第1回講義録4

― 秩序を維持する能力がロゴス ―

荒木:人間が秩序というものの根幹を維持しようとする意識を養っていくのが道徳なんだ。それをやれる能力がロゴスなんです。そういうことをローマ人はひとことでいったんです。“constant et perpetwa voluntas suum quique tribuendi”というのを日本語に訳すると「各人に各人のものを与える持続的永続的な意志が政治道徳、正義、規範の根幹」。これはローマ法の根幹。各人に各人のものをという、何が各人のものかというと、さっきの配分的正によれば全体に対する貢献。矯正的というのは自分が受けた損害を取り戻そうというもの。交換的正義とはギブアンドテイクで、自分が何かを与えたら、それに交換してもらったものが各人のものになる。

 で、コイノーニアの根底を支える人間道徳っていうものがあるんだけど、さらにその根底に横たわっているものは、いままで出てきたんだけど、こういう正義をお互いに期待できるだろうという信頼感、根本的な人間の規範というのは何かというと友愛、フィリア。正義を支えるものが友愛。お互いにギスギスして要求するばかりでは真の正義は作れない。互いに信頼関係というものがある、これが正義というものを成り立たせる。これが『ニコマコス倫理学』のもっとも中心的な考えになる。さきほど出た、いわゆる日本人的な義理人情がこれにあたるんです。義理人情があって信頼関係があったときに、さっきいった政治的正義と、それを支える人間というものが組み立てられていくんだと。

松下:日本的にいえば、自分の「分」をわきまえると理解して良いのか。

荒木:分?

松下:各人に各人のものを与えるということは・・・・・・

伊藤:過大に要求しないということ。

荒木:そういうことね。そうそう。過大に要求すると正義に反するから。

伊藤:正義に反するということですよね。絶対的な価値を認めなければ正義にならない。

荒木:絶対的価値・・・・・・

伊藤:人が自分の価値を、客観的に把握しなくちゃならない。

荒木:そうだね。

伊藤:で、自分の価値を認めるためにロゴスがあるんだよね。

荒木:そういうことです。

松下:分をわきまえなさいというのがないといけないんだね。

伊藤:それを知るのが非常に重要だと思うのだけれど、ぼくの個人としてもそう。

荒木:アングロサクソンの、きょうの最初の議論でもそうだけれど、分をわきまえるといういい方をするときに、全体と個の関係でいくと、全体をまずイメージ浮かべて、それから個がどれだけの位置にあるのかというのが分をわきまえるという意識でしょう。

松下:いまいっている意味は、そこだけじゃなくって、むしろ自然本性的に、自分というのはひとそれぞれもって生まれたものが違ういうこともふまえて、相手がここまでだからぼくも、というものではない。

荒木:そういう意味でいっているのか。それはまた違う。そういう意味で分をわきまえるという意味は、これまた別のレベルの話になっていって、あの、人間の自然本性の理解による。

 アリストテレスの理解は、人間がもっとも完成されたときの力量のことをいっている。そうすると自分がどこまで完成された力量を達するのかというのは、完全には分からない。つまり自分の分がどこにあるのかというのは、それこそ試行錯誤のなかで、自分の能力を高めていくということでしか認識できない。そこを分をわきまえるといういい方にしてしてしまうとあきらめとかにいってしまう。それはアリストテレスの倫理観とも違ってくるんです。

伊藤:完成された時の力量に向かって努力するプロセスをどう考えたらいいのか。

荒木:それはね。

伊藤:ぼくのなかではどっちかというと全体の中の個なんです。そういうつもりでいっていたんです。

松下:ぼくは両方含めた意味で、日本語の両方含めた意味でいっていたんです。

荒木:じつは萌芽状態から成長していく過程のことを…、これは、むしろ『ニコマコス倫理学』のそのものの中に入っていくんだけど、人間の本性といったとき、本性にふたつあって、可能性と現実態という完成された力量があって、可能性から現実態に常に努力して、これが人間の徳。

松下:さっきいったことは、10ぺ一ジに「洞察」といったことばがあるから。その知性のカだけでなく洞察という言葉があるので、正義だとか正義をさせる友愛があったとすれば、知性のカで洞察する、そういうふうに考えた。ただそこまでできるのは統治者だと。洞察という言葉に引っかかっていた。

