― 午前の部 ―
石井:荒木先生の話を聞き書きふうにした新書が作れないか。タイトルは「幸福の壁」というのはどうだろうか?
伊藤:佐伯啓思なんかの本はわかりやすいじゃないか。
荒木:う一ん。ああいうのがわかりやすいのかなあ。じつは佐伯さんところの院生がぼくの本をテキストに使って学習会をしているんです。佐伯さんには悪いんじゃないかと。読みますか? 佐伯さんの本を。
石井:ええ。
伊藤:結構ボリュームがあるしね。
荒木:影響力がありますよね。
伊藤:基本的には正しいと思っている。
荒木:基本的におかしいと(笑い)思ってます。なかなかおもしろくって良いんだけど。
石井:わかりやすい。
荒木:わかりやすいんだけど、ただやっばり根幹であるような、国家の問題だとか市民の定義だとかかなり誤解があると思ってます。ヨーロッパの理解というか。そこのところを正さないとまずいんじゃないか。だから院生なんかは「どっちが良いのか」なんて論争している。
さて、やり方として、まずぼくの方からイントロダクションをして、あとはアリストテレスの政治学のテキストに従って解説を加えていきながらフリーディスカッションをしたい。どんな瞬間でもかまいませんから手を上げて「質問」と言ってほしい。そういう形でどんどん。話の流れはいっさい無視してしまってかまいません。どんなところでも、「なんかよく分からない」とかね。「こういうことを聞いてみたい」とかあれば手を上げてストップさせてください。
― アメリカという国のカタチを知るために ―
荒木:昨日の夜伊藤さんのところで半ば眠りながら、半ば覚醒しながら感じたことを2点だけ。なんでいまアリストテレスなのか、という問題との関連なのですが。ひとつはこれからの日本がどうしてもアメリカと真剣に向き合わなければいけない時代に入ってきたということじゃないか。もちろん、戦後日本はアメリカと向き合ってきたんだけれど、これからの日本というのは、いままでの日本とちがって、いわばまあ抜き差しならない形にアメリカとの関係が始まっているんじゃないかと。逆にいうと、アメリカもまた、まあゆとりがあるという状況ではなくなってきた。よけい日本に対して本音をもっとぶつけてくる、そういう時期に入ったのではないか。
その時にぼくたちが、アメリカの本音をどういうところで読むのか、という問題になったときに、アメリカという国のお国柄というか、アメリカという国のカタチをどう理解するのかに関わってくる。そういうときにいちばん大事なのは、アメリカの独立宣言と合衆国憲法なんですよね。で、彼らの発想の根幹はここにある。問題はこれらをどんなふうに読むかということ。ここにすごく大きな意見の違いが現れているんです。
まず自然法的な視点でいくと、アメリカという国は神が人間に対して与えたひとつの恩恵であると。そのときに合衆国憲法にしても独立宣言にしても、人間に対して自然法というものを神が与えた。そうしてその自然法が認めた人間側からの正当な欲求が自然権。だから身体の安全、財産、幸福を追求する権利は自然権。だからアメリカ人は国が最初にあるんじゃなくてこれが大事なんです。だからわれわれは身体の安全を保全する、幸福を自由に追求するとことがまずいちばん大切。だからそういうことを保証するために、相互の契約をして国家を作る。国家の価値よりも個人本人の価値といわれる根元がここにある。神が人間に与える基本的な権利なのだから、全世界万国共通なわけですよね。こういう考え方がある。これは基本的にはイギリスのジョン・ロックの考え方。イラク戦争なんかでも「アメリカは自由の国だ」という考えの根底にある。
これに反して、「自然権が与えられる前に、各人間が生活する上での秩序がある」という、自然権の前提に社会システムがあって、これを自然法という。そうすると神とか自然的な秩序というものが中心の思考になっていく。まず神が人間に国家というものを与えたという発想になっていくと、宗教的にいえば神中心、政治学的にいうと国家中心になっていくわけ。こういう解釈のぶれというものが。アメリカの考え方の根底にある。この考え方を主張する人に、レオ・シュトラウスだとかアラン・ブルームだとか。「アメリカンマインドの終焉」という本もありますけど。こういう人たちは全体としてだいたい共和党の保守的な人たち。これもまたアメリカのもっとも核心になる考え方です。
