するのは当然のこと」と言っているのである。

― 多義的に用いられる「フュシス」(自然本性) ―

荒木:むずかしいんですよ。わかりにくいんだろうなあ。プラトンがなぜ誤解したのかという問題に関わってくるんだけど、あの自然本性という言葉もむずかしいんです。これには「自然によって」という訳が多い。フュシスというギリシャ語が非常に多義的に用いられている。木の実がフュシスというんです。見たら死んでいるように見えるけど、蒔いて水をやると芽が出てくる。つまり「その実のなかにみずから生長する力を宿したもの」という意味。これがフュシスであり。タネは蒔けば芽が出てくる。これはきっとタネに力があるにちがいない。それを全宇宙に拡大して考えると大自然になる。アリストテレスの時代は地球を中心にして天体が回っている。で円運動をしながらいろんな力が与えられているということを見ている。たとえば潮の満ち引きだとか太陽のエネルギーが注いていることとか。宇宙全体が動いているものだという理解がギリシャ人のなかにあって、みずから動いていると。で、その中にある生命体、たとえば植物だとか動物だとか、これも成長する力を宿したものだから、自然だ。

 もうひとつは、ここはむずかしいところで、自然的動物的自然の中に、人間的自然というものがある。これはアリストテレスが人間的自然というところに至ったときに、これは人間の自然本性になってきて、これを突き詰めていくと「ロゴス」なんです。また理性ともいう。こういう重構造を持っているものだから、すごくわかりにくい。

 最初に読んでもらったところで、まず男と女の話があります。これは本能的な自然本性の力。男女が一体になるのは自然本能的な力で、こういう場合にも自然本性的といい方をしている。本能的というふうに解釈していくと、途中でわけがわからなくなってくる。たとえば、「一方は知性の力により~」これは本能とどんな関係があるのか、ということになる。

 アリストテレスの自然本性という意味がそこになってくるとずれてくる。その場合の自然本性はまさにこれ。自然本性的レベルで未完成なものと完成されたものを分ける。完成されたものがロゴスをもてる。完成されていないものが奴隷なんだというふうに分けた。で、女はどうかというと、この関係の中に入っている。男も女も。だからややこしくなって、男と女の問題が結合して一体になるのはある意味で本能的なものだという。だからアリストテレスにおいて男と女の問題で誤解を生むことになるのはここにあって、この部分だけ取り出すと「男と女の関係は本能的なものだとアリストテレスはいっているじゃないか」ということになる。

 ところが、ここにはなくてニコマコス倫理学によく出てくるのですが、男女が一体になるのは本能的なところもあるんだけれど、特に人間の男と女が一体になるのは本能的なものを超えた喜びがあるといういいかたをしている。そうすると、人間における男と女の結合というのは、動物の雄と雌の結合を超えた一体化を持つということになっている。そこのところもアリストテレスは自然本性という言葉で表現している。

松下:理解というか想像なんですけど、アリストテレスが現実の人間を見たときに、どうしても自然本性的なものがあると定義しないと理解できないことがある。で、つき詰めていくと理性的な部分と動物的な部分に分かれざるをえない。そこまでいって、それを整理して説明するとこういう文章になると。こういうことですかね。

荒木:う一ん、まあ、そうでしょうね。

松下:全体的に理性的な部分も動物的な部分も含めて、全体的に完成されたものと未完成のものが当然ある。そういう意味では男と女という区別は意味があると理解して良いのか。

荒木:a-30というところに、「これは自然本性的~」、これは前の文章でいうと、動物や植物の場合と同様に、」これは、こっち(第一次=自然そのもの)ですね。また、以下の「自然本性的に治者であるもの、また自然本性的に被治者であるもの~」の自然本性的というのはこれ(第二次=人間の理性が命ずるもの、知性)なんです。ここの区別をアリストテレスがきちっと書いていないものだから、治者と被治者がいるのがあくまで(第一次の)自然本性的なものだと読んでしまう可能性があるのですね。

― 自然本性的なリーダーとは ―

松下:現実の人を見ているとき、「この人はリーダーじゃないな」とか、「この人はリーダー的な人だな」というのはありますね。

荒木:あります。それが下に出てくるんです。つまり知性を持って統率できる人が自然本性的な治者、そうではなくて、統率されたことを肉体を以て労役としておこなうことができるものは、つまり充分に知性的な能力がない人間は被治者だ。

伊藤:これはフュシスの訳し方に問題があるのじゃないか。たとえばこの人間の自然本性という所を人間の本性的にというと、ぼくにはずっとわかりやすい。本性という言葉がつくことで何となく本能的な、上の方に引っ張られるんだけど。これが「本性的に」というのならこれなんだけど。その人の能力、その人の器というもので、「この人はリーダーだ」「この人はリーダーじゃない」というのはわかる。

荒木:なぜなら、これがみな「フュシス」という言葉だから。だからフュシスというのが自然という理解が重層的であるということを頭に置いて理解しなくては読めない。

伊藤:どこで読んだか覚えてないけど、自然界にあるものは一定の法則に基づいているからという文章のなかで、家畜と区別している。で、それはどういう関係性なのか? 