荒木:ギリシャ語で洞察するということをプロオランといい方になっていて、ぼくは洞察と訳したけど、本当の意味は先を見るということなんだよね。プロというのは先という意味で、知性はギリシャ語でディアノイアというのだけれど、要するに識別して混沌とした状態を整理して、その上で先を見通すという意味がある。

伊藤:一般的な理解も同じだね。

― 全体を洞察する能力と「分」を守るということ ―

荒木:だから話が戻るけど、統治者と被統治者というのは知性の洞察カのある人が全体を権威をもって治めることができる。それが自然本性的にあるといういい方をしている。ではそれがどういう形であるのかというと、自分の努力も含めて自己完成を遂げたときにそういう洞察能力を持てるようになった人が統治者なんですよ。

松下:正義を支えるのは友愛、友愛が正義を支える。で、コイノーニアの構成員が被統治的行為、とりわけ正義と友愛をもったときに、コイノーニアが形成される。でそのときに正義を支えるものが友愛であり、その構成員の中に統治者と被統治者のがあるときに、統治者にさっきいった能力があったときに、友愛が生まれるのは、それぞれがそれなりに洞察カがある、直感的に理解しないとならない。それがないとコイノーニアが成立しない。たとえばある人が有力なポストにいたと。一方が権力のないポストにいた場合、権力をもって統治しているわけではないんですが、友愛がもてるのは、まさに自分というものが全体に理解する洞察力がなくてはうまくいかないと、いうようなことで、それを「分」という日本語で考えてみた。

荒木:なるほどなるほど。でここでのアリストテレスの文脈は、男と女の関係に要約していっているのですが、家族のなかで夫であり妻である関係をどういうっているのかというと、夫の方が知的な洞察カがなくちゃいかんといっている。夫に洞察カがないと妻を説得できない(爆笑)。子供も教育できない。これがなければ、もう暴力、ディスポテイクな暴力になって家庭を破壊する。ここにもどるわけ。

 もうひとつアリストテレスは夫である人間が奴隷を使いますよね、奴隷も人間なんです。人間である以上正しいことを命令すれば聞き分ける能力があるといっている。奴隷もバカだったらダメなんですが。つまり動物であってはだめ。正しい命令を出せば、奴隷も従うという意味で奴隷主は正しい命令を出さなくちゃならない。そうすると奴隷と奴隷主の関係はコイノーニア関係に入るわけです。

 このふたつが最初の10頁の下から4行目の、これが家になるんです。ですからアリストテレスは男に対して結構厳しい要求をしているんです。この洞察力、知性による洞察力をもって家庭を治めなさいといっている。

秋山:これが統治者のあるべき姿だと。

荒木:そう、それがまさに家なんです。これが根源になってくる。プラトンの場合は、あえていうと、この知性による到達の中身がね、プラトンの場合ものすごく技術的合理性なんです。統治技術者というべきか、先ほどの家でいうと家畜でいえば家畜の主なんです。で統治される人間は家畜であると。だから家畜統治者は統治術を磨けという。

秋山:コイノーニアはいらないと。

荒木:コイノーニアが現実には成立しなかった。

秋山:コイノーニアがなくても家畜なら統治できるということ。

― ロゴスは技術的合理性プラス規範的合理性、正義 ―

荒木:そうそう。プラトンの場合は単純化するとそうなる。アリストテレスの場合は政治によって統治力を磨けということ。でこの知性の担い手がロゴス。ロゴスは技術的合理性プラス規範的合理性、正義を持たなくてはならない。こういうふうにまとまってくる。だから11頁の真ん中ぐらいに、人と妻を法によって治めるとあるでしょ。これは今の翻訳では妻と子を支配すると訳している。法によってという意味が欠如している。でもこれはテリステオマイというギリシャ語で、テリスという言葉は法という意味もある。だから要するに暴力によるのではなく、法という正義の体系によって治めなさい。

松下:話を聞いて間違っていたかなと思うのは、妻の側にも洞察力を求めたように感じたのだけど、夫の方に洞察カを求めて、妻の方には洞察力がなくてもいいということなのか。友愛の感情を持つということを、夫が妻に対して納得させるものがあればいいと。妻のレベルが低くても。