そういうものに対して、民主党のリベラルといわれる人たちの考えをうんと推し進めていくと、じつはカント、アリストテレスのある種の考え方につらなっていく。で、ここで変だけど、レオ・シュトラウスという人も「自分の考え方の基礎にアリストテレスがある」といっている。それはどういうことなのかというと、民主党や共和党という人たちの根元はアリストテレスまでいっちゃうんですよね。これから日本人がアメリカ人と真剣に向き合っていこうとするなかで、目の前の政策がどうこういう前に、それを超えて本気になって来たときに出てくるのはアリストテレスの解釈の違いという形で現れてくる。
こっちの(共和党)の考え方はエリート連の公共的徳。「庶民は全体のことを考えていない。エリート違が全体のことを考えて行動するんだということをアリストテレスが一番いいたいことなんだ」というものなんですね。一方の(民主党)の解釈は「アリストテレスはじつは中流、下流の人たちの意見を政治の基礎にすべきという考え」だという。アメリカ人の本音をたどると、アリストテレスをどう理解するかということに行き着くんじゃないかという気がする。
実際日本の学会ではアリストテレスの政治学は本格的に研究されているわけではないのですが、アメリカでは現在ものすごい勢いで政治学の研究が進んでいて、しかもあまり紹介されていないけれど、アメリカっていう国は最先端技術、それにものすごくお金を投じていることは確かだけど、でもアリストテレスの政治学や倫理学の研究も多くの人材を投じて行っている。世界の出版のなかで、アリストテレス関係の本が多いのはアメリカ。これから日本人がものを考えていくベースのひとつとしてアリストテレスは避けて通れないくなるだろうと思います。
― 家族の問題が政治のレベルでも重要に ―
もうひとつは、今回のブッシュ勝利の原因。いろいろな説がありますが、新聞では「アメリカ社会がふたつに分裂した」っていう話がありますね。実際そのような状態で、アメリカを見ますと、東海岸と西海岸は民主党が強く、中部と南部がブッシュが強い。中南部でブッシュがどうして強いのかというと、これはよくいわれるように宗教地帯なんですよ。産児制限や避妊だとか、そういうものを許さない。同性愛結婚は絶対ダメという考え方。でこの辺はカトリックが非常に強い。もうひとつはプロテスタントの中のファンダメンタル、要するに「聖書に書かれたことはすべて真実だから、その通りにやらなければならない」ということ。こういう人が何を考えているかというと、結局家族問題なんですよね。
一方のリベラルというのは人間の中で一番大事なのは「自由意志」だと。根元的に何をやっても許される。一番問題なのは産児制限や同性愛結婚も自由だと民主党の人は考え、共和党は断固としてここに反対するわけです。
つまりアメリカの大統領選挙を分けたのは、イラク戦争もひとつにはあるけれど、「家」の問題、「家族」の問題もどういうふうに考えたらいいのかということもすごく大きな問題に浮上している。中国もひとりっ子政策をやっていて、その矛盾が噴出している。
つまり21世紀では人間にとってもっとも自然な第一次的共同体である家族をどうするか、ということがアメリカでも中国でも問われている。家族という問題を正面に見据えて考えざるを得ない状況が世界的になっている。しかし、日本もいろんな問題が出てきて、家族問題が出てきていますが、政治のレベルで家族をどうするかと真正面にアプローチする考えがないんです。
いろいろ考えていくと、ぼくはそのときには原点に帰って家族の問題を考え直す必要があるんじゃないかと。ひとつはヨーロッパやアメリカでは聖書。キリスト教の問題を考える。それからもうひとつはアリストテレス。アリストテレスについて彼がどういうふうに家族について議論しているのか、いうことが大きなテーマになっている。前に書いた『思想』の原稿でもふれましたが、「家族」や「男女問題」がいまや焦点になったということ。それで本も書かなくてはならない。
伊藤:アスペンセミナーからトヨタの奥田に対して招待状が来た。ウェルチだとか著名人が集まるなかで、奥田にも来てほしいと。で何を議論するかというと「プラトン」を議論しようと。で、「なんのことやらわからん」と思いましたね。「われわれ商売の人間は誰もプラトンなんか勉強していない」と断った。自分でやったことだけど。でも経営者がそういう問題を語らなければいけないという状況にあるこということは分かったけど、ではなぜかというと分からなかった。で今の話を聞くと、アリストテレスを勉強する動機のは何となくわかる。政治の話をして国家の基本というのはあるけれども、経済もマーケットは家族ですから、いまの話はすごくよく分かった。