荒木:ここ(人間的自然)でしょう。むずかしいことですが、前に自然法といったでしょう。ヨーロッパの自然法は第一次的自然法と第二次的自然法がある。第一次的白然法というのがまさに自然そのもの。第二次的自然法というのは自然的な命令に従いながら、人間の理性が、自然本性の命ずるもの、という理解があるんです。

 だから、奴隷制がそうなんです。ギリシャ人自身もここでバルバロイ(野蛮人)と自分たちを区別している。ギリシャ人にとってバルバロイが何を話しているか理解できないから、文化を持っていないから、自然と自分たちと持っている能力が違うと思っている。そうすると、なんとなく生まれもって違っているんだと。言語は全然できないし能力が低いと。こういうふうにギリシャ人たちは他の民族を見ている。奴隷のことを。だからギリシャ人が野蛮人を支配するのは当然のことだと。

 ところが、アリストテレスの文章は入り組んでいるんだけれど、本当はそうじゃないよといいたい。本当は二次的に奴隷と私たちは区別されるんですよと。なぜかというと、奴隷は、知性がない人間が奴隷であって、知性のある人間が奴隷の主人なんだと私たちは区別しているんだよ。というと、後に困難が生じてきますよね。なぜかというと「奴隷のなかから知性のある奴が出てきたらどうするんだ」という話が可能となるから。

 だから奴隷制というのはあくまでも、人間の当時の本性にしたがって、知性のあるものと知性のないものを区別したということ、この奴隷制度が人為的なものなんだということをアリストテレスはいいたい。それはぼくはここにも書いたんですが、アリストテレスが遺言状で書いていることは、奴隷をいっぱい買ってきたけど、みんなよくしてくれた。能力もある者については解放したんです。もしこっち(単純な生まれつきの奴隷という見方――第一次的自然法の区別)ならこんなことはいえないわけなんでしょ。そうじゃない。

 だからこれを後世、二次的自然法といったり、あるいは万民法といったりする。当時の人たちは、奴隷制を自然的なものだろうとみて制度をつくってしまったと。だから奴隷制が認められるのは万民法的レベルなんです。でもそれは当時の人たちに取っては当たり前のことだとみている。こういうことを考えたことによって、後世、奴隷制というものが奴隷的精神というものに読み替えられていくきっかけを与えたと私は考えています。

― 動物と人間を区別するロゴス ―

伊藤:さっきの動植物と家畜の関係というのを、これは奴隷と同じだといっているでしょう。奴隷よりも一定の法則によって自然の動植物は上だと。

荒木:野獣よりも家畜の方が上だということ?

伊藤:いやいや逆、野獣や植物は自然の法則に則っているけど、奴隷と家畜というのはそうではない。という書き方。

荒木:それは人間が飼育をするとかということね。それはそのほうが家畜や奴隷にとっても利益になるから。

伊藤:苦労しないでメシが食える、ということ。

荒木:安全が確保されるということ。

三村:社畜だ(笑い)。

伊藤:未完成、完成という対立関係で、理性的な面で自由人を分けるのであれば、同じ動物であっても自然界にある動物と家畜の関係はどうなのか。

荒木:むしろ家畜にとっては人間に飼育される方が野獣よりも安全でいい。彼らに取って利益になるだろうと。

伊藤:その区別になるのがロゴスか、理性があるのか。

荒木:だからアリストテレスにむずかしいいい方があって、動物の中でも学習能力のある動物もいるといっている。もっと端的にいうと動物のなかも分業と協業が行われていると、たとえばミツバチだとか。そういういいかたをして、そうでない動物を区別してみたり。アリストテレスはもう一方で動物学者でもあるから。動物の方でも動物史という大きな体系を作っている。

伊藤:たとえば群れがあってボスがいるというのは、これに関係しているのか。

荒木:あるある。動物史に出てくるのはアリだとか鶴だとか、ミツバチというのは分業と協業があったり、リーダーがいたりして、ポリティーケーなありかたといっている。そこで根本的に違うのは、動物には「快苦」しか認識できない。つまり苦しみとか喜びの表現とかね。なんか叫び声を出すんだけど、それはサインにしか過ぎない。ロゴスではない。

 ではロゴスとは何かというと、ロゴスと彼がいったときは、ふたつある。ひとつは自分にとって有益か無益かということ。これは道具的ですよね。自分に取って役立つかどうか区別できる理性。もうひとつは正しいか不正か。これは規範能力なんですよね。道具的理性というのはたとえ猿でも学習させると道具をつかって木の実を落とすとかできる。なぜかというと目的と手段の関係を合理的にある程度選択する能力がある。もちろんレベルは非常に低いのですが。それを持っているということがロゴスを持っているということで重要だといっているんです。