荒木:妻のレベルが低いということになると、夫の能力も認識できなくなるんです。双方性があるんです(爆笑)。アリストテレスの場合は夫婦が双方性の関係でなりたっているんです。そのなかで歴史的な側面があって、夫は戦争に行ったりなんかしなくては行けないし、議会に行かなくてはいけない。でも本質的なところで夫と妻の関係は正義によって妻を納得させることである。それによってしか家を統治できない。それを拡大してきたのが国家なんです。まあ、村はこの中に入る。

秋山:企業はどの辺ですか。

荒木:まあ、この辺(家庭と国家の中間)でしょうね。企業は国家と同じような全体的な利益ではないからね。だけど企業の中でも正義があるわけです。それは話は飛びますが、政治学のなかでは企業が、企業は私企業になるわけど、で私は国家に対して距離があるわけだから、公と対立した私的領域のなかでは社長が何をやっても許されるという考え方が割合政治学のなかで強かった。なぜかというと資本の持ち主が全権を握れるから。それは自分の所有物。それはこっちの問題(公の問題)に帰せないことだと考えられてきた。私的経済というのが単なる、エコノミーってあるでしょ。エコノミーはオイコスからきているんです。だから夫は奴隷に対しても妻に対しても、家父長的な全権の命令者だったと解釈されてきた。で、夫は国家に対しては公的に振る舞う。家のなかでは私的にふるまう。いうふうに分かれている。だから経済はオイコスのなかでの話だと。だから私的事柄だ。私経済だと理解されてきた。だから三井住友とか、家族経営の財閥が登場する。

三村:トヨタ(笑い)。

荒木:家族経営のものですよね、だいたい日本の企業体というのは。そうすると家のボスが決めていいということになるんです。という話になって、もし家を主人と奴隷に帰するような関係になったとしたら、主人が全部決めるわけ。ところがアリストテレスの『政治学』を読むと、オイコノミーというのは家の全体なんです。ということは妻は自由人、子も自由人。だから家の中の統治というのは、自由人の自由人に対する統治でなくてはならない。ということは、オイコス、オイコノミー、エコノミーの原理は、まさに自由人の自由人に対する統治に準じなくてはならない、という原則が本来追求されなくてはならない。そこにだから正があるし、正があるということは正をルール化した法があると。だからコンプライアンスという概念が生まれてくる。日本の伝統的な家族経営ではそういう概念がどこまで自覚されたかという問題があるんです。

三村:創業100年とか200年とかいう企業を見ている先生もいて、いまの近代的経営のなかでコンプライアンスの概念を考えている。奴隷の位置づけというのは、たしかにそうじゃない形態、もともとは静岡の人足、日払。いまだに「ちびまる子ちゃん」の生活みたいな、家族経営で公開しないという。それはいま日本の最前線の企業委倫理概念を持っている。全員の職員の生活を豊かにするというのが基本にある。

伊藤:いま家訓というのも、小さな組織とは23万人になってもここに立ち戻れるんです。結局家から村になってなかでの統治のルールも、それがあるかないかは大きい。

― 家、企業、国家における統治のルール ―

荒木:法というものも中に入っているんだけど。ある意味ではオープンに展開できる。ではそれはまさに難しい問題で、家と国家が根本的に違うということなんです。何かというと家と国家を比べると、国家はまさに法による正義なんです。家は家長による統治空間なんです。だから要するに同族支配が生じますが、強制力がないんです。その延長線上に企業があるとすると、もうちょっと法的なものに近いものが入ってくると、その差は大きいわけです。

三村:企業のワールドワイドな活動のなかで、グローバルスタンダードのなかで日本企業がどうなっていくのか、コンプライアンスをどうするのか、ガバナンスをどうするのかというのはまさに規範、ルールを日本的にどう持って行くのかということなんですよね。

松下:夫婦げんかで妻が夫に「わたしはあんたのなんなのよ」「妻だよ」「あんたの奴隷じゃないわよ」「妻だよ」「あんたの部下じゃないわよ、パートナーだよ」(爆笑)。

荒木:そこが日本の場合は揺れているんです。パートナーということが。そこがやっぱり日本の場合アジアも含めて、いまのこの関係と関係がミックスしている側面があるんです。パートナーだけれど、洞察力によって統治する、これが家なんだと。