荒木:ただ、単なる経済のくくりというものをアメリカの経営者が超えちゃっている。経営者という視点でなく、自国の統治者として統治責任者として考えている。すでに。だからひとつの統治体としての企業をどうするかという問題に、奥田さんに来て貰いたいというのではなく、これからの日本の企業経営者達は日本の国家とか世界の秩序に対してどういう見識を持つかということだったろうとぼくは思う。なぜならぼくはアメリカのエリート連の経歴を見てみると大学と政府の中枢とここがツーツーというか、大学を出て、日本でいうと審議官クラスが政府に行ってまた大学に戻るとか、そういう人事交流が常態化している。そうすると企業の経営者もそういう状況に置かれていくから自分の企業がどうこういうこともあるけど、それを超えて国のことをどうするかという発想に立たざるを得なくなる。そうなると企業の論理を超えた政治の論理、政治哲学。でヨーロッパ人の政治哲学を見るとかならずプラトンとアリストテレス抜きに根源的な問題を考えられない。
― ものごとの根源を考えるためのアリストテレス理解 ―
昨日の話で、「ドグマってどういうことですか」と質問された。ドグマはギリシャ語でいうとドクサ。opinionという意味。これに関してプラトンとアリストテレスの間でオピニオンを巡る議論がある。プラトンの見解に立てば、世論とかオピニオンというのはあまり重視してはいけない。むしろその道の専門家がちゃんとした勉強をして技術を磨いて合理的な判断を使って作った考え方の方がオピニオンよりはいい。それに対してアリストテレスは、「いやどんなに専門家が構築した精緻な議論であっても、結局政治の世界に置かれればオピニオンの方が真理を含んでいる」という議論がある。そういう意味で世論に対して、どういうスタンスを取るかはプラトンやアリストテレスを見直してみると良いと思う。
ぼくが心配するのは日本の企業家達が企業の統治を超えた国家の統治を考え、日本の経営者達もちゃんとした見解をもってほしいと。当然プラトンやアリストテレスについては、各人の考え方があって、それについて見解が聞きたいという時代になったんじゃないか。
三村:わたしは仕事でアスペン研究所を見に行ったのですが、そのときにサッチャーが来ていた。何をしに来たのかというとローマ法の勉強をしに来たと。そういわれたときになんのことか分からなかった。で、研究所自体は素朴で、カリキュラム自体も「経営戦略がどうした」ではなく、古典に時間をかける。日本ではこの辺りがまだプアーだなあと。
荒木:EU憲法の序文に、ギリシャ語がそのまま入っているんですね。でこれはツキデデスの文章です。これは「われわれはある国家体制に恩恵を被っている。それはどういう国家体制か、というと少数ではなく多数によって統治されている国家体制です。これこそデモクラシーである。」ところが一字翻訳が抜けている。真ん中に「ノーマ」が抜けている。これは「名前のうえでは」という意味だが、「これは”名前の上では”デモクラシーといわれる」という意味。これがあるとないではまったく意味が逆になる。名前の上でのデモクラシーとは実際は有徳者による統治という意味を持ってくる。いずれにしてもEU統合を考える人たちの共通の文書です。
でローマ法にしてもなぜいま重要なのかというと、ここに初めて法的な意味での正義という定義が定着化してきた。ギリシャ人のなかで正義という考えがいろいろ出てきて、それを集めてローマ人が司法だとか取引だとか国家間の関係を構築していくわけです。だからヨーロッパ人の考え方の根本的な資産がローマ法であると。それを社会のリーダーが繰り返しいろんな角度から継承していく。
秋山:アスペンのホームページを見ていると参加者の声で「勉強になった」という声と、「これが実際のビジネスでどう役に立つんだ」という意見に二分されている。
三村:アスペンに行ったとき感じたのは、町の中に黒人がひとりもいないということ。これは印象に残りました。
伊藤:アスペンは日本にもあって、50~60万取るんです(笑い)。それに行った友人もいます。それを見ている限りでは「なんの実効性もないな」(笑い)と。なんのビジネスのためにと考えていった人だから、あまり得るものがなかったんじゃないかと。たぶんぼくが5年前に行ってもそうだったろうと。形態が全然違うということが分かった上で行くんなら意味があるんでしょうけど。
荒木:そういうふうに展開しないと。
伊藤:そうでしょうね。
三村:経営という視点だけで行っていると、「なんだ」と思うこともありますね。