 もうひとつ決定的なことをいっている。正しいか正しくないかを人間がロゴスを持つことによって直感的に判断する力、われわれが人を見て、「あ、こいつは頭が良い」というときに、目的手段関係をたちどころに計算してしまう、いわば計算合理性がロゴスにある。事実ロゴスという言葉は計算という意味もある。あるいは比例配分という。もうひとつは政治学の面でいうと目的を実現するために手段を正しく認識すること。手段が正しくないと政治的な政策が決定されない。その前提として目的そのものが正しいか正しくないかを直観的に判断できる、これは動物にはない。

三村:日本の政治家は国会ではなんとなくやっているようにみえるけど(笑い)。

荒木:目的ですよね。目的が正しく置かれているかどうか。

松下:「一方でその知性の力で洞察」という、知性の力と洞察という両方のことば、これに洞察ができるということ、これが重要で、単に治世のカがあるだけではダメだと。洞察ができるところまでいかないといけない。

荒木:そう。

松下:元々持っている能力が動物的な能力と理性的能力があるんだけど、理性的な能力というのも単に頭が良いというだけではなく、洞察できる所まで持っている人が自然本性的に統治者だと言っているんですね。

荒木:そうですね。

伊藤:そういう事例はよくありますよね。

荒木:よくあります。「能力は高いんだけどね」といった場合(笑い)。またここで複雑な問題が出てくる。これは自然本性的に生まれつきなのか、その人の一定の努力を組み込んで習得したものを含めていっているのか。

― 3つの正(ディカイオン)~配分的正、矯正的正、交換的正 ―

松下:大きくなる樹のタネでも、置く場所によっては大きくなれないということもある。そういう能力を持っていると思わせる部分はありますよね。この人だったら大きく開花するだろうなというような。さっきいった正、不正だとか、先ほどの規範だとか、直感的にわかるのが知性だとすれば、言葉としてはわかるけど、この正、不正というものの中身はなんなのか? 

荒木:これは結局この言葉は、正(ディカイオン)というときには、人間が何をもって正というかというと、『ニコマコス倫理学』の所にでてくる。大きく分けて3つに分けている。ひとつは配分的正、矯正的正、交換的正。

 配分的正とはたとえば餅を兄弟で分けるとき、家族における兄弟の貢献度によって分ける。兄だからたくさんもらうのではなく、兄に相応しい貢献を家にしたときには少し多くもらえる。成果主義だけど、何を以て成果とするかというと全体に対する貢献なんです。貢献に対して比例的に分け与える。これを人間はプリミティブな段階でやっているわけですよね。比例配分的なことは正しいと。

 もうひとつは法律でいって「目には目を」をいうか、被害を受けたらそれに対して賠償するというのが矯正的。交換的というのはまさにギブアンドテイクである。だから人間が正しいということをいうと、この3つの分野において直感的に一定の判断に達するだろうと考えている。

伊藤:これを自分の職場での関係に当てはめようとやってみたけど、あまりうまくいかなかった。

荒木:たとえばどういうこと? 

伊藤:さっき成果主義という発想があったけど、それは全体の利益があってそれを配分すると公平性があると。じゃ損害賠償とはなんだと。

荒木:それは会社に損失や損害をもたらした社員はそれを償うことを命じたとしても、会社の命令は正しい。

伊藤:会社というものが給料というものがあるから、それに対してバランスを取るというのがギブアンドテイク。

松下:この正、不正というのは、個人の問題ではなく、共同的な結合体の維持というか、それをよりよくするためのものか。

荒木:もちろん。それがないと、共同性が維持できない。

松下:だから個人の倫理的な正、不正というのとちょっと違うのか。

荒木:いや、そこに難しい問題があって、システムとしていっているけど、そのシステム側から考える正と、それを支える構成員の側から見る正義感とか、権利とかが存在する。こういうことを要求することは正しい」と構成員が思うわけです。だからそれが権利になる。それが満たされなければ権利が満たされていないと思うわけです。

三村:これはよくいわれる義理人情や道徳というものをもちこむと話がややこしくなるのですか。

荒木:義理人情とはなんでしょうか。

三村:ちょっと飛躍しすぎかもしれませんね。たとえば自由と正義といった場合、その正義は社会に対する倫理観といってもいいのか。

荒木:これが根幹の基本的倫理なんです。こういうシステムとこういうシステムを担う正義感とか権利意識がないと社会が成り立たないと。

伊藤:正と正義は一緒なのか。

荒木:正義はシステムを支える共同主観。正が個人の内面に入ったときに正義感とか正義意識になる。

松下:方法論と意識の問題をいっているんですね。

荒木:そうです。正義感とか権利意識を強くいったら、道徳にもなる。「こういうルールを維持しよう」となったら道徳になるんです。

伊藤:これは根幹のとこなんだね。

その4へ続く


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