三村:トヨタなんかは外から見ると家族的な部分が。

荒木:海外の場合は判らないけど、ロスチャイルドなんかも、割とアメリカの場合は多民族国家で州によって州法が違いますから、技術的な統治力を高めることによって。

三村:それもわかりやすいから、株主がすべてのカを持つというふうになっていく。

荒木:実際はヨーロッパの場合もアメリカの場合も企業の統治における家族の位置はそんなに低くない。経営体としてはあるけど。

三村:ああ、それはトヨタの場合を想定しているけれど。

荒木:ヨーロッパの場合はこれがしっかりしているけど、この下につながる社員とこのオーナーたちとの違いは明確なんじゃないか。これはオーナーたちの持っているものだと。そうでないと、あれだけ膨大な個人資産をアメリカが保持することができない。

三村:たしかに明確に分かれていて、従業員もそれを納得している。そこが前提。ただこれを経営者だけでなくて従業員にも積極的に配分していく。

荒木:だからぼくはよく分からないんだけど、アメリカとかアングロサクソン系の企業は、いわゆる自由主義体的なレベルと、自由人と奴隷のレベルに分かれていて、本当に経営的な部分とラインの部分に分かれていると。分けていることが合理的なことといわれている。それが本当に合理的かどうかは判らないけれど。それこそ成果主義でやれば、企業のロイヤリティは低くなります、全体として。

石井:ちなみにアリストテレスの妻はどんな人だったんですか。

荒木:わかってます。

石井:ソクラテスは悪妻だったと。

荒木:アリストテレスの妻はふたりいましてね。アリストテレスは、いまのトルコに出て、塾を作ったのだけど、トルコの独裁者の一族の女性と結婚した。すごく仲が良かったけれど妻が早く死んだ。で後妻をもらうんだけど、まだ若いんだけど、後妻に向かって「わたしの財産の多くは、みんなおまえにあげるけど、ただしお願いがあって、自分の墓に先妻の希望に従い自分と先妻を奉ってほしい」と。

石井:愛妻家だったんですね

荒木:アリストテレスの学問はただ単に議論になっているのではなく、自分自身がそういう関係を作っていこうと。後妻に対しても大きな財産をあたえるんです。また自分が死んだらまた別の男と結婚してもいいともいうんです。

伊藤:ほんとに変な質間なんだけども、自然本性的に奴隷的な妻を持った夫はどうしたらいいのか? 

荒木:自然本性的ななに? 

伊藤:つまり、本能本能のレベルでしか判断できないような妻を持ってしまった夫はどうしたらいいのかということ。自分の妻がそうだといっているわけじゃないけど、けっこうそういうケースをよく見聞するものだから。ただ子供をつくってただ生きているだけというような奥さんをお持ちの方もいらっしゃるので。

荒木:それはうまくいっているのかな? 

伊藤:うまくいっていない。まあ選んだ旦那の方に問題があるんじゃないのかな。

荒木:夫の統治能力は妻を見ればわかる。

松下:夫に統治能力があれば。

荒木:きょうのテーマとはちょっと離れるけど、「愛」とはなにかということにかかってくる。アリストテレスの愛は人間的なもので、動物的な愛ではないけれど、知性的活動なんです。ふつうわれわれの使う愛は欲求的な、自然生理的なものか、感性、感覚的なものに持っていく可能性があるけれど、アリストテレスの場合は知的な選択能力なんです。つまりある女性をパッと見て「いいな」というふうに思えなくては愛せないんです。ということはいいなと持ったことは知性の動きなんです。

伊藤:その知性がどういうタイプの知性なのか。

荒木:もちろん動物的な愛もあれば人間的な愛もあるし、人間的な愛も三段階ぐらいに分かれる。好意的愛、友愛的愛、それから自己放棄的愛も。

三村:愛の段階も高い低いがあるのか。

荒木:あります。もちろんだぶっている部分もあります

秋山:愛情の補足によって優劣の差を補わなければならない、と書いてあります。

荒木:まあ話があちこちにいって。

伊藤:あちこちいっても、どうですか? みなさん。

(終了)

*本講義録データは会員、秋山さんによって採録されたものです。
[日時]2004年12月10日、午前10時~午後4時
[場所]現代文化研究所会議室
[出席]秋山、荒木、荒谷、石井、石山、市川、伊藤、小川、松下(敏郎)、御園、三村、守永(敬称略)

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